Ep1 月下の処刑人と愛重き従者たち
ルナリア王国の夜は、不気味なほどに静まり返っていた。
空には二つの月が浮かんでいる。神秘的な光を放つ蒼い月『セレーネ』と、禍々しい輝きを宿した紅い月『ブラッディ・マリー』。その妖しい光が混ざり合い、世界を紫煙のような夜闇で包み込んでいる。
王都の中心部、貴族街。
そこは、この国の中枢を担う上級貴族たちの屋敷が立ち並ぶエリアだ。それぞれの屋敷は、権力を誇示するかのように天高くそびえ、外壁は大理石や宝石で装飾され、冷ややかな美しさを放っている。
だが、その煌びやかな外見とは裏腹に、その内側にはドス黒い欲望と腐敗が渦巻いていることを、俺は知っている。
その一角、とりわけ警備が厳重な屋敷の最上階。
黄金のシャンデリアが無数の蝋燭の炎で揺らめく大広間では、豪勢なディナーの残骸がテーブルの上に散乱していた。
最高級のドラゴン肉のステーキ、南方諸島から取り寄せた希少なフルーツ、一本で平民が一年暮らせるほどの年代物のワイン。
それらが無惨に食い散らかされ、ソースや酒が純白のテーブルクロスに染みを作っている様は、この屋敷の主の品性を如実に表していた。
「おい、もっとワインを持ってこないか! グズめ! 男のくせに気も利かないのか!」
金切り声のような罵声と共に、ガラスの割れる音が響き渡る。
中身の入ったワイングラスを床に叩きつけたのは、煌びやかなドレスに脂肪を包んだ中年の女性だった。
首には大粒の宝石が輝くネックレス、指には魔力を増幅させる指輪をいくつも嵌めている。
彼女の名は、ベルベット子爵。
表向きは王都の孤児院への多額の寄付や、女性の社会進出を支援する慈善事業家として知られる貴族だ。社交界では「慈愛の貴婦人」などと呼ばれ、その評判はすこぶる良い。
だが、それはあくまで表の顔。
裏では身寄りのない若い男性や、借金を背負った美少年を拉致し、屋敷の地下室で非道な遊戯に興じるサディストとして知られている。彼女の歪んだ性癖の犠牲になり、心と体を壊された男性は数知れない。
今日の俺のターゲットだ。
「も、申し訳ございません、旦那様……! すぐに、すぐに代わりの物を……!」
ワインで濡れた床に這いつくばり、怯える男性執事。
まだ十代後半だろうか。線の細い少年のような彼は、恐怖で顔を引きつらせ、震え上がっている。
ベルベット子爵は、そんな彼を汚いものを見るような目で見下ろし、ヒールの尖ったつま先で容赦なく脇腹を蹴り飛ばした。
「あぐっ……!」
「まったく、これだから男は役に立たないんだよ。種馬としての価値しかないくせに、その役目すら満足にこなせないなら、ただの肉塊じゃないか」
彼女は吐き捨てるように言い、空になったグラスを執事の頭上に投げ捨てる。
この国において、女性貴族に逆らうことは死を意味する。男性はただ、傅き、愛玩されるか、労働力として搾取されるかの二択しかない。それが「常識」であり、この世界の絶対的なルールだ。
その歪んだ光景を背に、広間のバルコニーへと続く大きな窓が、音もなく開いた。
「……誰だ?」
夜風に揺れる真紅のベルベットカーテンの隙間から、俺――クロノス・ナイトレイは音もなく室内へと滑り込んだ。
漆黒のロングコートを纏い、顔には目元を隠すシンプルなドミノマスク。
足音はおろか、呼吸音、心音、さらには衣擦れの音に至るまで完全に遮断している。屋敷の外周に張り巡らされた高感度の魔力探知結界すら、俺の侵入には一切反応しなかった。
まるで、最初からそこに存在していなかったかのように。影そのものとなって。
だが、腐っても貴族か。
長年の贅沢三昧で鈍った感覚でも、室内の空気の微細な変化には敏感らしい。あるいは、多くの恨みを買っている自覚が、本能的な警戒心を生んでいるのかもしれない。
ベルベット子爵が振り返り、俺の姿を認める。
その吊り上がった目が、侵入者の存在を認識し、驚愕に見開かれた。
次いで、警戒の色が浮かぶ。腰に帯びた護身用の魔導杖に手が伸びかける。
しかし――俺の体格を確認した次の瞬間、彼女の動きが止まった。
