アホうさ
これまでとは毛色が違います。
恥ずかしいくらいに真っ白です。
その昔、輝くほど純白な毛並みを有したうさぎがおりました。
山並みを駆ける他の動物達と違い、彼は山神の使いとして里と山の間を行き来していました。深い漆黒の眼は、里からでも山の木々の葉っぱ一枚を見分けることができ、小ぶりながらも器用に回る耳は、人の声と言葉を聞き分けるのに最適でした。
しかし何より他の動物達と違っていたのは、彼が人の言葉を操れるということでした。
里の人間達はうさぎを使者として敬い、その美しさや愛らしさを褒め称えました。同時に賢くもあり、人々を唸らせました。それ故にと言うべきでしょうか、うさぎは次第に人を侮り、慢心を胸の内に秘めるようになりました。やがてそれは『悪戯』という形で表面化し、人々を困らせるようになります。この話が山神の耳に届く頃には、里の人間の誰一人として、うさぎを庇い立てする者はいなくなっていました。
この事態に山神は嘆き、悲しみ、怒りました。そしてうさぎを呼ぶと、悪戯を引き起こす最たる原因である言葉を奪ったのです。
こうしてうさぎは『アホ』としか言えなくなりました。
この処遇に抗議の『アホ』を連発するうさぎに、山神は言葉を重ねました。
「お前に言葉を与えたのは、お前が愉快な思いをするためではない。それがわかるまでは、そのままでいなさい」
唖然とするうさぎの前から山神は姿を消し、この時をもって彼は山神の使者ではなくなりました。やかましく『アホ』と鳴く、風変わりな一匹の小動物へと成り下がったのです。
失意の中、頼るべき相手を失ったうさぎは、里の人間達を頼ることにしました。これまで山神への貢物で生活していた彼に、普通の動物として暮らしていく力も知恵もありません。頼み込んででも食べ物を分けてもらわなければ、生きていくことすらままならないというのが、彼に降りかかった揺るぎない現実だったのです。
しかし、これまで悪戯を繰り返し、山神の使者ですらなくなったうさぎに、人間は冷たく当たりました。そんな人間達に唯一の罵りである『アホ』を叫ぶ度に、うさぎは追いかけられ、叩かれ、蹴られました。白く輝いてすらいた毛並みは乱れ、ふくよかだった身体は痩せこけていきます。
お腹の鳴く音にも聞き飽きて、もう草でも何でも食べてやろうと思った矢先、地蔵の前に食べ物を見付けます。うさぎはその饅頭を、無心で貪りました。そしてその日から、地蔵に通うことが日課となったのです。
食べ物は、次の日もありました。その次の日も、そのまた次の日もありました。それを置いていくのは一人の老婆で、翌日に供え物がなくなっていても不思議に思ってはいないようでした。そのお陰で何とか命を繋いだうさぎは、何とかお礼が言いたいと地蔵の裏で待つことにしました。
やがて訪れた老婆の前にうさぎは現れ、思いを懸命に紡ぎます。
しかしその口から飛び出したのは『アホ』の一言でした。老婆は激昂し、石を投げ付けてうさぎを追い散らすと、用意してきた饅頭を置くことなく帰っていきました。しかも翌日から供え物は花になり、うさぎは再び路頭に迷うこととなったのです。
これ以降、うさぎは人間を避けるようになり、里から少し離れた林の中で暮らすようになりました。食べ物は、畑の作物や軒先に吊るされている干し柿などを拝借するようになりました。毎日の生活に追われ、山神の言葉どころか自分が使者であったことすら、忘れていくようでした。
うさぎはいつしか人を嫌い、憎み、恐れるようになりました。自分から近付くことも、もうなくなりました。
そして、そんな毎日に慣れつつあったある日のこと、里に一人の旅人が訪れます。
