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壊れた指先と、泥濘の轍

空気が、死後硬直を起こしたかのように冷え切っている。

崩れ落ちた廃屋の残骸から這い出した俺たちの背後で、かつて「琥珀色の静寂」を湛えていた場所が、ただの石の積み重なりへと還っていく。


(……解析。周囲三百メートル。帝国魔導師団の残存反応、なし。……だが、空間の『歪み』が残留している)


視界を走る青白い数式は、先ほどまでの激戦の余韻で、狂ったようにノイズを撒き散らしていた。脳の奥底が、熱した鉛を流し込まれたように熱い。一歩進むごとに、網膜に真っ赤な警告文が明滅し、意識を断ち切ろうとする。


「……ハンス、しっかりしろ。……エレナ、肩を貸せ」


俺は、意識を失いかけているハンスの左腕を自分の首に回した。

右腕――先ほど、俺に魔力を流し込むために無理な『導管』となった彼の腕は、肘から先が炭のように黒く焼け爛れている。


医者の命とも言える、あの精密な指先。

帝国軍医総監として数千の命を繋いできたはずの、あの誇り高い手が、俺という「不純物」を救うために無惨に壊れ果てていた。


「……嫌だ、こんなの……。ハンス先生、起きてよ……! 嘘でしょ……?」


エレナが、震える声で泣きじゃくりながら、ハンスの反対側を支えている。彼女の小さな肩が、極寒の風の中で激しく上下していた。

俺は、何も言えなかった。

俺がここにいなければ。俺を助けようとしなければ。

ハンスは今も、あの琥珀色の炎の前で、静かに薬草を煎じていられたはずなのだ。


「……お兄ちゃん。……暗いよ。……すごく、冷たい音が聞こえる」


俺のコートの裾を掴み、ふらふらと歩くアイリス。

彼女の濁った瞳からは、もはや何も見えていない。だが、彼女は感じ取っているのだ。俺から溢れ出す「破壊の残響」を。そして、自分たちを追い詰める世界の、底知れない冷酷さを。


「……アイリス、前だけを見て歩け。……俺が、必ず連れて行く」


(嘘だ。俺に、そんな資格があるのか)


自嘲の言葉を、俺は飲み込んだ。

俺は、ハンスが教えてくれた「構造の隙間」を、最悪の形で利用してしまった。

自分自身の腕を壊し、ハンスの命を削り、イシドールという「正義」を泥で塗りつぶした。

俺が歩く後に残るのは、救いなどではない。ただの、解体された世界の残骸だ。


吹雪が、再び勢いを増してきた。

帝国の監視を逃れるため、俺たちは街道を避け、険しい山道を南へと下る。

目指すは、大陸最大の商業連合。その入り口に位置する、自由都市リコルヌ。


「……はあ、はあ……。アルド、さん。……先生、熱が……すごく高いよ。このままじゃ……」


エレナの悲鳴に近い声。

俺は立ち止まり、ハンスの顔を『解析』した。


――生体反応、微弱。

――深部体温、三四・二度。低下中。

――右腕からの魔力汚染が、循環器系を侵食中。


「……クソッ。……解析、全集中。……構造再定義」


俺は、動かない右腕を無理やりハンスの黒ずんだ腕に翳した。

神経の一本一本を、俺の微かな魔力で「創造」して繋ぎ直す。それはハンスが俺にしてくれたことの、稚拙な模倣に過ぎない。


(繋げ。……いや、繋げなくていい。ただ、死なせないだけの『仮初めの構造』でいいから……!)


俺の指先から、黒いノイズが漏れ出す。

ハンスの焼けた皮膚が、不自然な音を立てて盛り上がり、ひび割れた血管が、俺の魔力によって強引に塞がれていく。


「……あ、ぐ、う……っ」


ハンスが、苦痛に顔を歪めて呻いた。

意識は戻らない。だが、その微かな拒絶の反応が、彼がまだ「生きている」ことを証明していた。


「……これで、少しは保つはずだ。……行くぞ。止まれば、死ぬ」


俺は、自分の右腕が再び焼き切れるような感覚を無視して、彼を担ぎ直した。

エレナが、俺の横顔をじっと見つめていた。

その瞳には、恐怖と、嫌悪と――そして、縋るような哀願が混じっていた。


「……アルドさん。……あんた、本当に……何者なの? その力、何のためにあるの?」


「……俺にもわからない。……ただ、これだけは言える。俺に関われば、ハンスのように壊れる。……エレナ、今のうちに逃げろ。あんたなら、まだやり直せる」


俺は冷徹に言い放った。

自分を追い詰めることで、彼女との距離を置こうとした。

だが、エレナは首を激しく横に振った。


「嫌だよ……! 先生を置いていけるわけないでしょ! それに、アイリスちゃんだって……! あんた一人じゃ、この子を守れない。……私は、ハンス先生の助手だ。……先生が、あんたの隣にいろって言ったんだから!」


彼女の言葉に、俺は唇を噛んだ。

「……勝手にしろ」


雪の中に、三人の長い影が伸びていく。

俺たちが歩いた後には、血と魔力の混じった、どす黒い轍が刻まれていた。

それは、帝国という「完璧な設計図」から外れた、忌まわしきバグたちの行進だった。


数日後。

吹雪が止み、目の前に広がったのは、山肌を削って造られた巨大な石造りの門だった。

門の向こう側からは、帝国の静寂とは正反対の、騒がしい喧騒と、焦げた油の匂いが漂ってくる。


自由都市リコルヌ。

金と欲望がすべてを支配し、神の法さえも取引の材料にされる、混沌の市場。


「……リセットボタン、か」


俺は、城門を見上げながら、ハンスの遺した言葉を反芻した。

帝国を逃げ出した俺が、次に出会うのは、どんな絶望だろうか。

俺の『解析』は、街の華やかさの裏側に潜む、数千、数万の「醜い人間の数式」を、既に捉え始めていた。



俺の右腕は、もはや元の形を留めていない。

だがその壊れた指先は、誰にも描けない地獄の続きを書き始めようとしていた。

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