線の細い、少年のごときシルエット。
彼女の口から漏れたのは悲鳴ではなく、嘲笑だった。
「は……? なに、男? まさか、男の暗殺者だとでも言うつもり?」
彼女は腹を抱えて笑い出した。豚が鳴くような、下品な笑い声が広間に木霊する。
蹴られてうずくまっていた執事も、呆気にとられたように俺を見ている。そこには「助かった」という安堵はなく、「何をしに来たんだ、この子供は」「逃げないと殺されるぞ」という哀れみの色が浮かんでいた。
「傑作だわ! どこの馬鹿な組織が送り込んできたのか知らないけど、男ごときが私を殺せると思って? 守られるしか能がない種族が、ナイフなんて持って……きゃははは! 可愛いおもちゃね! おおかた、迷子にでもなったのかしら? それとも、私に飼われたくて自分から飛び込んできたの?」
彼女は余裕綽々で、伸びかけた手を魔導杖から離した。
完全に無防備。隙だらけだ。
――想定通りだ。
俺はマスクの下で、冷ややかな視線を彼女に向けた。
この世界において、男性は「守られるべき希少種」であり、同時に「戦闘能力を持たない弱者」という認識が絶対だ。
遺伝子レベルで、男は女に勝てない。男は魔力が低い。男は戦いには向かない。そう刷り込まれている。
実際、平均的な魔力量や身体能力において、女性の方が優れているのは事実だ。だからこそ、彼女たちは油断する。
目の前の男が、牙を持つ獣である可能性など、微塵も考慮しない。
だからこそ、彼女は最大の隙を晒している。
俺が右手に握っているのが、ただのナイフではなく、彼女の命を刈り取る死神の鎌であることに気づきもせずに。
「……ターゲット、確認。排除する」
俺は感情の籠もらない声で低く呟き、手首を返した。
指の間に挟んだのは、何の変哲もない投擲用のダガー。魔力を帯びているわけでも、毒が塗られているわけでもない、ただの鉄塊だ。
その動作を見て、ベルベット子爵は鼻で笑った。
「あら、抵抗するの? いいわ、殺しはしないであげる。その綺麗な顔は残しておいてあげるから。その代わり、その生意気な手足を切り落として、私のコレクションに加えてあげるわ。地下室にはね、君みたいな生意気な男の子がたくさんいるのよ? すぐにお友達になれるわ」
彼女がパチンと指を鳴らし、高位の防御魔法『アイギスの盾』を展開しようとした、その刹那。
(遅い)
俺は心の中で毒づく。
物理法則に従えば、このナイフが彼女に届くまでには数多の障壁がある。
俺が腕を振り抜き、指先から放たれた刃が空気を切り裂いて飛び、彼女との間にある数メートルの空間を移動する。そして、彼女が展開しつつある高位の自動防御障壁と衝突し、運動エネルギーと魔力のせめぎ合いが行われる……。
本来ならば、そんな不確定要素に満ちた『プロセス』を経なければ、敵の命を奪うことはできないはずだ。
女尊男卑のこの世界で、男の腕力で投げたナイフなど、女騎士や女魔導師の防御を貫くことなど不可能に近い。
だが、あの性格の悪い女神が、転生の餞別として俺に与えた力は、そんなまどろっこしい物理法則や因果律を鼻で笑うような代物だった。
俺のスキルは、この世界のルールそのものを無視する。
理不尽なまでの最強スキル。
【因果逆転】。
俺はただ、結果をイメージするだけでいい。
『ナイフは既に、彼女の心臓を貫いている』と。
『投げる』という原因の前に、『刺さった』という結果を世界に強制する。
時間の流れも、空間の距離も、魔法防御の強度も、すべては意味を失う。
ヒュッ、という風切り音はしなかった。
俺の手からナイフが離れたと認識した瞬間、既にそれはベルベット子爵の豊満な左胸深くに根元まで突き刺さっていた。
「――ガ、ぁ……?」
彼女は何が起きたのか理解できない表情で、自分の胸元を見下ろした。
視線の先には、自分の心臓から生えているダガーの柄。
そして、傷口から溢れ出した鮮血が、高級なドレスを赤黒く染めていく光景。
展開しかけた魔法障壁は、何の意味もなさずにガラス細工のようにパリンと音を立てて霧散していく。
