剥製にされた慈悲
石造りの壁が、湿った熱を孕んで俺の肌を撫でる。
自由都市リコルヌ。ここには帝国の凍てつくような「静寂」はない。代わりに、数万の人間が吐き出す息と、排泄物の臭い、そして焦げた油が混ざり合った、吐き気を催すような「生の濁流」がある。
(……解析。視界内の個体数、一二四。敵対反応、一二。……無関心、一一二)
脳内の『解析』回路は、街の路地裏に足を踏み入れた瞬間から、休むことなく不快な警告警告を吐き出し続けている。俺の視界に映るすべてのものに、半透明の「価格」が張り付いている。
腐りかけのリンゴ:銅貨二枚。
錆びたナイフ:銀貨三枚。
そして、道端に横たわる死にかけている老人の命:価値なし。
「アルドさん、こっち! この奥に『魔法医』の看板があるよ!」
ハンスの救急鞄を肩に食い込ませたエレナが、必死の形相で俺を呼ぶ。
俺は、背中で熱を帯びているハンスの重みを感じながら、泥濘んだ路地を急いだ。
彼の右腕――俺を助けるために魔力の暴走を受け入れた腕は、すでに腐敗に近い変色を始めていた。俺の『擬似構築』による応急処置も、もはや限界に近い。
「……ここか」
たどり着いたのは、窓が割れ、煤けた看板が傾いた古びた診療所だった。
扉を蹴り開けるようにして中へ入ると、鼻を突いたのは安っぽいアルコールの臭いと、饐えた血の匂いだ。
「……誰だ。うちは前金制だぞ」
奥から現れたのは、脂ぎった顔をした初老の男だった。
彼は俺たちのボロボロのなりを見るなり、露骨に顔を歪めた。
(……解析。対象:魔法医。
技能:初歩的な治癒魔法、三流の外科手術。
心拍数:一一〇。……強欲、そして——保身)
「……この男を診ろ。腕が魔力汚染を起こしている」
俺はハンスを診察台に寝かせた。
医者の男は、ハンスの黒ずんだ右腕を一瞥した。その瞬間、彼の瞳に「恐怖」が走ったのを、俺の『解析』は見逃さなかった。
「……おい、よせ。これはただの怪我じゃない。帝国の『高次魔導』による損壊だろうが! こんなもんに関わってみろ、連合のギルドからどんな嫌がらせを……」
「診ろと言っている。……金ならある」
俺は左手で、懐から「金の塊」を取り出した。
門番に渡したものと同じ、石ころの構造を強引に書き換えた偽物の黄金だ。
医者の瞳が、ぎらりと醜い欲に染まる。
「……ほう、金があるなら話は別だ。……よし、ちょっとどけ」
医者は貪るように金を奪い取ると、ハンスの腕に手をかざした。
微弱な治癒魔法の光が灯る。……だが、その光はハンスの傷口に触れた瞬間、黒い霧に飲み込まれるようにして消えた。
「……っ、ダメだ! 傷口が『拒絶』していやがる! この魔力構造、まるで……生きているみたいに変化し続けていやがるんだ。私の魔法じゃ、構造を特定できねえ!」
医者は悲鳴を上げて手を引いた。
当然だ。ハンスの腕を壊したのは、俺の『ノイズ』だ。
既存の魔法体系では理解できない、絶えず壊れ、絶えず変化し続けるバグの残滓。
「……どけ。三流が」
俺は医者を突き飛ばし、ハンスの腕を掴んだ。
俺の『解析』が、最悪の深度まで潜っていく。
視界が青白く反転し、ハンスの細胞一つ一つの「悲鳴」が、数式となって脳に突き刺さる。
(……解析。壊死の進行。血管の閉塞。……救う方法は?
回答:生命の構造維持は、現在の魔力出力では不可能。……ただし)
脳裏に、冷酷な答えが浮かび上がる。
(対象を『非生物』として再定義すれば、腐敗は停止する。……つまり、この腕を『解体』し、鉄や石と同じ無機質な『パーツ』として作り替えれば――)
「……アルド、さん?」
背後で、エレナの声がした。
彼女の瞳が、恐怖に震えている。俺の手から漏れ出している、どす黒い黒霧。
そして、俺の瞳に宿っているであろう、冷徹な「破壊者」の光に怯えている。
「……見ろ、エレナ。……俺には、もう『死』の構造しか見えない。……これを切り離せば、こいつは助かる。だが、二度と医者としては動けなくなる」
「……そんなの……ダメだよ……! 先生から、手を奪っちゃ……」
「なら死なせるか!? ……それとも、あんたのその不器用な魔法で、この『バグ』を直せるのか!」
俺の怒号が、狭い診療所に響き渡った。
エレナは言葉を失い、涙を流して立ち尽くした。
その時だ。
診療所の外で、街の喧騒とは違う、奇妙な「陶酔」を含んだ叫び声が聞こえた。
「――滴滴だ! 『滴』が来たぞ!」
「救いだ……! 神の奇跡が、また配られるぞ!」
窓の外を見ると、貧民街の住人たちが、一人の男を取り囲んでいた。
男は、透き通った琥珀色の「石」が入った小瓶を掲げている。
(……解析。対象:琥珀色の石。……なんだ、これは)
俺の解析回路が、かつてないほどの激痛と共にエラーを吐き出した。
その石から漏れ出しているのは、魔力ではない。
それは、痛ましいほどの「ノイズ」。
帝国でアイリスが連れ去られたあの夜、彼女が最後に発した絶望の波長と、完全に一致する構造データ。
「……アイリス……?」
俺の喉が、引き攣るように鳴った。
なぜ。なぜ、あの村にいたはずの少女の「苦痛」が、この街で『薬』として売られている。
「……へへ、兄ちゃん。その死にかけのオッサンを助けたいなら、その『滴』を買いな」
いつの間にか診療所に忍び込んでいた、小汚い情報屋の男がニヤついた。
「それは『神の聖女』の涙を固めた奇跡の石だ。どんな魔力汚染も、一瞬で『浄化』してくれる。……もちろん、価格は跳ね上がってるがね」
聖女。奇跡。浄化。
吐き気がする。ルシファーという名を知らぬ俺でも、この不条理な構図は理解できた。
誰かが、アイリスを道具にし、その痛みを金に変えている。
「……エレナ。ハンスを連れてここを出るぞ」
「え? でも、先生の治療は……」
「治療なら、俺がやる。……いや、こいつの右腕を繋ぎ止めるための『素材』を、今から奪いに行く」
俺の左手が、診察台の縁を握り潰した。
ハンスの命を救うために必要なのは、慈悲ではない。
この街を支配する、歪んだ経済構造そのものを『解体』し、その中心にある「奇跡」を奪い取ることだ。
「……アルドさん。……あんたの目、すごく怖いよ」
エレナの言葉も、今の俺には届かない。
視界に映るリコルヌの街並みが、もはや黄金の檻には見えなかった。
それは、解体されるのを待つだけの、巨大な肉の塊だ。
俺の『創造』は、この日、完全に「死」を燃料に動き出した。
ハンスの教えである「生を繋ぐ」という誓いは、アイリスを切り売りする世界への憎悪によって、黒く塗りつぶされていった。




