第四百八十八話 淫夢
-- 二ヶ月後。
バレンシュテット帝国には春が訪れ、冬の間、眠りに就いていたであろう生き物たちの命の息づかいとうごめきが草地一面に満ちていく。
帝都南岸の海面は春の海藻の丹の色に染まり、あらゆる木々の梢がそれぞれの新芽の色で朧に彩られていく。
アスカニア大陸の中原に一面の菜の花が広がっていた。
--帝都ハーヴェルベルク 皇宮 皇帝の私室 深夜。
ラインハルトは深夜に目が覚める。
皇帝の私室の寝室にある天蓋付きの大きなベッドの上で、傍らにナナイを抱いて寝ていた。
ラインハルトの腕の中で眠ったまま寝返りをうったナナイは、ラインハルトの方を向いて再び穏やかな寝息を立てる。
まどろむ意識の中、寄り添ってくる愛妻に、ラインハルトは就寝前に愛し合った余韻に浸り、再び眠りに就く。
どれほどの時が経った頃だろうか。
気が付くと、ラインハルトはガウンを羽織った姿で漆黒の闇の中、ベッドの上で仰向けに寝そべっていた。
(ここは・・・どこだ?)
自分がいたのは皇宮の寝室の中で、自分が眠っていたベッドには天蓋があるはずなのに金環月食のような月の灯りが自分を照らしている。
「・・・ナナイ!?」
傍らで抱いていたはずのナナイの姿が無い。
ラインハルトは慌てて起き上がろうとするが、起き上がろうにも身体が全く動かなかった。
(どうなってる!?)
ラインハルトは、目の動きだけでナナイの姿を探すが、ベッドの周囲は漆黒の闇に包まれており、ナナイの姿は見当たらず、寝室の壁さえ漆黒の闇によって無いかのように見える。
漆黒の闇の中、ベッドでラインハルトが横たわったまま動けずにいると、その伸ばした足の先から足音が聞こえてくる。
静かに、そしてゆっくりと素足であろうヒタヒタと歩いてくる足音は、ラインハルトに近づいて来る。
やがて、その者は姿を現す。
闇の中から金環月食の月の明かりがその姿を照らし出したのは、ダークエルフの女であった。
一糸まとわぬ姿でプラチナブロンドの髪を腰まで伸ばした妖艶なダークエルフの女は、ベッドに横たわるラインハルトを見て、嬉しそうに微笑む。
ラインハルトは驚く。
「・・・何者だ?」
ダークエルフの女は答える。
「我はドロテア。アスカニアの魔神達が造りしダークエルフ最強の一族の長にして、魔導王国エスペランサを統べる者」
そこまで口にすると、ドロテアはラインハルトが横たわるベッドの淵に腰掛ける。
「やっと会えたな。人間の皇帝。アスカニアの神々に選ばれ、その祝福を受けた一族の長よ」
ベッドの淵に腰掛けたドロテアは、寝そべって動けないラインハルトの顔に両手を添えると、自分の顔を近づけてラインハルトの顔を覗き込み、うっとりと眺めながら、ほくそ笑む。
「くふっ。ふふふふふ。・・・なんと美しい。美しい男よ。まさに神々の造りし造形」
ラインハルトの顔に添えられていたドロテアの両手の指先が、胸元へと運ばれていく。
「・・・男。・・・男よのぅ。・・・人間の男。くふっ。うふふふふ」
そこまで口にすると、ドロテアはラインハルトの顔に両手を添えて顔を近づけ、耳元で囁く。
「神々は、その下僕の率いる者として大帝に上級騎士の能力を与えた。そして、その血が絶えないように女を虜にする加護を与えた。大帝の血を引くそなたを見て、我は確信したぞ。……さぁ、人間の皇帝よ。我と目合い、子を生そうぞ」
「断る」
ドロテアは、動けないラインハルトの唇に自分の唇を重ねて吸い付くが、ラインハルトは口を固く閉じたままであった。
「我とそなたの血を引く吾子は、必ずや『無敵のダークエルフ』となるであろう」
ドロテアは舌先でラインハルトの上唇をゆっくりと舐める。
「我を拒むか? 人間の妻など捨て、我の夫となれ。我が永遠の命と至高の快楽を与えようぞ」
「断る」
ラインハルトは、ドロテアからの申し出を一蹴する。
申し出を断られたドロテアは気に留める様子も無かった。
「くっくっくっ。『互いに愛を誓い合った妻のみを愛する』か。・・・其方のような男から一途に愛されているとは。妬ける。妬けるのぅ・・・」