4.邂逅
3限目の講義が始まるまで残り10分。いつもならば講義開始20分前には次の講義室に行き、席取りや講義の準備をするのだが、今日は自分とは不釣り合いな程の整った顔立ちをしている女性2人と昼食を共にしたからイレギュラーだった。未だにどうしてこの2人が俺たちなんかと行動を共にしているのかが不思議でならない。いや、性格はともかく佐保の容姿は悪くない。一緒にしたら失礼だな。
そんなことを考えながら食堂を後にし、俺たちは次の講義の教室に着いた。100人は軽く座れる大講義室だ。
教卓の後ろにはスライド式の黒板サイズのホワイトボードが3面に敷き詰められ、各席には長机と映画館のように折り畳み式になっている椅子が設置されている。前の方のエリアには5列、そこから奥に行くにつれて列数が増えていき、それぞれが3ブロックに分けられている。
まぁ、どうせ優等生は前に行くし、陽キャは奥に行く。これは陰キャから見た偏見だ。やはりここは真ん中に座るのが無難であろう。
「ねぇねぇ琉人くん、どこに座る?」
「何でまず俺に聞くんだよ。大事な友人なんだから先に怜さんに聞きなさいよ。」
「だって琉人くんの意見が聞きたいんだもん!それに怜は『どこでも良いよ』って言ってくれるもんね〜?」
「ねぇ〜?」
何が『ねぇ〜』だ。ただ考えるのが面倒臭いだけだろ。
「琉人くん、今、私に対して失礼なことを考えたよね?顔にそう書いているよ?」
「べ、別に。全くそんなこと考えてませんから...。」
怖い。これだから怜さんは末恐ろしい。なるべく敵に回したくない。
「次の講義って、学年全員の必修科目だよね?みんなで一緒に受けるって新鮮だね!」
能天気な七瀬さんは全く前後の流れを意識せず自分の興味のあることを口走る。今回は彼女の能天気に救われた。
怜さんのお嬢様のような麗しい笑みの裏に未だに鋭利な凶器が隠されている。気がする。
「そうだね。色んな先生がオムニバス形式で毎回講師が変わる講義だね。」
「てことはキョーちゃん先生の講義もあるってことだよな!?どんな講義やるのか気になるな〜!!」
おっと、ここにも能天気なやつが居たことを忘れていた。
だが確かに佐保の言う通り、麻生先生が真面目に講義するところは興味がある。何しろ、最初のレクリエーションで俺と佐保が居た班の担当講師だった時に、ボサボサの髪で頭を掻きながら何とも気怠そうに講義していたからだ。しかし、年齢が近いこともあり、学生からは『逆に好感が持てる』と大人気だった。だから「キョーちゃん先生」とまで呼ばれている。
あれ待てよ、そういえば初めにこのあだ名で麻生先生を呼んだのって佐保ではないか...!?出会って何度も思っていることだが、相変わらず彼はコミュニケーション能力が化け物すぎる。
結局俺の提案で俺たちは真ん中辺りに座ることに決まった。が、昼食をギリギリまで食べていたことが仇となった。
俺たちが座ろうと計画していた付近の席には、既にいかにも“スクールカースト上位”のような陽キャたちが屯っていた。あの食べ終えたカップ麺の容器やパンの袋が机に散乱しているあたり、恐らく2限目でこの教室を使用していてそのままの席で昼食を取ったのだろう。態度や雰囲気など色々いけ好かない奴らだが、彼らは決して悪いことをしているわけではない。ここは潔く身を引くことにした。
残っていたのは、5列ある前方エリアの5列目、3ブロックあるうちの真ん中だ。ここなら4人で座れる……ってもちろん俺が望んだ訳ではなく、残りの3人がうるさいからである。正確に言えば怜さんは無言の圧力…おっと何でもない。また聖母のような笑顔を見せながら目だけは閻魔大王のような鋭い眼光で睨みつけられた。気がする。
佐保・俺・七瀬さん・怜さんの順で座ると、突然佐保が俺に体を寄せ、左斜め前方の最前列にいる女性を指差して俺に小声で話してきた。
「見ろよ琉人。植松照愛様だ...!まさかあのご尊顔を近くで拝めるなんて...!!」
「おい、あまり人を指差すなって。というか誰?」
「はぁ!?お前知らないのか!?成績優秀でスポーツ万能、おまけに学年一、いや大学一の美貌を持つと呼ばれる清廉潔白で可憐な“学園のマドンナ”だぞ!!!」
確かに、長くて綺麗なストレートの黒髪に、目鼻立ちがハッキリしていて「美女」と呼ぶのに相応しく、七瀬さんや怜さんに負けず劣らずの容姿端麗な女性だ。更に、座っているため身長は分からないが、座っていても背筋がピシッとに伸びているおかげでスタイルの良さが際立っている。
俺は知らないが彼女はスポーツも得意だなんて、「天は二物を与えず」という諺を地で壊しに行っている。しかし、大学一かどうかは全学生に会わなければ分からないのではないか?
