黄金の檻、泥濘の街
雪が消えた。
だが、温もりが訪れたわけではない。足元を覆っていた純白の絶望は、いつの間にか黒く濁った泥濘へと姿を変え、逃亡者たちの足取りを重く引き摺り込んでいた。
(……解析。地表温度、三度。湿度、七四パーセント。……大気中の魔力濃度、急激な減退。代わりに――硝煙と、饐えた油の臭い)
俺、アルド・ヴァイスの視界を走る青白い数式は、帝国の「白」に支配されていた時とは別のノイズを撒き散らし始めていた。
視界に映るすべてのものに、不快なまでの「価格」が張り付いているような錯覚を覚える。石造りの外壁の耐久値、行き交う馬車の積載量、そして――道端に転がる浮浪者の、生命維持の限界点。
俺は、背中でぐったりとしているハンスの重みを感じながら、巨大な石門を見上げた。
自由都市リコルヌ。
商業連合の北の玄関口であり、帝国という「完璧な法」が唯一届かない、欲望の聖域。
「……アルドさん。門が見えたよ。でも、あそこにいる人たち……」
俺の横でハンスの救急鞄を抱えたエレナが、不安げに声を潜めた。
門を守る兵士たちの装備は、帝国のような統一された美しさはない。だが、その瞳には「法」への忠誠ではなく、獲物を値踏みする「欲」がぎらついていた。
「……アイリス、俺から離れるな。エレナ、ハンスを頼む」
俺は、感覚の消えかけた右腕をコートの中に隠し、門へと進んだ。
右腕は、ハンスの命を吸い上げた黒いノイズによって、原型を留めないほどに焼け爛れている。俺が施した『擬似構築』の処置がなければ、今ごろは腐り落ちていただろう。
「止まれ。……見ねえ顔だな。身分証か、通行許可証はあるか」
門番の男が、槍を斜めに突き出して俺を止めた。
その視線が、俺のボロボロの衣服から、エレナの抱えるハンス、そして盲目のアイリスへと移る。
(……解析。対象:門番。心拍数、一〇二。瞳孔の散大。……軽蔑、そして――。
所持金:銀貨三枚。装備の摩耗率、四二パーセント。……こいつは、腹を空かせている)
「身分証はない。……帝国から逃げてきた難民だ。この男が急病で、医者を探している」
俺は、できるだけ感情を殺して答えた。
だが、門番の男は鼻で笑い、槍の先を俺の胸元に近づけた。
「難民か。ケッ、帝国も落ちたもんだな。だがな、小僧。リコルヌは慈悲で動いちゃいねえ。入るなら一人につき銀貨五枚だ。……そこの死にかけのオッサンも合わせて、二十枚だな」
「二十枚!? そんなの、難民が持ってるわけないじゃない!」
エレナが悲鳴に近い声を上げた。
実際、俺たちの手元には、プロローグの村から持ち出したわずかな硬貨しかない。
「持たねえなら、そこらで野垂れ死ぬんだな。……あるいは、そっちの若い娘を売れば、お釣りが出るぜ」
門番たちが、下卑た笑い声を上げる。
アイリスが怯えて俺の服の裾を強く掴んだ。
その瞬間、俺の脳内の解析回路が、一気に「赤」へと振り切れた。
(……解体。対象:門番の槍、右足の腱、そして――)
殺し方が、数式となって視界に溢れ出す。
こいつの心臓を止めるのは簡単だ。魔力経路の一点を『解体』すれば、一秒もかからずに終わる。
だが。
(……ダメだ。ハンスに言われた。繋ぐために力を使えと)
俺は奥歯を噛み締め、右腕に走る激痛を耐え抜いた。
俺は、地面に落ちていた石ころを一つ、左手で拾い上げた。
「……銀貨はない。だが、これならある」
「あ? 石っころを寄越して――」
俺は、拾った石の構造を瞬時に『解析』した。
ただの石灰岩。そこに、空気中の魔力を強引に流し込み、結晶構造を再定義再定義する。
一秒。二秒。
俺の左手の中で、石がまばゆい光を放ち、鈍い輝きを持つ「黄金」へと姿を変えた。
「……っ!? なんだ、そりゃあ……」
門番たちの目が、釘付けになる。
俺は、出来上がった不格好な金の塊を、男の足元に放り投げた。
「……表面を金でコーティングしただけの『偽物』だ。だが、質屋に持っていけば銀貨百枚にはなる。……それで、俺たちを通せ」
門番の男は、慌てて金を拾い上げ、本物かどうか確かめるように噛みついた。
その隙に、俺はエレナたちを促して、門の中へと足を踏み入れた。
背後で、「おい、待て!」という声が聞こえたが、誰も追ってこなかった。
彼らにとって、逃亡者の正体よりも、目の前の黄金の方が重要だったのだ。
一歩、リコルヌの街中へ入る。
そこは、異様な熱気に包まれていた。
建ち並ぶレンガ造りの建物。空を覆うほどの看板の山。
怒号のような商談の声と、馬の嘶き、そして焼けた肉と腐った生ゴミの臭いが混ざり合う。
(……解析不能。……情報量が多すぎる)
俺の脳が、猛烈な頭痛に襲われた。
帝国の整然とした設計図とは真逆の、無秩序なデータの奔流。
ここでは、すべての命が「通貨」という単位で測られ、交換されている。
救いなどどこにもない。あるのはただ、損か得か、それだけだ。
「……アルドさん、あそこ! 安宿って書いてある!」
エレナが指差したのは、路地裏にある傾いた木造の宿屋だった。
俺たちは這いずるようにして、その扉を潜った。
数時間後。
不潔なベッドの上に、ようやくハンスを横たえることができた。
エレナは、慣れない手つきで宿屋から買い取った水と布を使い、ハンスの焼けた腕を拭いている。
「……ハンス先生、死なないよね。……アルドさん、なんとかしてよ! あんたのその力で、先生の腕を……!」
「……無理だ」
俺は窓の外、リコルヌの街を見下ろしながら、冷たく答えた。
「生命は作れない。……ハンスの腕を焼いたのは、俺の魔力だ。……今の俺が、これ以上こいつを『解析』すれば、今度こそこの男の細胞そのものを壊すことになる」
俺の右腕は、いまだに震えが止まらない。
包帯を透かして視る自分の腕は、もはや「人間の構造」をしていなかった。
黒い霧のような魔力が、肉と骨を侵食し、不気味な脈動を繰り返している。
(……この街のどこかに、アイリスの『欠片』がある)
俺は、ルシファーという名を知る由もない。
だが、解析回路の奥底で、何かが警鐘を鳴らし続けていた。
この喧騒の裏側で、アイリスの苦痛が、誰かの富に変換されている。その「不条理な数式」の匂いが、この汚れた風の中に混じっているのだ。
「……アイリス。……エレナ」
俺は、暗い部屋の中で一人、呟いた。
「俺は……ハンスのようにはなれない。……壊れたものを繋ぐ方法も、まだわからない。……だが」
俺の視界の中で、リコルヌの街の設計図が、血のような赤に染まっていく。
「俺の邪魔をするこの街の『構造』なら、すべて……解体してやる」
逃亡者から、一匹の獣へ。
闇に堕ち始めた俺の指先が、黄金の檻の中で、最初の破壊の線を引き始めた。