防御の上からでも、回避行動をとったとしても関係ない。「刺さった」という結果が先に確定しているのだから、この世のいかなる盾も意味を成さないのだ。
「な、んで……男、なの……に……ありえ、な……」
ドサリ、と重い音が響く。
ベルベット子爵は床に崩れ落ち、痙攣し、やがて動かなくなった。瞳孔が開いたその目は、最後まで現実を受け入れられないまま、恐怖と驚愕に彩られて虚空を見つめている。
圧倒的な静寂。
蝋燭の炎が揺れる音さえ聞こえそうなほどの静けさの中、俺は靴音を響かせず、遺体に歩み寄る。
「……男だからこそ、だよ。あんたのその油断が、最大の死因だ」
誰にも聞こえない声で呟き、俺はナイフを回収することなく踵を返した。
証拠は残さない。だが、このナイフは俺自身の魔力で構成された『魔力武装』の一種だ。数分もすれば大気中のマナに溶けて跡形もなく消滅する。
任務完了。
辺境伯家の当主として、そして裏の掃除屋としての仕事は終わった。
俺は視線を執事の少年に向けた。彼は腰を抜かしたまま、震える声で何かを言おうとしていた。
「……見なかったことにしろ。そして、逃げろ。金庫の金でも持って、遠くへ行くといい」
一言だけ告げ、俺がバルコニーへ戻ろうとした時だった。
ズドオオオオオオオオンッ!!
屋敷全体が揺れるほどの、爆発音のような轟音が響き渡った。
シャンデリアが激しく揺れ、テーブルの上の皿が床に落ちて割れる。
「ッ!? なんだ?」
警備兵に見つかったか? いや、俺の隠密スキルは完璧だったはずだ。増援が来たとしても、ここまでの破壊音を立てる必要はない。
まるで、攻城兵器が直撃したかのような衝撃。
嫌な予感が背筋を走る。
慌ててバルコニーから外を見ると、手入れの行き届いていた屋敷の広大な庭園に、巨大なクレーターが出来上がっていた。
美しかった噴水は粉砕され、植木はなぎ倒され、もうもうと土煙が上がっている。夜の庭園は、一瞬にして戦場跡地のような惨状へと変わっていた。
そして、その煙の中から、聞き覚えのある……いや、今一番聞きたくなかった声が、地獄の底から響くように聞こえてきた。
「――おらぁあ! どこのド三流貴族じゃボケェエエ! うちの坊主に指一本でも触れてみろ! この屋敷ごと更地にしてやるぞゴラァアアア!!」
土煙を払い、現れたのは一人の美女。
燃え盛る紅蓮の長髪をなびかせ、身の丈以上もある巨大なバスターソードを片手で軽々と振り回している。
際どいビキニアーマーに、ジーンズ生地のショートパンツ。そこから伸びる健康的な手足には無数の古傷が刻まれているが、それがかえって彼女の野生的な美しさを際立たせている。
その全身から立ち昇る闘気は、周囲の空気を歪ませるほどだ。
……ティランだ。
俺の最強の部下であり、戦闘狂の集まりである『火怒』のリーダー。
「くろのすさまぁ~! どこですかぁ~! 遅いからお迎えに来ましたよぉ~! もう敵は皆殺しにしていいですかぁ~?」
さらに、その頭上を軽やかに飛び回る小柄な影。
大きなキャスケット帽を被った幼い少女が、無邪気な笑顔でダガーを弄んでいる。その愛らしい見た目とは裏腹に、彼女の足元には既に数人の屈強な警備兵が白目を剥いて転がっていた。
『風音』のリーダー、リゼ。
俺は額に手を当て、深い深い溜息をついた。
「……あいつら、隠密任務だって言ったよな? なんで正面突破してんだよ……」
俺の平穏な夜は、ターゲットを殺したことよりも、これから始まる彼女たちの過剰すぎる「お迎え」と「事後処理」によって、無残にも破られることになるのだ。
「おい坊主! 無事か!? 怪我はねぇか!? どこぞの馬の骨か分からん女狐共に傷つけられてねぇだろうな!?」
俺がバルコニーに姿を見せるや否や、ティランは爆発的な跳躍力で二階まで飛び上がってきた。
ドスンッ! と重い音を立ててバルコニーに着地するなり、彼女は愛用の大剣を放り出し、猛烈な勢いで俺に詰め寄ってきた。
身長一八〇センチを超える長身に、豊満すぎる胸。至近距離で見ると、その迫力はもはや暴力に近い。
彼女からは、破壊したばかりの土の匂いと、微かな焦げ臭さ、そして彼女自身の熱気が漂ってくる。
