構造の深淵
廃屋での五日が過ぎた。
窓の外は依然として猛吹雪が荒れ狂い、世界のすべてを白い沈黙の中に閉じ込めている。俺は、ハンスが設えた粗末な寝床の上で、ようやく上半身を起こし、室内を移動できるまでには回復していた。
だが、右腕の感覚だけは、依然として遠いままだ。
包帯を透かして視る『解析』の視界には、俺の血肉と、ハンスが施した外法に近い縫合跡が、一つの回路として不気味に融合している様が映り込む。
(……神経接合率、三八パーセント。魔力伝導率、回復傾向。だが――「構造」が歪んでいる)
俺は無意識に右の指先を動かそうとした。
ピクリ、とわずかに震える。だが、俺が「動け」と命じた方向とは、微かに異なる角度で指が跳ねた。脳の命令が、この継ぎ接ぎだらけの腕に正しく伝わっていない。
「無駄だ。今はまだ、その腕に意志を込めるな」
背後から、低く鋭い声が響いた。
ハンスだ。彼は部屋の中央にある古い木机に、無数の乾燥した草や、透明な液体で満たされた小瓶を並べていた。その手つきを俺の『解析』は逃さない。
(……解析。対象:ハンスの指先。座標、三、二、一。……!?)
脳の奥に、火花が走った。
解析回路が、彼の指の動きをトレースしようとした瞬間、情報が「真っ白」に塗り潰されたのだ。解析不能。データの上書き拒否。
「……何をした」
俺は額に浮いた汗を拭い、ハンスを睨みつけた。
解析を弾くような特殊な魔力など、この男には無いはずだ。魔力反応は依然として微弱。彼はただの人間だ。
「君のその『目』は、対象の外形と構成成分をなぞるだけだ。表面を撫でるだけの知識で、本質に触れられると思うな」
ハンスは顔を上げず、乳鉢で何かを摺りながら冷淡に告げた。
「君の『解析』は、対象を『静止したモノ』として扱っている。だが、命とは常に動き、絶えず壊れ、それを上回る速度で修復し続ける『揺らぎ』そのものだ。君が見ている数式の中に、その『揺らぎ』の項は入っているか?」
「……揺らぎだと?」
「そうだ。例えば、君が村で作ったあの『肉』だ。君は成分とカロリーを完璧に模倣したつもりだろうが、あれには『命の意志』が欠けていた。だから、それを食った人間は狂う。受け取ったエネルギーを、どこに向けて流せばいいか、その構造を君が描いていないからだ」
ハンスの言葉が、鋭い刃となって俺の肺腑を抉った。
俺が作った肉を食らっていた村人たちの、あの獣のような目。あれは飢えが満たされた悦びではなく、異物を胃に流し込まれた肉体の、悲鳴だったのか。
「……なら、どうすればいい。俺には、それしかできない。無から有を創るには、構造を確定させるしかないんだ」
「壊すのは簡単だ。構造の一点を見抜き、そこを『解体』すればいい。だが、繋ぐには――維持するには、その一点だけではなく、周囲のすべての関連性を把握しなければならない」
ハンスは立ち上がり、机の上から一枚の枯れかけた葉を取り出すと、俺の目の前に差し出した。
「これを『解析』してみろ。ただし、成分ではなく、『なぜこれが死のうとしているのか』という原因を探せ」
俺は言われるがまま、視界を青白いノイズへと沈めた。
対象:落葉。
構造:細胞壁の損壊。水分供給路の目詰まり。
(……いや、それだけじゃない。この葉の根元、葉柄の断面に――未知の魔力残滓がある。これは、誰かが意図的に――)
「……これは、誰かが意図的に壊したのか?」
「いいや。それが寿命という名の『構造』だ。神がこの世界の設計図に書き込んだ、唯一にして絶対の解体命令。……だが、俺たち医者は、その命令に逆らって、勝手に『構造』を書き足す不届き者だ」
ハンスの瞳に、一瞬だけ、帝国という巨大なシステムに牙を剥く反逆者の光が宿った。
その背後で、扉が小さく開いた。エレナが、温かい湯気の立つ鍋を抱えて入ってきた。
「先生、また難しい話をしてる。お兄さん、顔色が真っ青だよ。ほら、ハーブティー。ハンス先生が山で採ってきた、頭の疲れを和らげるやつ」
エレナが差し出したカップから、鼻を抜けるような清涼感のある香りが漂う。俺はそれを受け取り、一口啜った。解析回路の熱が、不思議と引いていく。
「……エレナ。あんたは、この男から何を教わっている」
「私? 私は、命を『素材』だと思わない方法かな。先生は厳しいけど、どんなにボロボロになった物でも、そこに『繋ぎたい』っていう気持ちがあれば、必ずやり方はあるって教えてくれるんだ」
エレナはアイリスの寝ている部屋の方を見やり、優しく笑った。
「アイリスちゃん、さっき指が動いたんだよ。お兄さんの名前、うなされながら呼んでた」
胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。
救ったつもりで壊し、直せないまま逃げ回り、今もこうして正体不明の男に命を預けている。俺の『創造』は、あまりにも無力だ。
「……ハンス。あんたの技術、俺に『解析』させろ。……いや、教えてくれ。俺の腕を繋いだ、その不格好で、泥臭い理を」
俺はハンスに向かって、震える左手を差し出した。
ハンスは乳鉢を置き、初めて俺の目を正面から見つめた。
「教えることはできん。……ただ、君が自ら気づくのを、邪魔はしない。……ただし、一つ忠告しておく」
ハンスの言葉が、急に温度を失った。
「帝国が、動き出した。この山を囲む魔力の波長が変わった。……君の『創造』が放った不自然な波紋を、彼らの魔導師団が見逃すはずがない。……イシドール、という名に聞き覚えはあるか?」
「……いや。聞いたこともない」
「帝国の至宝と呼ばれる魔導師だ。……君の『異能』を、最も嫌悪する種類の男だよ」
俺の視界の端で、窓の外の猛吹雪が、一瞬だけ不自然に揺らめいた。
静寂という名の平和が、終わりを告げようとしていた。
俺は残されたわずかな時間で、自分の右腕と、この世界の歪んだ構造を、さらに深く識らなければならなかった。




