至宝の残響
猛吹雪の咆哮が、廃屋の厚い石壁を叩き続けている。
ハンスが「帝国の動き」を口にしてから、廃屋の中の空気は目に見えて鋭利なものへと変わった。ハンスはこれまで以上に頻繁に外出するようになり、エレナもまた、普段の明るさを保ちながらも、時折、不安げに窓の外を窺うようになっていた。
俺はといえば、ハンスの机に置かれた解剖図や古い魔法薬学の文献を、貪るように『解析』し続けていた。
(……人体の構造データ、更新。神経伝達のラグを補正するための魔力干渉術式。……なるほど、ハンスはこれを「直感」で行っていたのか)
右腕の感覚は、少しずつだが戻りつつある。
指先を一本ずつ、意図した通りに曲げることができるようになった。だが、それ以上に俺を焦らせているのは、ハンスの言う「至宝」――イシドールという魔導師の存在だ。
「……お兄ちゃん、無理しないで」
背後で、弱々しい声がした。
アイリスだ。彼女はいつの間にか目を覚まし、ベッドの上に身を起こしていた。濁った瞳は依然として光を捉えていないが、俺の気配を正確に感じ取っているようだった。
「アイリス。気分はどうだ」
「……うん。体が、すごく軽いよ。あの時……村で、お兄ちゃんが私を助けてくれた時とは、違う感じ」
俺は言葉に詰まった。
あの時の俺の『創造』は、彼女の魔力回路を強引に捩じ曲げ、ただ死なせないためだけの「固定」を施したものだった。それを、この廃屋の男は丁寧に解き、元の形へと繋ぎ直したのだ。
「先生の薬、効いたみたいだね。よかった」
エレナが、アイリスの肩に毛布をかけながら笑う。
「でも、外はまだ危ないからね。あんたたちを探してる人たちが、すぐそこまで来てるみたいだから」
「……エレナ。あんたたちまで巻き込むつもりはない。俺たちがここを出れば――」
「今さら何を言ってるのさ」
エレナは不意に真剣な表情になり、俺の言葉を遮った。
「先生はね、あんたの力を『見たい』わけじゃない。あんたがその力で、自分をどう定義するかを見守ってるだけだよ。……それに、ここを離れたって、あの『至宝』からは逃げられない」
その時だった。
廃屋全体が、巨大な鉄の槌で叩かれたような、凄まじい衝撃に揺れた。
(……!? 物理衝撃ではない。高密度の魔力による『空間の圧縮』か!)
解析回路を最大出力で回す。
廃屋の石壁に張り巡らされたハンスの隠蔽術式が、外側から剥がされていくのが見えた。
雪原の向こう側、吹雪を割って歩いてくる、白い軍服を纏った一団。その中心に、一人の男がいた。
「……見つけたぞ。世界の調和を乱す、忌まわしきバグめ」
男の声は、風の音に混じって鮮明に響いた。
金髪を短く整え、怜悧な美貌を湛えたその青年は、右手に持った白金の杖を静かに掲げる。
――解析。対象:イシドール。
――魔力出力、計測不能。
――術式構成:帝国式高次純粋魔法。
「……アイリス、エレナ! 奥へ行け!」
俺は、まだ完全に繋がりきっていない右腕を突き出した。
ハンスから学んだ「命の揺らぎ」を、魔力という名の構造に無理やり落とし込む。
「『解体』などさせんよ。……その不浄な手で、神の理に触れるな」
イシドールが杖を振るった。
瞬間、俺の目の前の空間が「凍結」した。
空気中の水分ではない。魔力そのものが、運動を止められ、結晶化しているのだ。
(……構造が……読み取れない!? 定義が、上書きされているのか)
俺の『創造』は、対象の構造を理解することから始まる。
だが、イシドールの魔法は、対象の構造そのものを「拒絶」し、帝国の法(魔法体系)へと強制的に変換させていた。
「……ハンス先生が、言っていた通りだ。……あんたの魔法は、美しすぎて、吐き気がする」
俺は、自分自身の右腕の魔力回路を、あえて「不安定」に揺さぶった。
確定した構造は消しやすい。だが、常に壊れ続け、変化し続ける「未完成の構造」なら――。
廃屋の扉が吹き飛び、吹雪と共に冷酷な光が室内に流れ込む。
アルド・ヴァイスと、帝国の至宝イシドール。
『創造』と『法』が激突する、最初の戦いの幕が上がった。




