3.入れ替わりの生活
初めて入ったトリスタン伯爵家にマリーは目を丸くした。重厚な門をくぐり、長い石畳を抜けた先に屋敷があった。磨き上げられた大理石の床を踏むたびに、足音が響く。応接室の天井は高く、頭上のシャンデリアが柔らかい光を放つ。一歩進むたびに自分が場違いに思えた。
侍女のサラは紅茶と菓子をテーブルに置くと、部屋から出て言った。
「あのシャンデリア、落ちてきたら死にますね」
「感想がそれですか? おかしな人ですね」
ローズに笑顔が自然にこぼれる。
いつ元の姿に戻れるか分からない。しばらくは、入れ替わって生活することになる。家族、学校の交友関係、日常生活に支障がないように、ローズとマリーは情報を共有した。
ふと、リディアの言葉を思い出した。来月誕生日の女性への贈り物、きっとローズへの贈り物ではない。それなのに、ローズが気にする素振りはない。
カフェやダリオ商会での振舞いから、カルロスは複数の女性と関係があるのだろう。貴族の政略結婚に当事者の意思は尊重されない。とはいえ、婚約者の不貞を許せるものだろうか?
「カルロス様は本当にローズ様の婚約者ですか?」
「もちろん、彼は私の婚約者ですわ」
ローズは指先で髪を触った。気にしない素振りをしながらも、内心は嫌なのだろう。
「カルロス様の態度は、あまりにひどくありませんか?」
「いいのです。貴族とはそういうものです」
感情を表に出さず、いつも笑顔で応対する。それが伯爵令嬢だとローズは考えている。
「納得できません。でも……ローズ様がおっしゃるのであれば、当面の間は、カルロス様との関係を継続しておきます」
「そうしてちょうだい。カルロスに失礼のないように」
お人よしのローズを利用する婚約者カルロス。カフェでは5人の女性との食事代をローズに押し付けた。ローズが渡した孤児院の運用費用も、私的に流用しているかもしれない。
爽やかな笑顔、たくましい体つき、豊富な話題。カルロスに憧れる貴族令嬢は多い。しかし、良くない噂も聞く。
カルロスは毎回別の女性をダリオ商会に連れてくる。ローズから受取った金を、別の女につぎ込んでいたとしたら? ダリオ商会の売上の一部がローズからだまし取った金かもしれないと考えると、恥ずかしかった。
カルロスはローズに相応しくない。そう考えるのは、おかしなことだろうか。
「とりあえず、明日からお互いにうまくやりましょう」
ローズはぼんやりと天井を見つめた。
**
ローズから屋敷での過ごし方を教わった後、二人はマリーの実家に向かった。
トリスタン家の馬車がダリオ商会に到着すると、従業員が何事かと出てきた。
馬車から降りたローズに「どうしたのですか?」と従業員が耳打ちする。
「トリスタン嬢に商品を見せてほしい、と言われまして」
ローズは愛想笑いを浮かべた。
応接室に案内されたローズは落ち着きなく、部屋の中を見回している。
「何か気になることでも?」
「平民だと謙遜する割には、いい部屋ですね」
マリーは「ふっ」と苦笑いをする。
「何かおかしなことでも言いましたか?」
「いえ、ここはご婦人に品物を買っていただくための部屋です」
「というと?」
「ご婦人に夢を見せるために、豪華な家具、絵画を揃えています。でも、その扉を開けたら何もありません。ただの平民の家です」
ローズは気になったのか「開けてみても?」と扉を指した。「どうぞ」というと、ローズは扉を開けた。
窓がなく薄暗い廊下、湿り気を帯びた空気が漂っている。ローズは肩をびくりと震わせた。
「ここに入るの?」
「ええ、これが平民の家です」
マリーは頭をかいた。やはり、伯爵令嬢がこの家で暮らすのは難しいだろうか? ローズは遠くを見つめたまま動かない。
「ここで暮らすのは止めておきますか?」
「いえ、大丈夫です。ちなみに、幽霊はいないわよね?」
マリーは「ええ」と苦笑いをする。
「本当に?」
「本当です。ただ、ネズミはいます」
ローズは胸をなでおろす。
「入ってもいいかしら?」
「もちろんです」
マリーはローズの手を取って、廊下を歩く。燭台の炎が、ゆらゆらと長い影を壁に描く。
「いい香りね」
「ジャスミンです。その部屋に葉が保管してあります」
ローズが近づいたら、中から扉が開いた。
「きゃっ」
驚いたローズは反射的に後ろへ飛びのいて、石床に腰を打ちつけた。
「いっ!」
息が喉に詰まり、声にならない。
「大丈夫?」
扉の隙間から小さな影が現れた。男の子は、落ち着きなくローズを見つめる。
「弟のマルコです」
マリーがそっと耳打ちする。マルコは木の人形を握りしめ、尻もちをついたローズに手を差し出す。
「……もう、驚かさないでよ」
「綺麗な女の人だね。お友達?」
容姿を褒められたローズの目が輝く。
「かわいい。触ってもいいかな?」マリーに小声で尋ねた。
「弟ですからね。いいんじゃないですか」
苦笑いするマリーを横目に、ローズはマルコを抱き上げた。
「やめてよ」と嫌がるマルコ。
「いいでしょ。今日は一緒に寝ようね」
二人のやり取りを見て、マリーはほっと息を吐いた。これなら、この家で暮らせそうだ。
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