「本当に“学園のマドンナ”なんて呼ばれているのか...?七瀬さんと怜さんは知ってる?」
「もちろん!この大学に入ってすぐに噂になってたもん!」
「普通に大学の人と会話していたら1回は話題に出てくるからね。」
「俺は普通じゃなくて悪かったな。」
「誰も琉人くんのこととは言ってないけど?」
「ちょっと!!何でいつも二人は喧嘩するの!!ほら!先生来たよ!!」
いつの間にか時間になっていたようだ。俺としたことが怜さんのペースに飲み込まれていた。やはり彼女は侮れない。
「キョーちゃん先生」こと麻生恭二先生は5分遅れで教室に入ってきた。学年全員が受講する講義でもお構いなく、いつも通り独特の世界観を放っている。
「はーい、じゃあ講義始めまーす。初めましての人もいると思うので名前だけ。麻生恭二です。」
「よっ!キョーちゃん!」
「キョーちゃん先生!!」
麻生先生が名前を言っただけで学生から、特に後ろの方から「キョーちゃん」コールが鳴り止まない。いや、一人だけ左隣に馬鹿デカい声で叫んでいる奴もいるが。
しかし、学生の声など耳に入っていないのか、または全く関心がないのか、麻生先生は全てスルーして講義を進めた。俺もこれは賢明な判断だと思う。
「何かこの講義では毎回担当の講師が好きに講義をして良いそうなので、私の専攻の講義でもしようかと思ったのですが、ほぼみんなポカーンだと思うのでやめときました。」
麻生先生の専攻が何なのか知らなかったため、すぐに大学のホームページを検索し、麻生先生のページに辿り着いた。宣材写真でも相変わらず気怠そうだな。あの人に生気がある瞬間はあるのだろうか。おっと、脱線してしまった。
ホームページによると、先生の専攻は「細胞学」らしい。確かにこれを中心とした講義はまだ入学3日目の学生たちにとって理解し辛いだろう。これもまた賢明な判断だ。雰囲気はアレだが、もしかすると本質は優れているのかもしれない。まぁこんな俺が教師に評価を付けるなんて烏滸がましいにも程があるが。
「─────れる人は誰かいるか?」
いつの間にか先生の講義が進んでいたみたいだ。
どうやら、先生の問いに答えられる人が挙手をするというタイミングだったらしい。だが流石にこの100人規模の講義で率先して手を挙げる猛者は中々いないだろう。
すると、見覚えのある人物が一人手を挙げた。
「おっ、そこの、えっと…植松さん…だったかな?」
「はい。植松照愛です。」
案の定、両隣の脳天気たちが騒ぎ始めた。
「さすが照愛様だ...!手を挙げる所作が美しすぎる...!!」
「率先して挙手するなんて偉いよね!私も見習わないと...!!」
まぁ、誰も手を挙げずに講義が進まなくなる恐れがあったこの状況で、自ら率先して手を挙げたその心意気は素直に凄いと思う。だが、現段階では挙手しただけだ。まだ的を得る解答かどうかも分からない。
しかも、誰も挙手しないことを確認した上で名乗りを挙げるという行為が、どうも“お待ちかねの主役登場”というパフォーマンスに見えて仕方がない。自分の答えが決まっているなら初めから答えなさいよ。一一一こんなことを脳天気たちには口が裂けても言えないので心に秘めておくことにした。
「この意見に何か物申したい人はいるか?」
両隣を見ると目がとろけている。恐らく植松さんが大衆の予想通り的を得た解答をしたのだろう。少し悔しい。
「一人ぐらい意見のラリーがしたいんだよな。それの方が講義らしいだろ?誰かいないかな。」
そう言いながら麻生先生は教卓から離れ、前方の席の周辺をゆっくり旋回し始めた。多分もう講義をすることに飽きているな。絶対時間稼ぎだろ。恐らく一人の意見とその感想をもう一人から聞くことが今日の講義のノルマなのかもしれない。
「あっ!話しやすいし、オリエンテーションで担当だったやつにしようかな!一一一おっ!佐保じゃないか!」
そりゃもちろん前の方に座っている面識のある人にするよな。絶対飽きている。
「キョーちゃん!今朝資料運ぶの手伝ったじゃん!チャラにしてよ!」
「あぁ、まぁ確かにそうだな。今回はチャラで良いぞ。じゃあ隣の新道!」