「ティラン、落ち着け。俺は平気だ。というか、顔が近い」
「ああん!? 落ち着いてられるか! 坊主は男なんだぞ!? こんな夜更けに、あんな淫乱ババアの屋敷に一人で潜入なんざ、正気の沙汰じゃねぇ! もし万が一、貞操の危機にでも晒されたらどうすんだ!」
彼女は俺の肩をガシッと掴むと、まるで壊れ物を検品するかのように、俺の身体をくまなくチェックし始めた。
服の乱れはないか、傷はないか、変な魔法をかけられていないか。その目は血走っており、完全に保護者の域を超えている。
「……暗殺任務だと言ったはずだが。それに、俺の実力を一番知っているのはお前だろう」
「暗殺だろうが遠足だろうが関係ねぇ! 実力があっても、万が一ってことがあるだろうが! 男の身体は国の宝! 坊主の身体は俺たちの宝だ! 傷一つでもついてみろ、この国ごと焼き尽くしてやる!」
ティランの瞳孔は完全に開いていた。
冗談ではない。彼女の二つ名『火怒』は伊達ではない。かつて彼女は、所属していた傭兵団を裏切った小国を、たった一人で壊滅させた過去を持つ。本気で国の一つや二つ、単騎で滅ぼしかねない火力を有しているのだ。
現に、彼女の背後では先ほどまで美しかった庭園が、今や更地と化している。彼女にとって「潜入」とは「敵の殲滅」と同義らしい。
「クロノスさま、クロノスさまっ! はい、これお土産です!」
殺気走るティランの横から、ひょっこりと顔を出したのはリゼだった。
風の精霊のように音もなく着地した彼女は、俺の腰にギュッと抱きつくと、スリスリと頬を擦り寄せながら、手に持っていた『何か』を俺に差し出した。
それは、屋敷の警備兵たちが持っていた魔導槍の残骸と……ひん曲がった階級章バッジの山だった。
「……リゼ、これは?」
「警備のおばさんたちがね、『そこを通してくれ』って言ったら、『子供は帰って寝ろ』って言うんです。だから、ちょっとだけお昼寝させてあげました! えへへ、褒めてくれますか?」
満面の笑みで首を傾げるリゼ。
その天使のような愛くるしい笑顔の裏で、彼女は「ちょっとだけお昼寝(=永眠)」という物騒な隠語を平然と使いこなす。
『風音』のリーダーである彼女は、見た目こそ幼い少女だが、その本性は情報のプロフェッショナルであり、邪魔者を笑顔で排除する死神だ。
彼女が差し出したバッジには、微かに血が付着している。それを一切気にすることなく、彼女は無邪気に褒め言葉を待っている。
「……そうか。迅速な制圧、ご苦労だったな」
「わぁい! クロノスさまに褒められたぁ! ティランお姉ちゃん、見た? 見た!? 私の方が役に立ったもんねーだ!」
「ちっ、リゼのやつ卑怯だぞ! 俺だって坊主のために正門をぶち破って……」
「お前が正門を爆破したせいで、隠密性がゼロになったんだろうが」
俺はこめかみを揉みながら、二人の間に入った。
このままでは、死体が転がる暗殺現場で、不毛なマウント合戦が始まってしまう。
既に屋敷の中は大騒ぎだ。使用人たちの悲鳴や、遠くから駆けつけてくる王都警備隊の笛の音が聞こえ始めている。
これ以上ここに留まるのはリスクが高い。
「撤収するぞ。ティラン、リゼ。遊んでないでずらかるぞ」
「御意! さぁ坊主、俺の背中に乗れ! お姫様抱っこの方がいいか!? それとも肩車か!?」
「自分で走れる」
「ダメですクロノスさま! 地面にはガラス片が落ちてるかもしれません! 私が風の結界で運びますから、足を浮かせ……ああっ、もう! 歩かないでくださいぃぃ!」
俺がバルコニーの手すりに足をかけると、二人は悲鳴のような声を上げて俺を取り囲んだ。
過保護。過干渉。
この世界の女性たちが持つ、男性に対する共通認識。
『男は弱い』『男は守るべきもの』『男に粗相をさせてはいけない』。
俺が最強の暗殺者であろうと、因果を逆転させるスキルを持っていようと、彼女たちの目には「今にも壊れそうな儚い存在」として映っているらしい。
ありがたいような、鬱陶しいような。
