プロローグ:終わりの始まりと、女神の悪戯
深夜二時。点滅する信号機が、雨に濡れたアスファルトを毒々しい赤色に染めている。 コンビニの袋を片手に、俺は誰もいない横断歩道を渡り始めた。 ビニール袋の中身は、半額シールの貼られた幕の内弁当と、発泡酒。それが、三十路を目前にした男のささやかな晩餐だった。
人生というのは、どこまで行っても退屈な映画のようなものだと思っていた。 子供の頃は自分が物語の主人公だと信じていた時期もあったが、社会の歯車として摩耗していくうちに、そんな幻想は跡形もなく消え失せた。 特に大きな不幸があったわけじゃない。借金があるわけでも、大病を患っているわけでもない。かといって、胸が躍るような幸運もなかった。宝くじには当たらないし、運命的な出会いもない。 ただ毎日働き、上司に頭を下げ、家に帰り、泥のように眠る。 休日は死んだように身体を休め、また月曜日が来るのを怯えて待つ。その繰り返し。 気付けば二十代も終わりかけ。俺には守るべき家族もいなければ、愛を囁き合う恋人もいない。友人と呼べる人間も、学生時代の疎遠になった数名だけ。
「……ま、こんなもんか」
誰に言うでもなく呟いた、その時だった。
雨音を切り裂くような轟音が鼓膜を揺らしたかと思うと、視界の端が強烈なヘッドライトで白く塗りつぶされた。
ブレーキ音は聞こえなかった。
熱も、痛みも、衝撃すら感じる暇もなかった。
俺の意識は、テレビの電源を落とすように、唐突にプツンと途切れた。
次に目が覚めたとき、俺は果てしなく続く白い空間に漂っていた。
上下左右の感覚がない。重力という鎖から解き放たれたかのように、身体の感覚すらない。 ただ純粋な「意識」だけが、インクの染みのようにそこにあった。
「あら、随分とあっさり死んじゃったのね」
鈴を転がすような、それでいてどこか威厳を含んだ声が響く。
何もない空間に光の粒子が集まり、螺旋を描きながら一人の女性の姿を形作っていく。 黄金の髪は自ら発光しているかのように輝き、透き通るような白い肌は陶器のようだ。背中には純白の翼が六枚。誰がどう見ても「女神」としか形容できない存在が、ふわりと宙に浮いている。
「君、トラックに轢かれたわよ。居眠り運転の暴走トラック。即死。享年二十八歳。……残念だったわね?」
女神は小首を傾げて俺を覗き込む。その瞳は、深海のように青く、底知れない。
俺は自分の死を理解し、そして自分でも驚くほど冷静にそれを受け入れていた。
不思議と恐怖はない。家族への未練も、やり残した仕事への後悔もない。
むしろ、終わりの見えないマラソンをようやく完走したような、肩の荷が下りたような、奇妙な安堵感があった。
「……そうか。俺は死んだのか」
「反応薄いなぁ。もっとこう、『生き返らせろ!』とか『異世界に行きたい!』とか、泣き喚いたりしないの?」
「ないな。……もう、十分だ。疲れたよ」
俺の言葉に、女神は目を丸くし、それから意地悪そうに口角を上げた。その笑みは聖女のようであり、悪魔のようでもあった。
「無欲な魂は希少よ。気に入ったわ。ねえ、君。もう一度チャンスをあげましょうか?」 「チャンス?」
「そう。異世界転生。ラノベや漫画でよくあるでしょ? 君の魂、まだ汚れが少なくて綺麗だから再利用できそうなの。次は剣と魔法のファンタジー世界よ。どう?」
断ろうとした。もう一度、あの退屈で色のない日々を繰り返すのか、と。
けれど、心のどこかで微かな火種のような未練が燻っているのを感じた。
――もしも。 もしも、しがらみのない、全く新しい人生があるのなら。
社畜として飼い殺されるだけの人生ではなく、自分の意志で選び、歩むことができる人生なら。
そこでなら、俺は何か別の生き方ができるのだろうか。
「……条件がある」
「お、乗ってきた。なになに? 王様にしてほしい? それとも大金持ち?」
「記憶を消してくれ」
俺は女神の青い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「前の人生の記憶なんていらない。俺が誰だったか、どんな人生を送ったか。そんな重荷を持って新しい世界に行きたくない。あんな空っぽな人生の記憶を引きずったままじゃ、きっと俺はまた同じような人間に育ってしまう。真っ白な状態で始めたいんだ」
「ふーん……。過去を捨てる、か。潔いというより、臆病ね。でも、そういうの嫌いじゃないわ」
女神はつまらなそうに頬杖をついたが、すぐに何かを思いついたようにニヤリと笑った。
「いいわよ。君の個人的な記憶――名前や経歴、人間関係、日本で過ごしたあの日々の記憶はすべて消去してあげる。でも、完全に赤ん坊の知能に戻っちゃうと、次の世界で生き残るのは大変よ? だから、『知識』や『概念』……そうね、現代日本の倫理観とか科学知識、言語能力なんかは、深層意識に残しておいてあげる。OSだけ残して、ユーザーデータは初期化するイメージね」
「それで構わない。ありがとう」
「契約成立ね。……でも、ただ転生させるだけじゃ面白くないわ。君、ちょっと苦労しそうだし」
女神が指先をくるくると指揮者のように回すと、俺の魂の周りに虹色の光が帯のように纏わりついた。
「君が次の世界で退屈しないように、私の特別製スキルをプレゼントするわ。最強の暗殺スキルセットよ」
「暗殺? なんでそんな物騒なものを。もっと勇者っぽいスキルはないのか?」
「あら、次の世界はね、男の子がとっても弱くて生きにくい場所なの。女尊男卑……っていうのかしら? とにかく、男は守られるだけのお姫様ポジション。だから、自分の身くらい自分で守れないと、悪いお姉さんたちに食べられちゃうわよ」
女神は意味深にウィンクをした。 俺の意識が急速に遠のいていく。白い世界が崩れ落ち、絵の具をぶちまけたような新たな色彩が混ざり合う。重力が戻り、肉体の感覚が蘇ってくる。
「ああ、それともう一つ。『おまけ』をつけておいたから。せいぜい苦労しなさいな、新しい人生で」
それが、俺が聞いた最後の言葉だった。 俺――いや、後に「クロノス・ナイトレイ」と呼ばれることになる男の物語は、こうして幕を開けた。
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