「え、俺ですか!?」
しまった。先程の定義に俺も当てはまっていた。先生が先に佐保を当てていたため油断していた。だから前の方には座りたくなかったのに...。
だが、あの麻生先生がこの地味な俺を認識していたのは意外だった。インパクトが強い佐保と一緒にいたからなのかもしれないな。
すると、どこからか鋭い視線を感じた。まぁ、この大人数の中で一人当てられたのだから仕方がないか。
ここは無難に乗り切るか。下手に目立ちたくもないし。それに正直あまり植松さんの話を聞いてなかった。
「いや、植松さんの意見に物申すことなど無いですよ。素晴らしい意見だと思います。」
「随分中身がない返答な気がする、っていう私の感想は心に閉まっておくな。」
「聞こえてますよ先生。」
「おっと失礼した。とにかくありがとう。時間稼ぎに付き合ってくれて。これでノルマは達成だ。」
いや自分から明言するんかい。
双方の言葉に抑揚と中身のない先生との会話を終え、先生が教卓の方に戻って行った。
「やっぱお前面白いな!キョーちゃんとの会話、漫才みたいだったぞ!」
「いや元はと言えばお前が回答拒否したせいだろ。」
「あのキョーちゃん先生に全く怯まない琉人くんって凄いね!!」
褒められているように見えるが七瀬さんは涙を流しながら笑っている。ツボがおかしいんじゃないのか。
「でもあの人はそうは思っていないみたいだけど?」
怜さんの目線の先にはこちらを鋭く睨んでいる植松さんがいた。
「おい、何か照愛様が琉人のこと睨んでない!?」
「えっ、俺なの!?お前らじゃなくて!?なんか怒らせるようなことしたか…?」
「上辺だけのコメントに腹が立ったんじゃない?」
「いやあの場では穏便に済ますのが最適解だろ。怜さんだって同じ状況なら同じことするだろ?」
「まぁ、否定はしないけど。」
怜さんの性格が分かってきたな。“俺”だと思って接しよう。俺自身と考え方が似ている。
「そんなことより、照愛様に睨まれるなんて羨ましすぎるぞ!!」
「俺からしたら全く嬉しくないし...。これ以上面倒なことは増やしたくないんだけど...。」
「もしかして琉人くんって植松さんと知り合いなの?」
「いや、少なくとも俺の記憶上では今日初めて見たと思う。」
「そうなの?でも植松さん、琉人くんの名前が呼ばれた瞬間、勢いよくこっちを振り向いてずっと睨んでたよ?」
“呼ばれた瞬間”から!?あの当てられた時に感じた視線は植松さんからのだったのか。じゃあ俺の返しは関係ないのか...?まさか俺と何らかの接点があるのか…?
「もしかして琉人くん、また知り合いを忘れてるの??」
「えっ、いや、それは...。」
「琉人さ、もうちょっと他人に関心を持ちなさいよ!」
「うるせぇな。持ってるはずなんだよ俺も。」
そこで、植松さんにコンタクトを取ってみることにした。俺以外が睨まれている可能性もあるため、愛嬌もあって一番無難な七瀬さんに一人ずつ俺たち4人を指差してもらった。
まず七瀬さんは佐保を指差した。すると、植松さんは首を横に振った。やはり佐保ではないみたいだ。
次は七瀬さん自身、そして怜さんを続けて指差したが、どちらに対しても首を横に振った。もしかしてそもそも俺たちのことを睨んでおらず、前後の席の人に対するものだったのではないか?
最後に俺のことを指差した瞬間、壊れた赤べこかの如く思いっきり何度も頷いた。傍から見ると講義中に後ろを向いてヘッドバンキングをしている激ヤバ人間であることに彼女は気付いていないのか。
俺の心の声が聞こえたのか、ヘッドバンキングを止めると俺に向かってあっかんべーをしてきた。一体何なんだあの人は。
「おい、何お前、照愛様にあっかんべーされてんだよ!!!羨ましいにも程があるぞ!!!」
「いやどう見たって嫌われてんだろ。」
「植松さんのお父さん、警察官だからこのまま嫌われ続けると逮捕されちゃうかもね。」
「そうなの!?そんな縁起でも無いこと言うなよ…。これから俺大丈夫かな…。」
─────しかし、彼女との出会いが、俺の人生に大きな影響を及ばすことを、この時の俺はまだ知らなかった。