「……分かった、分かったから。リゼ、風の魔法でカモフラージュを頼む。ティラン、お前は殿だ。追っ手が来たら威圧だけで追い払え。殺すなよ? 絶対に殺すなよ?」
「おうよ! 半殺しで止めておくぜ!」
「殺すなと言ってるんだ……」
俺の指示に、リゼが楽しそうに指を振った。
ふわり、と風が舞う。
次の瞬間、俺たちの姿は光学迷彩のように夜の闇に溶け込み、誰の目にも映らなくなった。
背後からは、遅れてやってきた警備隊の「なんだこの惨状は!?」という驚愕の声が聞こえてくる。
俺たちは風に乗り、王都の空を駆け抜けた。
王都の夜空を駆け抜けること数十分。
俺たちは煌びやかな貴族街を抜け、郊外の深い森の中にある秘密の転移ゲートを通過し、拠点である『ナイトレイ城』へと帰還した。
ナイトレイ公国は、ルナリア王国の辺境に位置する小国だ。
鬱蒼とした森と険しい山々に囲まれたこの地は、天然の要塞とも言える。その中心に立つナイトレイ城は、歴史を感じさせる古城だ。
表向きは静かな田舎の領地だが、その城の地下には広大な暗殺組織の本部が広がっている……わけではなく、俺たちは普通に城の正面玄関から堂々と帰宅した。
なぜなら、この城に住む使用人すべてが、俺の正体を知る『共犯者』だからだ。
「お帰りなさいませ、クロノス様」
城の重厚な扉が開くと、エントランスホールには一斉に整列したメイドたちが深々と頭を下げていた。
彼女たちの所作は洗練されており、一糸乱れぬ動きは軍隊のそれにも似ている。
その最前列、ひときわ冷ややかな空気を纏い、無表情で佇む一人のメイドがいた。
短めの黒髪ショートカットに、小柄な体躯。黄色い瞳は感情を映さず、ただ静かに俺を見つめている。
『冥土』のリーダー、ノクトだ。
彼女は俺の姿を確認すると、コンマ一秒で安堵の色を一瞬だけ瞳に宿し、すぐに元の無表情に戻った。
「……遅い」
「ただいま、ノクト。少し手間取ってな」
「嘘。ターゲットの排除は予定時刻の二分前に完了していたはず。遅延の原因は、そこの赤毛のゴリラと、帽子を被った小猿のせい」
ノクトは淡々とした口調で、俺の後ろにいる二人を毒舌で切り捨てた。
その手には、愛用の武器であるチェーンハンマーではなく、掃除用のモップが握られている。だが、そのモップの柄がミシミシと音を立てて軋んでいるのは気のせいだろうか。
彼女の視線は、俺の背後で騒いでいるティランとリゼに向けられ、絶対零度の冷たさを放っている。
「ああん!? 誰がゴリラだこの貧乳メイド!」
「小猿じゃないもん! リゼは有能な参謀だもん! ちゃんとクロノスさまを守って帰ってきたもん!」
「……うるさい。クロノス様がお疲れ。貴様らの騒音で主人の鼓膜が汚れる。それに、クロノス様に土埃がついている。ティラン、貴様が暴れ回ったせいだ。万死に値する」
ノクトは表情一つ変えず、しかし明確な殺気を放ちながらティランとリゼを睨みつけた。
三すくみ。
火、風、土。属性の異なる災害級の女たちが、エントランスで火花を散らす。
いや、この城においては日常茶飯事の光景だ。
俺は彼女たちの喧嘩をBGMに、重いコートを脱ぎ捨てた。
「クロノス様、お怪我はありませんか?」
すっと音もなく俺の背後に忍び寄り、脱いだコートを受け取ったのは、銀髪の美女だった。
眼鏡の奥で光る瞳は理知的で、褐色の肌が白いクラシカルメイド服によく映える。胸元が大きく開いたデザインは扇情的だが、彼女の纏う雰囲気はあくまで冷静沈着だ。
俺の側近であり、四部隊を統括する『四律師』のレグルだ。
「ああ、問題ない。ターゲットは始末した。それより、城の方はどうだ?」
「万事滞りなく。本日の公務に関する書類の決裁と、周辺諸国の情報収集は完了しております。……ですが」
レグルは眼鏡の位置を指で直し、俺の顔を覗き込んだ。
「お顔色が優れませんね。魔力反応も少し乱れています。精神的な疲労が見受けられます。直ちにヴネナンを呼び、精密検査とメンタルケアを……」
「いらない。ただ眠いだけだ」
