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剥落する境界

意識の底から、青白いノイズが這い上がってくる。


(……システム、再起動。視覚情報の同期開始。エラーログ一、五〇〇件以上を確認。無視して実行)


暗闇の中に、火花のような幾何学模様が明滅した。網膜に直接突き刺さるような情報の奔流。俺、アルド・ヴァイスの意識が、ようやく自分の肉体という名の不完全な設計図に再接続された。


重い。全身が鉛に変わったかのように重い。

特に右腕は、熱した鉄を直接骨に埋め込まれたような、鈍く、それでいて激しい拍動を伴う痛みに支配されていた。


(……解析。右腕、橈骨および尺骨の微細な亀裂。筋組織の炭化。魔力回路の癒着率、九二パーセント。……誰かが、手を加えている)


俺は薄く目を開いた。

視界を覆っていた砂嵐が徐々に晴れ、代わりに石造りの天井と、そこに踊る不規則な橙色の光が映り込む。薪の爆ぜる乾いた音。そして、鼻を突くのは強烈な薬草の匂いだ。


「気がついた? お兄さん。あんまり急に動かないでね」


聞き慣れない、透き通った声がした。

俺は反射的に右腕を動かそうとしたが、焼けるような激痛が走り、思わず短く呻いた。


「言ったでしょ。先生がせっかく繋いだんだから、糸が切れちゃうよ」


視界の端から、一人の少女が覗き込んできた。

俺よりも少し年下だろうか。短く切り揃えられた髪に、汚れ一つない白いエプロン。その瞳は、この地獄のような帝国領ではまずお目にかかれないほど、澄み切っている。


(……解析。心拍、正常。呼吸、安定。魔力反応、微弱。初歩的な生活魔法の痕跡。……敵意、なし)


「……誰だ、あんたは。ここは……」


「私はエレナ。ハンス先生の助手だよ。あんたが担ぎ込まれた時は、もう死んじゃうんじゃないかってハラハラしたんだから。……はい、これ。先生が作った滋養剤。飲みなよ」


エレナと呼ばれた少女は、困ったように笑うと、小さな匙ですくった緑色の液体を俺の口元へ差し出した。泥を煮詰めたような苦い味がしたが、喉を通るたびに、狂っていた魔力の奔流が少しずつ静まっていくのを感じた。


「……アイリスは、どうした」


「アイリスちゃん? 隣のベッドで寝てるよ。あの子、すごく衰弱してたけど、先生が魔力回路を整えてくれたから。もうすぐ目を覚ますと思うよ」


俺は安堵と同時に、言いようのない不気味さを感じた。

『解析』の異能も持たないただの人間が、暴走したアイリスの魔力回路を「整える」など、この雪山の隠遁者にできるはずがない。


その時、奥の扉が開いた。

現れたのは、あの吹雪の夜に俺を迎え入れた男――ハンスだった。


男は無言で俺の横に膝をつくと、俺の焼け爛れた右腕を覆っていた包帯を解き始めた。

俺は意識的に『解析』の深度を上げた。脳を焼くような痛みが走るが、この男の正体を確認しなければならなかった。


(……解析開始。対象:右腕の縫合痕。および男の動作)


俺は息を呑んだ。

右腕の傷口は、俺が『創造』で強引に繋ぎ合わせた歪な肉を、執拗なまでに精密な糸捌きで再編されていた。毛細血管の一本一本を避けるように、かつ魔力回路の接合を補助するように施されたその処置は、芸術的と言えるほど無駄がない。


そして、包帯を解く男の指先。

そこには、長年にわたって執刀を繰り返してきた外科医特有の、わずかな「指の反り」と「神経の静止」があった。


(……おかしい。構造データが一致しない。ただの医者じゃない。この手の動きは――)


帝国の最先端医療ギルド、あるいは軍の生体研究施設で数千回の症例をこなした熟練の「特級軍医」の動きだ。ただの山奥の隠遁者が持っていていい技術ではない。


「……あんた、何者だ。その手の動き、帝国軍の術式だろう。……なぜ、ここにいる」


俺の問いに、男の動きが一瞬だけ止まった。

ハンスは顔を上げず、淡々と、新しい薬を傷口に塗り込んでいく。


「質問が多いな。解析できるなら勝手にするがいい。……だが、君のその『目』は、今の君の脳には重荷すぎる。これ以上使えば、今度は目玉の構造から腐り落ちるぞ」


ハンスの冷徹な指摘に、俺の視界に走るエラーコードがさらに激しさを増した。

俺は呻きながら横たわる。解析の限界だ。視界が急速に狭まっていく。


「……エレナ、後の処置は任せた。私は薬草を煎じてくる」


ハンスは立ち上がり、音もなく部屋を出ていった。

残された俺は、琥珀色の暖炉の火を見つめながら、自分の右腕を凝視した。

そこには、ハンスの手によって縫い合わされた「不完全な生」の痕跡が、醜くも力強く脈動していた。


(……なぜ、あんな男がこんな場所にいる。帝国最強の騎士ですら『消去』されるあの虚無の中で、なぜこの廃屋だけが無傷なんだ)


謎は深まるばかりだった。

だが、今の俺にできるのは、エレナが差し出す苦いスープを啜ることだけだった。


逃亡者としての俺の時間が、この琥珀色の静寂の中で、再びゆっくりと動き出そうとしていた。

それが、新たな地獄への序曲であることも知らずに。

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