それはみすぼらしい格好をした老人でした。枯れ枝を折っただけの杖をつき、左足を引きずって歩く様は、いつお迎えが来てもおかしくないほどに見えました。むろん、そのような厄介な食い扶ちに肩入れをする物好きはそうそういる筈もなく、乞食と蔑まれて里を追い出された老人は、這う直前のような状態になってようやく雨露を凌げる廃屋へと辿り着きました。
そこはかつてきこりが住んでいた林の一軒屋で、生活を成り立たせるための道具など何一つない、単なる掘っ立て小屋でした。それでも老人にとっては、足を休められる有り難い場所であることに変わりはなく、しばらくこの小屋を使わせてもらうことにしました。
この事態に、少なからずうさぎは慌てました。せっかく慣れてきた住処の近くに人間が住み着いたのでは、いずれまた追い散らされてしまうのではないかという危惧があったためです。しかし、実際に老人の姿を見て、うさぎは胸を撫で下ろします。
忌むべき侵入者が、明らかに自分よりも脆弱な存在に思えたからです。
早速とばかりに、普段の憂さを晴らすついでに老人を撃退するため、すでに傾いている小屋へとうさぎは近付いていきます。
しばし考えてから、近くに落ちていた棒を拾い、柱や壁を叩いて回りました。その先で小屋の裏に捨てられていた古い鍋を見付けると、派手な音を鳴らして騒ぎ始めます。そうしている内に何だか楽しくなってきたうさぎは、当初の目的も忘れて叩き続けました。
しかし、息が切れるほどの時間が経っても、怒鳴り声どころか何一つ反応はありませんでした。奇妙に思ったうさぎは棒を茂みに投げ捨て、ひょっとしたらすでに逃げ出しているのではと思いつつ、戸口からそっと中の様子を窺ってみました。
老人は、間違いなくそこに居ました。
所々に穴の開いた板間の中央に座り、目を閉じたままのけぞるように天井を見上げている様は、まるで甘い琴の音色にでも耳を傾けているかのように見えました。何をしているのか、うさぎには全くわかりませんでしたが、少なくとも先程の悪戯を恐れたり怒ったりはしていないようでした。
と、不意に老人が戸口へと視線を向け、身体半分を覗かせていたうさぎと目が合ってしまいました。文字通り脱兎の如く逃げようと半歩身を引いたうさぎに、老人は優しく微笑みを浮かべます。
「これは良く来たね。もしかして、挨拶に来てくれたのかな?」
それは山神の使者をしていた時にすら聞いたことのない、穏やかな歓迎でした。敬遠され、憎まれ、蔑まれてきた彼にとって、心の通った歓迎は初めての経験だったのです。
「本来なら新参者のこちらから挨拶に行かなければならないところだが、見ての通り足が不自由でね。そちらから来ていただけて何よりだよ」
うさぎは不思議でした。
すでに山神の使者でもなくなり、外見もみすぼらしくなった単なるうさぎを相手に、この老人はどうして客人をもてなすかのような振る舞いをするのか、さっぱりわかりませんでした。
しかも彼は、つい先程まで小屋の周りで騒いでいた張本人です。罵られるなり怖がられるなりする方が、より自然であったことでしょう。しかし老人は、そのことに気付いてすらいないように見えました。
「そんな所に居ないで、とりあえずお上がりなさい。そうだ、里で親切なお婆さんから饅頭をいただいたんだ。良かったら半分食べないかね?」
うさぎは、そんな誘いに応じるままに鴨居をくぐり、老人へと近付いていきます。そしてその姿が間近になった頃、優しく彼を見下ろしている老人の細い眼を見て、彼は一番奇妙なことに気付きました。
自分と似た境遇にあるように見える老人が、どうしてこんなにも暖かな笑顔を浮かべていられるのかという事実に、です。
どう見ても、この老人がみすぼらしい格好をしているのは似合わないと思いました。小さいながらもまともな家に住んで、小奇麗な格好をしている方が相応しいと感じました。
「はい、半分こ」
