繋がれた残り火
肺が灼ける。
吸い込む空気が冷たすぎて、肺胞の一つ一つが凍りついていくような感覚だ。吐き出す息は白く、一瞬で吹雪の向こう側へと溶けていく。
背負ったアイリスの体温が、徐々に、だが確実に奪われていくのが背中越しに伝わってくる。彼女の呼吸は浅く、時折、糸が切れるように途絶えそうになる。そのたびに俺は、感覚を失い始めた指先に無理やり力を込め、彼女の細い腿を強く掴み直した。
「……解析、後方三〇〇メートル。事象の消去範囲、拡大中。速度、秒速四メートル」
脳内に直接投影される、無質の幾何学模様と無数の数式。俺の異能『解析』がもたらす世界の裏側の設計図は、今、最悪のアラートを吐き出し続けている。振り返る余裕などない。脳の深部で軋むような警笛が鳴り響き、背後の「虚無」が着実に俺たちの存在を削り取ろうとしていることを告げている。
あの「無」に触れれば、痛みを感じる暇さえないだろう。俺たちの肉体も、記憶も、この世界に刻んできたわずかな足跡さえも、描きかけの絵を消しゴムで消すように、音もなく抹消される。抵抗の余地も、残骸すらも残らない。それが、あのアノマリー――村を飲み込んだ、あの正体不明の絶望だ。
右腕の感覚は、とうに消え去っていた。
飢えた村人たちのために「肉」を創造した際、強引に魔力回路を繋ぎ直した代償だ。二の腕から先が自分の肉体ではないような、異質な熱を帯びている。視界の端では、右腕の構造データが真っ赤なエラーログを吐き出し続け、筋肉の断裂と神経の焼損を無慈悲に宣告していた。
(……限界だ。魔力残量、二・八パーセント。脳のオーバーヒートまで、あと一〇〇秒を切った)
視界が歪む。雪の白さが、ノイズ混じりの灰色の砂嵐に変わる。
意識が遠のきかけるたびに、俺は自分の舌を強く噛み、鉄の味で正気をつなぎ止めた。俺がここで倒れれば、背中の少女はただ消えるのを待つだけの存在になる。それだけは、耐え難かった。自分が壊してしまったこの命を、せめて「消去」の理不尽からは守りたかった。
「お兄……ちゃん……どこに行くの……?」
耳元で、アイリスのか細い声が震えた。
俺は答えを返さない。冷たい空気を肺の奥まで吸い込み、肺胞が一つ一つ凍りついていくような感覚を無視して、ただ足を動かす。
「……黙ってろ。呼吸を乱すな。魔力を無駄にするな」
突き放すような自分の声が、自分でも驚くほど冷酷に響く。
村の広場に残してきた、あの禍々しい肉の塊の残像が脳裏に焼き付いて離れない。俺が『創造』したのは救いなどではない。死者の残骸を繋ぎ合わせた、倫理も命もないタンパク質のゴミだ。それを貪り食っていた村人たちの、獣のような目。俺は彼女を救うために、また一つ、この世界を汚したのだ。
(前方、構造不一致反応。座標、一二〇メートル。周囲の植生から独立した石材の反応を確認)
絶望的なモノクロームの世界に、一つの「違和感」が混じった。
周囲の針葉樹林に隠れるようにして立つ、その石造りの廃屋。現在の帝国の建築様式とは明らかに異なる、高密度の石材と古い隠蔽術式が、かすかに『解析』に引っかかった。
「……あそこだ。あそこまで行けば……」
俺は折れそうな膝に鞭打ち、雪を蹴った。
雪に足を取られ、倒れ込みそうになるのを、アイリスを落さないためだけに踏みとどまる。一歩進むごとに、心臓が爆ぜるような音を立て、脳内の視界に走るエラーコードがさらに激しさを増していく。
ようやくたどり着いたその建物の扉を、俺は肩からぶつかるようにして押し開いた。
中へと倒れ込んだ瞬間、暴力的なまでの冷気が遮断される。鼻を突くのは、古い焚き火の煙と、これまでに嗅いだことのないような苦みの強い薬草の匂い。
「……何者だ」
暗がりの奥から、低く、落ち着いた声がした。
俺は反射的に、感覚のない右腕を前に突き出した。指先に、かろうじて残ったわずかな魔力を集める。対象の構造を解析し、一瞬で分子結合をバラバラにする『解体』の構え。
だが、解析回路がまともに機能しない。
男のシルエットが二重、三重に重なって見え、視覚情報の同期が途切れる。
「……来るな。動けば、お前の構造を解体する。……俺に、近寄るな」
声が震えているのが自分でもわかった。脅しにもなっていない。
男は驚いた様子もなく、ただ静かに、使い古されたナイフで木材を削る手を止めた。
暗がりに浮かび上がる男の目は、俺の剥き出しの殺意ではなく、俺の背中でぐったりとしているアイリスと、俺の焼け爛れた右腕を、冷徹なまでに静かに観察していた。
「……酷い有様だな。命を作る術は知らんが、繋ぐ手伝いならできそうだ」
その瞳には、帝国兵が持つ冷酷な優越感も、村人たちが抱いていた浅ましい飢餓感もない。
ただ、静かに燃える暖炉の残り火のような、落ち着いた色が宿っていた。
「……アイリスを……この子を、助けろ……」
言い終える前に、俺の魔力は完全に底を突いた。
視界を覆っていた解析データが、ガラスが砕けるような音を立てて消失し、世界が完全な闇に包まれる。
膝の力が抜け、床の冷たさを感じる間もなく、俺の意識は深い泥の中へと沈んでいった。
最後に耳に届いたのは、雪を噛むような男の静かな足音と、アイリスの容態を気遣うような、短く、穏やかな溜息だけだった。
俺はここで死ぬのだろうか。それとも、この男の手によって、新たな地獄へと繋ぎ止められるのだろうか。それを確かめる術を持たないまま、俺は暗い無意識の底へと墜ちていった。