「かしこまりました。では、直ちに寝室の準備を。最高級のアロマと、安眠効果のあるハーブティー、それと……私の膝枕での『癒やしの儀式』はいかがなさいましょう? 本日は特別に、膝枕だけでなく添い寝もセットで――」
「いらないと言ってる」
レグルは真顔でとんでもない提案をしてくる。
彼女は俺の秘書として完璧な能力を持っているが、その「完璧」のベクトルが常に「クロノスへの過剰な奉仕」に向いているのが玉に瑕だ。
隙あらば既成事実を作ろうとするその姿勢は、忠誠心なのか、それとも別の何かなのか。
「あらあら~、坊っちゃまのお帰りね~?」
そこへ、甘ったるい声と共に、廊下の奥から白衣を羽織った妖艶な女性が現れた。
艶やかな黒髪のロングヘアに、白衣の上からでも分かる豊満すぎるプロポーション。歩くたびに揺れるその肢体は、まさに「歩く凶器」だ。
『水麻』のリーダー、ヴネナンだ。
彼女の手には、怪しげな紫色の液体がボコボコと沸騰しているフラスコが握られている。
「おかえりなさい、坊っちゃま。……ふふ、素敵な匂い。血の匂いと、硝煙の匂い。興奮しちゃうわね。誰か殺してきたの? それとも、返り血を浴びちゃった? ほら、お姉さんが綺麗にしてあげるから、こっちへいらっしゃい……」
彼女は舌なめずりをしながら、獲物を狙う蛇のように近づいてくる。その目は完全にイッている。
マッドサイエンティストであり、サディストであり、そして俺に対してはマゾヒストでもあるという、属性過多な彼女は、この城で一番危険な人物かもしれない。
「ヴネナン、その液体は何だ」
「これ? ただの滋養強壮剤よぉ。ドラゴンの肝と、マンドラゴラの根っこを煮詰めてみたの。ちょっとだけ、幻覚作用と強烈な依存性があるけど……坊っちゃまになら、特別に『口移し』で飲ませてあげてもいいわよ? 元気になるわよぉ~?」
「捨ててこい。今すぐにだ」
俺は即答し、彼女から距離を取った。
この城には、まともな奴がいないのか。
戦闘狂、サイコパス、ヤンデレ、ストーカー気質の秘書、そしてマッドサイエンティスト。
最強の布陣ではあるが、精神衛生上は最悪だ。
ため息をつきつつ、俺はエントランスの階段を見上げた。
今の俺に必要なのは、温かい風呂と、ふかふかのベッドだけだ。
「……とりあえず、風呂に入って寝る。報告は明日の朝だ。いいな?」
俺の言葉は絶対だ。
この個性豊かな(豊かすぎる)面々も、主である俺の命令には逆らわない。
……はずなのだが。
「お風呂! いいですね! 坊主、背中流してやるよ! 戦いの汗を流すのは戦友の役目だろ!」
「あ、ティランずるい! 私も一緒に入る! 泡風呂にしてあげる!」
「……主人の身体を洗うのは、専属メイドである私の義務。垢すりの準備はできている」
「あら、医学的見地からボディチェックも必要ねぇ。どこか怪我をしていないか、隅々まで診察してあげましょうか? 特に下半身の……」
「お前らは入ってくるな!!」
俺の叫び声が、深夜のナイトレイ城に虚しく響き渡った。
最強の暗殺貴族である俺の、平穏な日常は……やはり前途多難のようだ。
新連載、いよいよスタートしました!
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
現代で虚無感を感じていた主人公が、今度は「最強の力を隠しながら溺愛される」という、ちょっと(かなり?)過保護な異世界生活を送ることになります。
個性豊かな(そして愛が重すぎる)6人のヒロインたちとのやり取りを楽しんでいただけるよう、気合を入れて執筆してまいります!
これからクロノスの物語を、どうぞよろしくお願いいたします。
最後までお読みいただきありがとうございます!
もし「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、下にある広告下の評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に!)や、ブックマークで応援していただけると、執筆の大きな励みになります。
感想も一言いただけると、作者が泣いて喜びます。よろしくお願いします!