笑顔で差し出される饅頭を受け取って、うさぎは急にいたたまれない気持ちになりました。もしも自分が食べ物を持っていたとして、それを目の前の老人に分けてあげられるかを真剣に考えて、その答えに息が詰まりました。
彼は饅頭を貪るように食べ尽くし、戸口へと戻りました。そこからもう一度だけ小屋の中へと顔を覗かせ、老人の姿を見詰めます。礼の一つもなく立ち去るうさぎに対して、老人は怒るでも嘆くでもなく、変わらない穏やかな笑顔を浮かべていました。
「またおいで」
老人の見送りを受けて、うさぎは林の奥へと駆けて行きました。
これ以降、うさぎは老人の下を頻繁に訪れるようになりました。
その大半は少し離れた所から見ているだけの、ただ同じ空間と時間を共有しているだけの関係でしかありませんでしたが、それでもうさぎにとっては心地良いことでした。老人は決してうさぎを拒絶せず、過剰に踏み込んでもきませんでした。時々どこからか手に入れてきた少ない食べ物を分けてもらう、そんな日々が続きました。
そして次第に一人と一匹の距離は縮まっていき、気付けば老人の近くには、いつもうさぎの姿が見られるようになりました。里の人間達には嫌われているため、食べ物を自力で調達する時を除いて里に近付くことはありませんでしたが、そうでない場所へはいつも一緒について行きました。
そんなある日、二日ほど食べ物を恵んでもらえなかった老人のために、うさぎは畑から調達してきた野菜を差し出しました。それが明らかに農作物であったことに気付き、老人の表情から初めて笑顔が消えました。
「ちょっとここに座りなさい」
自分の正面を指先でとんとんと叩いて招き、うさぎを座らせると、老人は神妙な顔で問い掛けます。
「これは、里の誰かに貰ったものかね?」
頷こうと、うさぎは思いました。でも、首は縦に動きません。言葉を話せた頃は平気で嘘を吐いていた彼が、里で悪戯や盗みを繰り返しても何一つ罪など感じなかった彼が、老人の前では単純な虚言すら出来なくなっていました。
だから、首を横に振りました。俯いて、泣きそうな顔で首を横に振りました。
嫌われるかもしれないと恐れるうさぎの頭を、老人は優しく包み、ゆっくりと撫でました。
「誰かが丹精込めて作った物を黙って拝借することが良くないことは、お前にもわかっているね?」
小さく、しかし明確に、うさぎは頷きます。
「お前は優しい子だ。そして、他人の痛みを理解できるくらいに利口な子だ。そんなお前が、自分を貶めるようなことをしてはいけないよ。まして私のためになど、決してしてはならない。私のためにお前の心が曲がってしまったら、誰よりも私自身が自分を許せなくなってしまうだろう」
うさぎが老人を見上げると、そこには嘆きを纏った悲しげな顔がありました。罵られることも嫌われることも憎まれることも平気でしたが、叱られることがこんなにも辛いことをうさぎは初めて知りました。
こんな時に何と言うべきか、うさぎは知っていました。ただ、その言葉は生まれてから一度も口にしたことのない言葉でした。だからこそ溢れた思いを止めることはできず、それは声となって飛び出してしまいます。
「アホー」
自らの声が小屋に響くなり、うさぎは息を呑みました。思いと言葉は、何もかもが違っていました。響いた言葉は、せっかく案じてくれた大切な相手を罵る言葉でした。うさぎは頭を抱え、襲うであろう罵詈雑言と暴力に備えました。許されることはないと覚悟しました。
「……今、何か言うたかな?」
しかし、老人は小首を傾げているだけでした。
「すまないが、私は耳が遠くてね。正直言うとほとんど聞こえないのだよ」
うさぎはしばし唖然として、それから安堵したように呼吸を再開しました。そしてこの瞬間、一人と一匹の距離は更に縮まったのです。うさぎは盗んできた野菜を畑に返し、代わりに老人の笑顔を取り戻しました。
