2.襲われた妖精
ヘカッテがカロンやメンテと一緒に迷宮を歩き始めるのは、いつも夜も更けた時刻のことです。
夜といっても、迷宮では昼と夜がちょうど逆になっているので、これを読んでいる皆さんの世界にとってのお昼過ぎと同じくらいの感覚だと想像してもらえたら分かりやすいかもしれません。
だいたいそのくらいの頃合いに、ヘカッテは荷物のつまったリュックを背負い、メンテの入った鳥かごを持ち、カロンと手をつなぎながら迷宮を歩き始めるのです。
小さなヘカッテにぬいぐるみ、そして鳥かごに入った仄かに光る花。その一行はあまりにメルヘンチックなので、楽しい冒険ごっこのように見えるかもしれません。ですが、ヘカッテは決して遊んでいるわけではありません。ちゃんと目的がありました。それは、迷宮の至る所でとれる月のしずくを集めること。
月のしずくは迷宮のいたるところからしたたり落ちる貴重な魔法の水で、ヘカッテの魔力の源でもありました。また、愛する花メンテの命を支える水でもあったので、これだけはどうしてもサボるわけにはいかなかったのです。そのくせ傷みやすいので、毎日のように採取しなくてはなりませんでした。
月のしずく集めの探索は、ヘカッテにとって楽しいものではありました。
迷宮はとても美しい世界です。昼の世界を愛する人のひとみには少しばかりさみしく映るかもしれませんが、夜を愛する人ならば、きっとこの世界に恋してしまうでしょう。少しだけ冷たい空気はのどを潤しますし、至る所で輝く魔法石は初めてここを訪れた人の心を奪うほど神秘的なのです。そしてやはり目を引くのが大小さまざまな妖精たちでした。
モルモとラミィのように言葉を話せるものばかりではありません。けれど、まるで蛍のように優しく光りながら暗闇の世界を照らしている彼らはまさに天然のランタンのよう。その明かりだけでも迷宮を歩む人々の心を温めてくれるのです。
ヘカッテはここで生まれ育ったわけではありませんが、まるで故郷を愛するかのように迷宮のことを愛していました。だから、さほど代わり映えしない景色であろうと、月のしずくを回収しに向かうことも苦痛ではなかったのです。
ただし、とても残念な事に、良い事ばかりではありませんでした。
あと少しで月のしずくが採れる場所にたどり着くというとき、黙って歩いていたカロンがふと立ち止まりました。作り物の鼻をひくひくとさせて、同じく作り物の目を光らせながら、そっとヘカッテに言いました。
「用心なさい。怪物が近くにいるようだ」
その言葉にヘカッテは無言で頷き、ぎゅっと唇を結びました。
ことあるごとに竪琴の音で声をかけてくる歌う花メンテも、この時ばかりはただの花になってしまったかのように静かにしていました。
それもこれもみんな、怪物に気づかれないためです。
迷宮にはあらゆる生き物がいます。わけあって探索をしている人間の他には、ヘカッテのように魔女の修行をしている者もいれば、一人前の魔女として暮らしている者もいます。
モルモとラミィのような妖精の国も複数ありますし、妖精とは少し違う魔族たちの暮らす国も存在します。迷宮の外にはいないような珍しい生き物もたくさんいます。
けれど、そのいずれとも違うのが、迷宮の怪物たちでした。
怪物はどれも驚くほど大きい身体をもっていて、常に迷宮の探索者たちを探し求めてうろついています。そして、気に入ったものを見つけると追いかけていき、ぱくりと丸のみにしてしまうのです。
迷宮に用のある人間のいくらかは、この怪物たちに気に入られ、無事に外に出られないのだと言われています。それだけでなく、迷宮の中で暮らしているような妖精や魔族であっても、運が悪いと怪物のお腹の中におさめられてしまうのです。
ヘカッテは見習いとはいえ魔女ですので、怪物と戦うための魔法もいくつか知っていました。けれど、やはり魔力の源は貴重ですし、怪物たちとやり合えば怪物の世界に目をつけられてしまうと聞かされていたので、戦いはいつも避けていました。
「どうやら遠ざかっていったようだ」
カロンの言葉にヘカッテはホッとしました。
再び出会う前にしずくを集めて帰らないと。
けれど、焦りは禁物です。迷宮の道のりは平たんに見えても険しく、ただ歩いているだけでも疲れがたまっていくのですから。カロンの存在やメンテの明かりがあれば心細くないヘカッテですが、まだまだ成長途中の彼女には過酷な道のりでもありました。
いいえ、そもそも立派な魔女だって、無理はしないものなのです。
月のしずくを集める前は必ず、どの地点でどのくらいの量にするかを決めてから、入るようにするものだと聞かされていたので、ヘカッテもきちんとその掟を守っていたのです。
そんな準備や心構えのおかげもあって、月のしずく集めは順調そのものでした。
