1.私があなたで、あなたが私
「ドロボー! 誰か捕まえてー!」
マリーが配達のために路地を歩いていたら、女の声がした。前から裸足の少年が駆けてくる。胸に布袋を抱え、幼い顔は汗で光っている。首から下げた羽の首飾りが揺れる。
この辺りには孤児が多い。生きていくためには金が要る。表通りにあるブティック、カフェに来る貴族を狙って、身に着けた宝石や持ち物を盗む。少年の境遇に同情するが、犯罪はいけない。
善良な平民は、少年に盗まれた貴族の布袋を取り返すべきだろう。しかし、今は配達の途中。遅れると面倒だ。どうしよう? 考えているうちに、少年が前に迫る。
脇を走り過ぎようとした少年の足を、持っていた棒で引っかけた。少年はつまずいて古い石造りの建物にぶつかった。
マリーは少年から布袋を取り上げた。ずっしり重い。袋を開けると、銀貨が入っていた。数百枚はあるだろうか? ひったくりのはずなのに、店に強盗に入ったような量の銀貨。厄介なことに巻き込まれた。マリーは長いため息をついた。
布袋から銀貨を一枚取り出す。銀貨一枚あれば、一日の稼ぎとして十分だ。それに、この布袋を持っていたら、少年は誰かに狙われる。
「これをあげるから、このまま行きなさい」
少年はマリーが差し出した銀貨をひったくると、去っていった。
窓辺に咲くゼラニウムの花を横目に路地を歩いていくと、息を切らして女が歩いてきた。女が貴族であることは、身なりから疑いの余地がない。それにしても……こんな大金を一人で持ち歩くなんて、信じられない。
「これは、あなたのものですか?」
マリーは袋を差し出す。女は「はあ、はい」と言いながら、マリーを見た。黄金の髪に高価なドレス、帽子、バッグを身に着けている。ただ、それぞれの色とデザインがかみ合っておらず、全体として安っぽい雰囲気がする。どれも高価な品なのに、もったいない。
ぼんやりと見ていたら、女が何かを言った。息を切らせた女の言葉が聞き取れず、「すいません。もう一度いいですか?」と愛想笑いを浮かべた。
「あの、ありがとうございます。私のものです。泥棒を捕まえてくれたのですか?」
「この袋は取り返しました。でも、泥棒には逃げられました」
「そうですか。とにかく、お礼をさせてください」
袋を渡すと、女は笑顔で平民に礼を言った。偉ぶらない、珍しい貴族だ。
遠くから鐘の音が聞こえた。配達に指定された時間に遅れる。
「いえ、お礼は結構です。配達の途中なので、これで失礼します」
マリーが立ち去ろうとしたら、青く澄んだ空が歪んで見えた。透明なガラスの中から見るように、建物の屋根がぐにゃりと曲がる。地面が揺れていないのに視界が揺れる。
「きゃっ、なに?」
女が悲鳴をあげた。女にも歪みが見えている。マリーの錯覚ではない。揺れに耐えきれず、地面にかがみ込んだ。
「大丈夫です。すぐに収まります」
そんなことは分からない。でも、落ち着きなくあたりを見回す女を見ていたら、自然に言葉が漏れた。女の手を握りしめる。
「そうね。そういえば、財布を取り返してもらったのに、名乗っていませんでしたね。ローズです」
「ダリオ商会のマリーです」
手を差し出そうとしたマリーは、ローズの手を握っていることに気付いた。ローズも愛想笑いを浮かべた。二人は同時に「ふっ」と笑う。小さな笑いは次第に大きくなり、声を上げて笑った。マリーは照れくさくなって目をそらした。
「ところで、ローズ様は、あのローズ様ですか?」
「あのローズかどうか分かりませんが、トリスタン家のローズです」
マリーの目が輝く。ローズ・トリスタン。トリスタン伯爵家の令嬢。ダリオ商会の顧客から何度か噂を聞いたことがある。実物を見るのは初めてだ。
黄金の髪に目鼻立ちの整った顔。礼儀正しく、笑顔が素敵な伯爵令嬢。ファッションセンスは残念だけど、それ以外は噂どおりだった。
「きゃっ」
強い揺れがきた。ローズがマリーに抱きつく。
「大丈夫ですよ」マリーは何度も繰り返した。
しばらくすると、揺れが収まった。どれくらい揺れていたのだろう? とても長い時間に感じられた。
「収まったようですね。お怪我はありませんか?」
背中に回した手をほどいて、ローズを見た。
「えっ?」
黒髪がさらりと揺れた。黒髪の奥から覗く瞳に、吸い込まれそうになる。
マリーは目を丸くした。毎日鏡で見る顔を、見間違えるわけがない。
「えっ、私?」
目の前のマリーが言った。マリーの姿をした、マリーではないマリー。
この場にはローズとマリーの二人しかいない。だから、自ずと答えは導かれる。
「あの……ローズ様ですか?」
目の前のマリーは小さくうなずいた。
路地の家の窓を見た。見覚えのある高価なドレス、帽子が映る。窓に近づくと黄金の髪のローズ・トリスタンがいた。
隣にはマリーの姿になったローズが窓を見ている。小さくため息をついた。
「私があなたで、あなたが私」
「申し訳ありません」
平民の身体に伯爵令嬢が入っていることが、どうにも恥ずかしかった。
「なぜ、あなたが謝るの?」
なぜ? マリーはぼんやりと前を見ながら考える。
「平民の身体と入れ替わって、ローズ様は嫌ではないですか?」
「全然気にならないわ。あなたは私の体は嫌ですか?」
「いえ、そういうわけでは」
マリーはよく手入れされた爪を見ながら、愛想笑いを浮かべた。
「じゃあ、お互い様ですわね。一度、黒髪にしてみたかったの。それに、この服装は動きやすくていいわね」
ローズは弾むように話した。窓の前でくるりと回る。自分の身体なのに、別人のように動く。そんなに嬉しいのだろうか? ローズは服を引っ張って、素材を確認している。
「安物の服ですみません」
「だから、なぜ謝るの? せっかく入れ替わったのだし、いろいろ試してみたいわね」
「いろいろですか?」
伯爵令嬢と入れ替わって困惑するマリー。一方のローズは、置かれた状況に早くも順応したようだ。
何をさせられるのか、考えると背筋がぞくりとした。
ローズは少し考えてから、「そうだ、忘れていましたわ」と手を叩いた。
「私はこのお金をカルロスに届ける約束でしたの。あなたが代わりに届けてもらえないかしら」
「代わりにですか?」
「この見た目では、カルロスが驚くでしょう。私も一緒に行きますから」
マリーは口元に手を当てて黙り込んだ。身体が入れ替わったのだから、お互いに協力が必要。それに、マリーの用事をローズに頼まないといけない。
「わかりました。その代わり、その商品をお客様に届けるのを手伝っていただけますか?」
マリーが包を指すと、「もちろんですわ」とローズは微笑んだ。
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