うさぎの目には、世界の色が変わったように映りました。
少なくとも、そう思えるほどにうさぎは毎日を楽しく過ごすようになりました。以前は無意識に閉ざしていた口も自然に開かれ、明るい『アホ』が林中に木霊しました。何一つ思いは正確な言葉になりませんでしたが、それでも老人は楽しそうに頷きながら聞いてくれました。
楽しいことや嬉しいことを探すようになりました。
晴れていても曇っていても雨が降っていても、毎日の営みに大差はないのだということを知りました。
たくさんの、本当にたくさんの思いを交わしました。
そんな時間の中で、里から農作物など盗んでこなくとも、食べ物を見付ける方法を、老人はうさぎに教えていきました。
元々うさぎも、山神によって生み出された野山を駆ける動物です。まだ慣れていないだけで、彼にも大地の恵みで生きていける筈でした。ただ、老人はいきなり押し付けようとはせず、一緒に野山を歩いて散策を行い、そこで見付けた野草を煮たり炒めたりして、食事を楽しみました。
うさぎは、食卓を囲むことが大好きになりました。そしてその中で、食べられる草の一つ一つを憶えていきました。やがて夏を越え、秋の気配が感じられる頃になると、うさぎは畑の作物に手を出すことなく、お腹を満たすことができるようになっていました。
毎日が満たされていることで、うさぎは次第に昔の姿を取り戻していきます。毛皮の上からでも見えていた骨格はふくよかな温もりに包まれ、純白の毛並みはかつての輝きを取り戻しつつありました。
毎日に笑顔が溢れ、何もかもが良い方向へと向かって進んでいるように見えました。
しかし一方で、時折うさぎの表情が急に曇ってしまうことが増えてきました。老人の前では笑顔でも、その場を離れると溜め息を漏らすというようなこともありました。
老人は、少し心配になりました。
そして、うさぎが何を思い、望んでいるのかを考えるようになりました。しかし得られた回答によってもたらされた結論は、どうすることもできない諦めから生ずる、更なる溜め息でしかありませんでした。
伝えたい何かを瞳に込めるうさぎと、それを少し悲しげな眼差しで受け取る老人、どこかもどかしいやり取りが、しばらくの間続きました。
そんなある日、雲一つなく晴れ渡った空の真ん中に少しだけ欠けた月が世の中を照らしている晩に、壮年の男性が廃屋を訪れました。里の地主よりも立派な身なりをしている男性は、穏やかな顔で当然のように戸口から中へと入り込み、少しだけ待ちました。
「……やれやれ、挨拶くらいせんか」
のそりと起き上がった老人が、こちらも驚いた様子もなく小声で愚痴をこぼしながら出迎えます。それを聞いた男性は僅かに笑みを浮かべると、小さく肩をすくめました。
「貴方はともかく、小さな友人を起こしては可哀想だと思いましてね」
「ふむ、外へ出ようか」
すぐ傍らで寝息を立てているうさぎに柔らかな一瞥を送り、老人は静かに立ち上がると、足を引きずりながら男性を連れ立って月明かりの下へと向かいました。
「ほう、満ちてはいないが、今宵の月はなかなかに雅だ」
「酒でも酌み交わしたい所ではありますな?」
「酒の味など忘れたよ。もう何十年も飲んでおらん。それより、ここまで足を運んだのは、そのような世間話をするためではないのだろう?」
早々に話を切り上げたいという思いからの言葉に、男性は片膝をついて頭を垂れました。
「……何の真似だ?」
「天へとお帰りいただく準備が整いましたので、お迎えに参上いたしましてございます」
「ずいぶんと勝手な話だな。権力に物を言わせて追放したと思えば、こちらの都合も聞かずに帰って来いか」
「申し訳ございません。しかし……」
