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プロローグ

視界が、青白いノイズに灼き焦がされている。

降り積もる雪の白さではない。脳内に直接投影される、無数の幾何学模様と奔流のような数式――異能『解析』がもたらす、世界の裏側の設計図だ。


「……構造解析、終了。炭素、窒素、リン、そして微量の水分。……ただの、ゴミだな」


俺、アルド・ヴァイスは、泥にまみれた地面を凝視し、吐き捨てるように呟いた。

視界の端では、泥の中に半ば埋もれた牛の死骸がデータとして分解されていく。腐敗の進行度、タンパク質の変質率、残留するわずかな熱量。この世界のすべては俺にとって、もはや情緒を持つ風景ではない。ただの「素材」と「数値」の集積に過ぎないのだ。


ここは、帝国の影に踏みにじられた、名前さえ失われた小国の辺境キャンプだ。

食料は三ヶ月前に底をつき、希望は分厚い氷の下に閉じ込められた。残されたのは、動物的な飢えという名の狂気だけ。広場に集まった村人たちの目は、もはや人間のそれではない。落ち窪んだ眼窩に宿る濁った瞳は、ただ一点に注がれている。

俺の隣で、震えながら俺の袖を掴んでいる小さな少女に。


「お兄ちゃん……?」


泥と垢にまみれた小さな手が、俺の使い古されたコートを必死に手繰り寄せる。

アイリス。この泥溜めのような絶望の中で、俺が「情」という名の計算ミスに負けて拾い上げた、盲目の少女だ。


「お腹……空いたね。でも、大丈夫。村の人たちが、今日は温かいものをくれるって言ってたよ。……お兄ちゃんも、一緒に食べようね」


彼女は笑っていた。何も見えないからこそ、隣で研がれている錆びた石包丁の音も、自分を「獲物」として値踏みする獣のような視線も、彼女には届かない。彼女の無垢な信頼が、今の俺にはどんな猛毒よりも鋭く胸に突き刺さる。


「……下がっていろ、アイリス。耳を塞いで、俺の後ろから動くな」


俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、硬い響きを持っていた。

脳内の解析回路は、容赦なく最悪の予測を弾き出し続けている。


――周囲の生存個体、二十四名。

――極度の飢餓による前頭葉の機能不全、本能の暴走。

――対象対象(アイリス)を『即時摂取可能なタンパク質源』として認識。

――殺害開始までの推定時間、一二〇秒。


論理的に考えれば、答えは一つだ。

この少女を置いて、一人でこの村を去る。それが「アルド・ヴァイス」という個体が生き残るための、唯一かつ最善の選択。彼女を餌として残せば、村人たちの意識は俺から逸れ、追跡を振り切るための貴重な数分間を稼げるだろう。


だが――。


「私……わかってるよ。みんな、苦しいんだよね。私が、役に立てるなら……お兄ちゃんが、これ以上苦しまなくて済むなら……」


アイリスが、震える声で言葉を紡いだ。

彼女は、自分が「食べられる」ことを、その残酷な結末を、本能で悟っていた。それでも、俺に「逃げて」と言おうとしている。自分という素材を使って、俺を生き延びさせようとしている。


その瞬間、俺の脳内で何かが音を立てて崩壊した。

「救いたい」なんていう、高潔な英雄が口にするような言葉じゃない。ただ、この不条理で、あまりにも醜い世界の設計図を、俺のわがままで書き換えてやりたいという、全能に似た傲慢。


「……解析、全解放。構造定義、暫定再構成再構成(リビルド)


俺は泥の中に、深く両手を突き立てた。

視界が真っ赤に染まり、魔力が血管を焼き、脳が沸騰するような激痛が走る。

周囲の雪、凍りついた土、牛の腐肉、そして――この数日の間に野垂れ死んだ、かつての隣人たちの死体からデータを引きずり出す。倫理も、尊厳も、墓標さえない死を素材として、俺の異能が暴れ回る。


「……ああッ、ああああああッ!」


絶叫と共に、広場の中央に「それ」が出現した。

赤黒く、禍々しく、不自然なほどに湯気を立てて拍動する、巨大な肉の塊。

それは味覚の受容体を強制的にハックし、胃袋の空虚を無理やり埋めるためだけに設計された、高カロリーな「模造品」だ。


「……食え。それが、お前たちが欲しがった命の代わりだ。好きなだけ、その醜い腹に詰め込め」


俺の言葉が終わる前に、村人たちが肉塊に群がった。

彼らはもはや言葉を失っていた。血の滴る肉を素手で引き千切り、咀嚼さえまどろっこしいと言わんばかりに喉へ詰め込む。その汚らわしい咀嚼音が、静寂に包まれた雪原に、呪いのように響き渡る。


「お兄ちゃん……? 何、これ……すごく、悲しくて、重たい匂いがするよ……」


アイリスが震える手で空を仰ぎ、俺の服を掴む力が強まった。

俺は彼女の問いに、一生かかっても答えられないだろう。

俺が創り出したのは救いじゃない。死者の残骸をパッチワークのように繋ぎ合わせた、命という構造を侮辱する「生物学的なゴミ」だ。だが、この地獄をわずか数時間でも延命させるには、これしかなかった。


(……右腕、神経回路に重度の負荷。魔力残量、一二%。脳のオーバーヒートまで、カウント開始)


右腕が、内側から爆ぜるように熱い。

だが、その激痛を上書きするように、俺の解析回路がさらに絶望的な「構造」を捉えた。


村の入り口、雪原の向こう側から、何かがやってくる。

それは「形」を持っていなかった。


――事象の消去反応。

――熱源、魔力波長、存在反応、すべてが『零』。

――座標:後方四五〇メートル。


「なんだ……あれは……?」


振り返った俺の目に映ったのは、闇よりも深い、移動する「虚無」だった。

その不気味な無色が触れた瞬間、木々は折れることも燃えることもなく、ただそこから消え去る。空間そのものが削り取られ、世界の設計図がそこだけポッカリと空白になっている。


「……が、あ……っ」


肉を食らっていた村人の一人が、その「無」に触れた。

悲鳴すら上がらない。

男の腕が、肩が、そして頭部が、まるで描きかけの絵を消しゴムで消すように、音もなく消失した。

地面に転がっていた俺の「創造物」も、それを奪い合っていた連中も、次々とその不気味な虚無に飲み込まれ、初めから存在しなかったかのように消えていく。


(……やばい。あんなもの、解析不能だ。ことわりが違う)


あれは攻撃でも、魔法でもない。

世界というシステムそのものが、そこからデータを「抹消」している。

あの中に一瞬でも入れば、俺も、アイリスも、魂の一片すら残さずこの世から消される。


「……アイリス、俺の首に掴まれ! 早くしろ!」


俺は混乱し、立ちすくむ彼女を無理やり背負い、全速力で雪の中に飛び出した。

背後で、村の家屋が、降り積もった雪が、そして俺がさっきまで立っていた大地そのものが、静かに、確実に消えていく。


「お兄ちゃん、冷たいよ……! 後ろから、何かが……世界が、なくなっちゃう音がするよ……!」


「喋るな! 舌を噛まないようにしてろ!」


右腕が、魔力の逆流で今にも千切れ飛びそうなほど熱い。

だが、止まれば終わりだ。

背後に迫る「正体不明の絶望」から逃れるため、俺は光を失った少女を抱え、闇夜の雪原へと深く、深く潜り込んでいった。


逃亡者、アルド・ヴァイス。

俺の、長い地獄の旅が、ここから始まった。

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