新幹線での逃亡戦
伊織が黒スーツを背負ったまま、日向に先導されて乗務員室までやってきた。
ここに着くまでにすでに名古屋駅は過ぎて、次は京都に向かっている。
3号車から8号車まで、細い上に安定しない床を移動するのはなかなかハードな上に、名古屋駅では乗降客の波に飲まれてしまい、かなり大変だった。
日向はちょっと息が上がっている。
伊織は平然としていたが。
それはともかく、先に歩いていた日向は軽く深呼吸して息を整えると、乗務員室の扉をノックした。
すると、すぐに扉が開いた。
車掌が顔を出すと、驚いた様子で伊織を見た。
「だ、大丈夫ですか?」
「3号車の乗降口に倒れていたのです。
心配だったので、運んできました。」
伊織が口を開く前に日向が説明した。
それに車掌が下を向いて、再びびっくりしたような顔になった。
男を背負っている伊織に注意が向いていたので、日向が視界に入っていなかったらしい。
でも、そこはプロ。
すぐに落ち着いた態度を取り戻した。
「そうでしたか、ありがとうございます。
とりあえず中にお入り下さい。」
車掌がそう言ったところで、途端に日向が警戒する顔になった。
半歩下がって伊織にぶつかると、後ろ向きに見上げるようにして伊織を見た。
「お兄ちゃん、気を付けて。」
「どうした?」
伊織が目を細めて日向を見下ろすと、日向が緊迫した表情で短く告げた。
「普通は、乗務員室に客を入れたりしないの。」
言うと、日向はパッと進行方向、つまり元来た方に向かって走り出した。
伊織も日向がその短い言葉に籠めた意味を受け取って、背負っていた黒スーツを車掌に向けて背負い投げの要領で投げつけた。
日向が言外に何を言いたかったのかと言うと、つまり、この車掌もおそらく追手の仲間。
そう言えば、この黒スーツも車内のどこかへ連れて行こうとしていたな、と伊織は思い出した。
新幹線という空間で、乗客に秘密で捕まえておくなら、乗務員室は持ってこいの場所だ。
伊織は黒スーツを投げつけた後、日向を追いかけて走り出した。
揺れる床に苦戦しながら走っていた日向にすぐに追いついて、抱き上げるとそのまま進行方向に向かって走る。
日向も伊織の首に腕を回して、ぎゅっと抱き着く。
この移動方法にも、もう慣れたものだ。
伊織が投げた黒スーツをモロに受けてしまった車掌は、黒スーツに押し倒されるような形で乗務員室に倒れ込んだ。
車掌は慌てて黒スーツを身体の上からどけると立ち上がって、車内放送のマイクを手に取った。
◇ ◇ ◇
日向を抱えた伊織が新幹線の狭い車内を駆け抜けていると、車内アナウンスがかかった。
『現在、車内で緊急事態が発生しています。
男が少女を攫って逃亡中です。
危険ですので、手出しはお控えいただくようにお願いします。』
思わず天井を見上げる伊織と日向。
もちろん足は止めずに。
二人の周囲がざわついた。
「なるほど、そう来たか。」
「そう来たかじゃないよ、お兄ちゃん。
誘拐犯にされちゃってるよ。」
「大丈夫だろ。
捕まっても、日向が証言してくれれば問題ない。」
「甘いよ、お兄ちゃん。
警察に捕まったりなんかしたら裏から手を回されて、お兄ちゃんと引き離されて、そのままお兄ちゃんは独房入りだよ。」
日向はだいぶ焦っている様子で、早口で喋っている。
ただ、その時、ハッと気が付いたような顔をした。
「そうだ、お兄ちゃん、次の駅で降りようよ。
少なくとも、新幹線内からは逃げれるよ。」
その時、伊織の足を引っかけようとしたのだろう。
乗客が横から足を延ばして来たのを、伊織は簡単に躱して走り続けた。
「ん、そのつもりだ。」
伊織が答えると、日向はムッとした。
「考えてたなら言ってよ、お兄ちゃん。
焦っちゃったじゃん。」
「足を止めてから言うつもりだったんだ。
すまない。」
伊織が素直に謝ると、日向はムッとした、ではなくて、ムムーッとした顔になった。
とりあえず先頭車両まであと2両。
といったところで、客室を出たところで道を塞がれた。
伊織ほどの背はないものの、ガタイのいいお兄さんが仁王立ちしている。
伊織が足を止めたので、伊織の方を見ていた日向も前を見た。
「さっきの放送は君のことだね?
悪いことは言わない、素直に捕まりなさい。」
伊織が目を細めて相手を見定めようと見つめる。
着ているものは黒スーツなどではなくて、普通にTシャツの上にジャケット、綿パン。
善意の協力者、というヤツだろう。
もちろん、油断させるためかもしれないので、警戒は緩められないが。
「いや、あの放送を鵜呑みにしないでくれ。
俺がこの子を攫って来たような顔に見えるか?」
そう言われて、目の前の男性は伊織と、そして日向を上から下まで舐めるように見た。
日向は伊織に掴まる腕に力を入れてぎゅっと抱き着いて、笑顔を見せている。
「・・・懐いてるように見えるな。
じゃあ、あの放送はなんだ?」
「あたし、何者かに追われてるの。
それで、車掌も追いかけてくるやつらの仲間。
お兄ちゃんは、そんなあたしを助けてくれたの。」
ここが正念場とばかりに、日向がまくし立てるように言った。
「そう言わされてる、というわけでもなさそうだな。
分かった、信じよう。」
男はあっさりとそう言って頷いた。
伊織と日向が拍子抜けしたように顔を見合わせると。
「なんて言う訳ないだろ!」
男が伊織の腕を取ろうと手を伸ばして来た。
伊織はそれを、さっと躱すと。
「仕方ない。」
伊織は左手で日向を抱きかかえたまま、右手でポケットから黒スーツから奪った銃を取り出した。
その銃口を男に突き付ける。
「動くな。」
伊織は凄むように目を細めて、男を睨む。
男も伊織を睨み返してきたが、銃が本物なのか判断がつかないようで、動きを止める。
「まるっきり悪役だよ、お兄ちゃん・・・。」
日向が呆れたように思わずぼやく。
伊織はそのまま男と位置を入れ替えて、進行方向側に出ると、銃を突きつけたまま、ゆっくりと男から離れた。
そして、あるていど距離を取ると、ばっと振り返って前方に走り出した。
銃はもちろんポケットに戻して、日向を両手で抱きかかえて。