「良い。別にお前を責めている訳ではないのだ。天が帰れというなら従うさ。神の端くれとして、分をわきまえる程度の良識は持ち合わせておるよ。ただ、心残りがないとも言えんでな」
やや俯き、老人は憂いを帯びた眼差しを小屋の中へと向けました。
「うさぎ、ですか」
「お前には愚かしく映るかもしれんがな。私はこの身体で人の世を彷徨い、良かったと思っておる。嘆き悲しむことも多かったが、楽しいこともたくさんあった。特にここでの数ヶ月は、まさしく心が洗われるようであった」
「……では、どうなさいますか?」
「私に選択肢があるかのような物言いだな。いずれにしても帰らざるを得んのだろう?」
「ご明察、痛み入ります」
「だが、一つだけ条件がある。いや、これは願いと言うべきかな。それが叶えば、すぐにでも天に戻ろう」
月明かりの輝きに照らされて、老人の眼差しが鋭さと冷たさを増したように見えました。うさぎの前では決して見せることのなかった、真剣というよりも冷酷な眼差しに、男性は蛇に睨まれた蛙のように身動きの一切を封じられました。
「私の願いは聞けぬか?」
「い、いえっ! 誠心誠意、叶えさせていただきます。して、どのような願いでしょうか?」
老人は一度大きく頷くと、男性に背を向けて話し始めました。
「お前は、阿呆という言葉一つで相手に気持ちを伝える自信があるか?」
その思いはただ一つ、うさぎの幸せでした。それも誰かの恩恵ぶらさがるのではなく、自らの力で手に入れる幸せでした。そのために必要なモノを、うさぎは失っていたのです。
老人の優しい願いを叶えることを約束し、男性は月明かりに溶けるかのように姿を消したのでした。
翌日、うさぎは朝から里へと出掛けました。
畑で作業をしている農夫に近付き、身振り手振りで自分の意思を伝えようとしますが、なかなか思うようにはいきません。それどころか石を投げられたり鍬や鎌で追い払われたりと、散々な目に遭いました。しかしそれでも、うさぎは諦めずに一つ一つ畑を回り、自分の意思を伝えました。
そしてお昼を回った頃、ようやく一人の男性が応じてくれ、草むしりを手伝う代わりに野菜を貰えることになりました。うさぎは精力的に働き、いびきをかいて眠りこける男の分まで片付け、日が傾く頃にはすっかり綺麗な畑になっていました。
仕事を終えたうさぎが男を起こし、再び身振り手振りで報酬を願い出た矢先、無粋な男の声が響きます。
「ほほう、ここの畑はずいぶん綺麗じゃないか」
この声にごろ寝をしていた男は飛び起き、土を払いながらヘラヘラと薄笑いを浮かべつつ近付いていきました。
「これはこれは地主様、いつもお世話になっております」
「お前がこの畑を担当している者か?」
「はい、左様で」
「ずいぶんと感心なことだ。綺麗な畑というのは、見ていて気分が良いな」
「全くです。私も毎日誠意を持って働いておりますから」
「そうかそうか。それなら……おや、後ろで踊っているのは何だ?」
うさぎは慌てました。手柄を横取りされることはともかく、報酬がなくなってしまっては一大事だったからです。野菜だけは、何としても手に入れる必要がありました。
「このうさ公、あっちへ行ってろっ!」
「おいおい、大丈夫なのかね? まさか作物を食べられてはいないだろうね?」
「それはご心配なく。そのために私がここで目を光らせてますので」
「そうか。ならば良い。精進してくれたまえ」
少しばかり不安そうな面持ちのまま、地主は大きなお腹を揺らしながら去っていきました。その背中が見えなくなるまで見送ってから、男はうさぎの耳を捕まえると力任せに持ち上げ、その鼻先に向かって口を開きました。
「このアホうさがっ! もう少しで変な疑いをかけられるとこだったじゃねーかっ」
反論しようと口を開きかけ、慌てて前足で押さえます。こんな状況でアホなどと口走ったら、報酬がもらえないどころか殺されてしまうかもしれないと思ったからです。
