痛みの等価交換
リコルヌの夜は、紫煙と魔導灯のどぎつい光に塗り潰されていた。
大通りでは着飾った商人たちが笑い声を上げ、一歩路地に入れば、泥水に顔を浸した難民たちが明日の命を値踏みされている。
(……解析。空気中の魔力残滓。……やはり、混ざっている。アイリスの、あの『拒絶』の波形が)
俺、アルド・ヴァイスは、診療所の固い床にハンスを預け、一人、夜の街へと踏み出していた。
エレナには「薬を調達してくる」とだけ告げた。彼女の不安げな、何かを察したような瞳を直視することはできなかった。ハンスから教わった「命を繋ぐ」という言葉が、今の俺の胸を、錆びたナイフのように抉り続けていたからだ。
(……救うための手が、アイリスを苦しめる素材でできている。……皮肉にもほどがある)
路地裏の影に潜み、俺は『解析』の深度を極限まで引き上げた。
視界に走る青白い数式が、街の喧騒を「情報の奔流」へと変える。
狙うのは、さっきの情報屋が口にしていた『滴』の供給源だ。
「……いたぞ。座標、前方四十メートル。地下への入り口」
レンガ造りの倉庫の裏。重武装した傭兵たちが二人、退屈そうに煙草を吹かしている。彼らが腰に下げている革袋から、あの「不気味な静寂」の波動が漏れ出していた。
(……解析。対象:傭兵、二名。
装備:帝国製魔導甲冑の横流し品。物理障壁、展開中。
……構造的脆弱点、左胸の魔力冷却管。そこを叩けば、一瞬で『解体』できる)
俺の指先が、無意識に拍動した。
右腕の黒い煤煤のような変色が、夜の闇に溶け込んでいる。俺は足音を消し、泥濘を蹴って飛び出した。
「なっ、何だお前――」
「……黙れ。構造解析、強制介入」
俺は左手を、一人の傭兵の胸当てに押し当てた。
思考はもはや「戦闘」ではない。「解体作業」だ。
彼の鎧を維持している術式の数式を一文字だけ書き換え、内部の冷却液を沸騰させる。
パァン、と乾いた音がして、傭兵の鎧から蒸気が噴き出した。
男が悲鳴を上げる間もなく、俺はその首筋を掴み、壁へと叩きつける。
もう一人が剣を抜こうとしたが、俺の右腕から溢れ出した「黒いノイズ」が、彼の剣の構造を空中で『腐食』させた。
「……ひっ、化け物……!」
「……質問は一つだ。その袋の中身……『滴』はどこで作られている」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、平坦だった。
恐怖に顔を歪めた傭兵の目には、俺という存在が、もはや人間には映っていないだろう。俺の瞳には、感情を殺した『解析』の青い光が宿っている。
「……し、知らねえ! 俺たちはただ、ギルドから運ぶように言われてるだけで……あ、あそこだ! あの噴水広場の地下にある、会員制の競売所だ!」
「……そうか。……なら、もういい」
俺は男の意識を強引に刈り取り、彼らが持っていた革袋を奪い取った。
袋を開けると、中には親指ほどの大きさの、琥珀色の石が三つ。
掌に乗せた瞬間、全身の毛穴が逆立つような不快感が走った。
(……解析。深度十。……対象:滴滴)
視界が真っ白に染まる。
脳内に流れ込んできたのは、物質の構造データではない。
――暗い部屋。冷たい機械。
――皮膚を貫く針。
――「痛い、お兄ちゃん、助けて」という、絶望の叫び。
それはアイリスが帝国で味わっている「苦痛」そのものを、魔力的に抽出して固形化したものだった。神のシステムと融合させられた彼女が、拒絶反応を起こすたびに生じる「歪み」。
帝国の至宝イシドールが望んでいた「静止」の力が、この石には宿っている。
だからこそ、あらゆる病や魔力の暴走を「止める止める」ことができるのだ。
他者の命を削り取った残滓で、別の命を繋ぎ止める。
リコルヌという街が、その『悪意の等価交換』の上に成り立っている事実に、俺は吐き気を覚えた。
「……アルド、ヴァイス。……君は、それをハンスに使うのか?」
脳裏で、ハンスの声が聞こえた気がした。
俺は、震える手でその石を握りしめた。
これを使えば、ハンスの右腕の腐敗は止まるだろう。彼は生き延び、エレナは救われる。
だが、それは俺がアイリスを、二度殺すのと同じことではないのか。
「……ハンス、あんたなら……『こんなものは捨てろ』と言うんだろうな」
だが、俺はあんたほど高潔じゃない。
俺は、汚れきった逃亡者だ。
俺は奪った小瓶を懐に隠し、診療所への帰路を急いだ。
足元の泥濘が、俺の魂そのものを飲み込もうとしているように感じられた。
解析回路は、次の「破壊」の目標をすでに定めている。
噴水広場の地下、競売所。
アイリスを素材として使い潰している連中の「本拠地」。
診療所に戻ると、エレナがハンスの傍らで眠りに落ちていた。
俺は音を立てずにハンスに近づき、その黒ずんだ右腕に琥珀色の石を翳した。
(……再定義。この『拒絶』の力を、ハンスの『腐敗』を止めるための重石に転換しろ)
俺の魔力が石を削り、琥珀色の粉末がハンスの傷口に降り注ぐ。
シュウ、と不気味な音がして、ハンスの顔に安堵の色が戻る。
代わりに、俺の右腕の痛みが激しさを増した。
アイリスの苦痛が、俺の『解析』を通じて、俺自身の神経へと流れ込んでくる。
「……ああ、そうだ。これでいい」
俺は、暗闇の中で一人、歪に笑った。
誰かを救うたびに、俺は壊れていく。
誰かを救うたびに、俺はアイリスを辱めていく。
「……見てろよ、リコルヌ。……アイリスから奪ったものを、俺がすべて、ゴミにしてやる」
俺の『創造』は、この夜、復讐という名の「終わりの数式」を刻み始めた。
背後でアイリスの「声」が、虚無の彼方で泣いているような気がした。