しずくの落ちてくる場所――月のつららと呼ばれる鍾乳石のような結晶の真下にて、ぽたりぽたりと雨漏りのように少しずつ落ちてくるそれを、家から持ってきた小瓶に時間をかけて満たしていきました。
家に帰ったらこれをろ過し、メンテのご飯になる分とヘカッテの魔力の源として飲む分とを分けてそれぞれ別の瓶に移し替えなくてはなりません。それまでにこぼしてしまったら大変です。またこの危険な道のりを歩まなくてはならないのですから。
そんなヘマはしない、とヘカッテは自信ありげでしたが、用心深いカロンはピリピリしていました。
「気を付けなさい。怪物の気配が近くなってきた」
魔法のひげを常にぴんと広げ、ぬいぐるみながらも毛を逆立てています。メンテもまた心配そうに小さな音を鳴らし、ヘカッテをうかがっていました。けれど、ヘカッテは動じません。
「あともうちょっと……」
もともと見習い魔女として単身でお家を飛び出し、迷宮までやってきただけに度胸があるのです。しかし、カロンもメンテも心配していました。その度胸が向こう見ずにならないとは限らないからです。
ひやひやする二人に挟まれながら、ヘカッテはマイペースに月のしずくを集め続けました。そして、魔法の小瓶の重さを敏感に感じ取り、満足そうに目を細めました。
「うん、もう大丈夫」
と、その時でした。
遠くで怪物の大きなうなり声が聞こえてきたのです。その声にヘカッテは驚きましたが、幸いにも小瓶を落としてしまうようなことはありませんでした。
急いで小瓶に栓をして、首から下げると、カロンがすぐにヘカッテの手をつなぎました。
「いいタイミングだ。さっさと引き上げよう」
けれど、ヘカッテは怪物の声が聞こえた方向を見つめたまま言いました。
「誰かが襲われているみたい」
呟くその声にメンテが不安そうな音を出しました。カロンもまた、とがめるようにヘカッテを見上げます。
「そんなはずはないさ。さあ、ヘカッテ。帰ろう」
けれど、ヘカッテの耳は正確でした。ほんの微かではありましたが、怪物のうなり声に混じって女性の悲鳴があがったのを聞き逃さなかったのです。
「助けなきゃ!」
そう言ってそちらに向かって走り始めるヘカッテを、カロンは引き留めようとしました。
けれど、カロンはぬいぐるみです。子どもとはいえ人間であるヘカッテの力にかなうはずもなく、引き止めることはかないません。
「ヘカッテ……!」
あわててカロンはメンテの入った鳥かごを抱きかかえ、ヘカッテを追いかけていきました。その間に、ヘカッテは怪物の声のした場所を目指して走りました。そして、その現場にたどり着いたのです。
目の前にはクマのように大きな怪物が一体。そして、その先では――。
――ああ、やっぱり!
怪物が誰かに襲いかかっていました。
小さな体でしたので、きっと妖精なのでしょう。
気づいたヘカッテの身体はとっさに動きました。怪物との戦いはなるべく避けた方がいいとは分かっていましたが、見捨てるわけにはいきません。身体に宿る魔力の流れに任せて、迷宮の怪物たちが嫌う光の魔法を放ちました。
薄暗い迷宮の世界にとって、ヘカッテの放つ光はあまりにまぶしいので、いかなる怪物も驚いて逃げてしまいます。この度の怪物もそうでした。
いきなり現れたヘカッテを敵とみなすよりも先に、攻撃的な光が発生したことにたいそう驚いて、人間によく似た両手をあげ、悲鳴に似た声をあげて一目散に逃げていったのです。
おかげで襲われていた人物も、ヘカッテも無傷のままでした。怪物の姿が見えなくなって、ヘカッテはようやく襲われていた人物へと目をやり、またしても驚いてしまいました。
なんと、襲われていたのはモルモだったのです。
「……ありがとう、ヘカッテ」
腰を抜かしたまま呟く彼女を見て、ヘカッテは慌ててその小さな体を両手ですくいあげました。
「怪我はない、モルモ?」
そして、妙な事に気づきました。
「一人なの?」
問いかけるとモルモは何も言わず、暗い表情を浮かべました。
その様子にヘカッテがただならぬ不安を抱き始めたところへ、ようやくメンテの入った鳥かごを抱えたカロンが追い付いて来ました。
「むむ、襲われていたのはモルモだったのか。よく分かったな。すごいぞヘカッテ」
納得したように言ったカロンに、ヘカッテはうなずきました。
「うん。でもね、ラミィが一緒じゃないみたい。ねえ、モルモ。ラミィはどうしたの?」
心配のあまり問いかけるヘカッテに、モルモは覚悟を決めたような表情で説明しようとしました。
「実は――」
と、そこへ、カロンが口を挟みました。
「おっと、その続きはもっと安全な場所でした方がいい」
潜めた声にかぶさるように、どこからか怪物らしき声が聞こえてきました。ヘカッテはしばしその声の方向を見つめた後で、カロンに向かって頷きました。