「全く、気ぃ付けろ!」
乱雑に手を離してうさぎを開放すると、もう興味を失ったのか農具を片付け始めました。うさぎは正面に回り、改めて身振り手振りで主張しました。
「何だよ……報酬? それならホレ、そこに山積みされてるクズ野菜から好きなの持ってけよ。じゃあな」
そう言って男の指差した先には、ゴミ捨て場としか形容できないクズ野菜の山がありました。その匂いと見た目にうさぎは顔をしかめ、一瞬畑からこっそり持ち帰ることを考えました。
でも、頭を振ってその考えを捨てると、クズ野菜を一つ一つ手に取って食べられそうな物を探し始めました。虫に食べられていたり、腐っていたり、途中で折れていたりと、まともな野菜は確かにありませんでしたが、食べられる野菜は意外にたくさん見付かりました。うさぎはそれらの野菜を藁でくくってまとめると、大荷物を担いで廃屋へと急いで戻ることにしました。
気付けば周囲はすっかり暗くなっており、月明かりで出来る輪郭の曖昧な影だけが彼と共にありました。やがて林に入り、影すら出来ない闇を駆け抜けると、ようやく自分の家へと辿り着きました。
しかし、戸口に立って中を見た瞬間、うさぎは立ち尽くします。
老人は、板間に腰を下ろして外を向いたまま、動きませんでした。俯き、丸まった背中は、微動だにしませんでした。その意味を悟り、同時に信じたくなくて、うさぎは荷物を放り出し、老人に駆け寄ります。
そして叫びました。
「お爺さんっ!」
闇に響く声に誰よりも驚いたのは、うさぎ自身でした。しかし、同時に納得もしていました。老人の身体とうさぎの言葉、この二つが無関係でないことは、もう知っていました。
うさぎは昨晩、二人の会話を聞いてしまったのです。
だから、うさぎは今日、野菜を手に入れようと思いました。お爺さんに食べてもらうために、いえ、お爺さんと一緒に食べるために。
「……行っちゃったんだ」
うさぎは、引き止めたりしないつもりでした。笑顔で、安心して天に昇って欲しいと思いました。だからこそ、伝えなければならない想いがありました。
「ありが、とって……言いたかったんだけどな」
視界が揺れて、何もかもが少し遠くに行ってしまったように感じました。振り返って戸口から空を見上げると、月も星も滲んで見えました。
アホとしか言えなくなったうさぎは、いつしか言葉を求めなくなりました。その代わり、たった一言だけ伝えたい想いがありました。それを言葉にすることができなくて、形にするためにはどうすれば良いのかを考えた時、自分の作った晩御飯を振舞う以外の方法を思い付くことができませんでした。
彼は、初めて貰ったあの饅頭の味が、今でも忘れられません。だから、その想いをほんの少しでもお爺さんに返したかったのです。
「ありがとう」
今ならば、それを言葉にして伝えることができます。
でも、それを伝えたい相手は、もうここにはいません。
うさぎは天を見上げ、溢れ出す想いをそのまま形にするように泣き始めました。それが悲しいのか、悔しいのか、それすらわからずに泣きました。やがて次第に声は大きくなり、ずっとずっと『ありがとう』と繰り返すうさぎの泣き声は林の隅々まで響き、里にも届きました。
そして夜が明ける頃、いつの間にかうさぎの声は聞こえなくなっていました。
この日以来、里でうさぎを見かけることはなくなりました。
その声を聞くこともなくなりました。
しかし、うさぎは決して消えてしまったわけではありません。
時折里の人間達が見掛けると、彼は決まって立ち上がり、赤く染まった瞳で天を見上げ、以前よりも遥かに大きくなった耳を空へ向けていたそうです。
まるで何か、大切な言葉でも待っているかのように。
うさぎが鳴かないというのは迷信です。
え、これって蛇足ですか?