1.両親からのお手紙
これを読んでいる皆さんの生まれた町から、はてしない道のりを歩んでもなおたどり着かないような場所に、魔女見習いヘカッテは暮らしていました。
そこは朝の陽ざしよりも月の光の方が美しい世界で、余所者がうっかり足を踏み入れると二度と出られないような、おそろしい天然の迷宮でした。
けれど、ただおそろしいだけの場所ではありません。
森林や洞窟からなるその道のりは、あらゆる世界に繋がっていました。そこで、人間以外のさまざまな種族のものたちが交流したり、戦争したりして、遠い世界の人々の全く知らない歴史が刻まれている場所でした。
しかし、その片隅に暮らすヘカッテは、迷宮を揺るがす出来事にはさほど興味をもっていませんでした。
彼女の頭の中にあるのは立派な魔女になるための道のりばかり。あとは黒猫のぬいぐるみカロンと、歌う花メンテと過ごす日々をいかに楽しくするかばかりを考えて暮らしていました。そして、そんな日々の中で、七日に一度ほど届く故郷の両親からのお手紙をひたすら楽しみにしていました。
お手紙を運んでくるのは双子の妖精モルモとラミィです。
カゲロウのはねを持つ彼女たちは、迷宮でもっとも大きな妖精の国ランプラにある郵便局で働いていました。二人で一人分のお仕事をする代わり、他の誰よりもていねいにお手紙を運んでくれるので、ヘカッテにとっては頼れる配達員でした。
七日に一度とはいえヘカッテとの付き合いも長く、ヘカッテにとって、人々の世界よりも少し寂しい迷宮の中における貴重な話し相手でもありました。
一方、モルモとラミィも代わり映えのしない平和なランプラにいては贅沢にも退屈してしまうので、忙しさの傍ら、ランプラの妖精たちとは全く違う暮らしをしているヘカッテとの交流を楽しみにしていました。とくに彼女に届く両親からのお手紙にも大変興味を持っていたのです。
口での会話は通じても、ヘカッテたちの使う文字の多くは読めないので、モルモとラミィはいつもヘカッテにお手紙を読んでもらっていました。また、ヘカッテの方も、手紙を無事に届けてくれる二人にその内容を聞かせることを楽しみにしていました。
さて、今日も、ヘカッテには両親からのお手紙が届いていました。届けたのはもちろん、モルモとラミィでした。
「じゃあ、読むよ」
わくわくしながらカゲロウのはねを揺らすモルモとラミィ、そして、自由に動き回る黒猫のぬいぐるみカロンと、足元に置かれた鳥かごの中でうっすらと輝く歌う花メンテに見守られながら、ヘカッテは今日の手紙を広げました。
◇
私たちの大切なヘカッテへ
お変わりはありませんか。わたしたちの故郷では次第に寒さも厳しくなり、小鬼たちも厚着をするようになってきました。
きっと迷宮もまた同じくらいは寒いのでしょうけれど、風邪を引かないように気を付けなさい。万が一、熱っぽいとか、のどが痛いとか、そういう時があったならば、昔、お祖母さんが教えたお薬のレシピを思い出しなさいね。
さて、ヘカッテ。
今回もまた私たちからあなたに贈る言葉があります。
「仲直りは自分から」
あなたが日頃どのような暮らしをして、どのような事を楽しみ、どのような事で悩んでいるのかは、あなたが綴るお手紙でしか分かりません。
けれど、私たちも立派な魔女を目指すあなたの両親です。お告げで受け取ったこの言葉も、きっとあなたの問題を解決するものとなるでしょう。
いいですか、ヘカッテ。
決して無理をしてはなりませんよ。
離れていても私たちはいつもあなたの成功を願っています。寂しくなっても、心細くなっても、そのことを忘れずにいてくださいね。
あなたの両親より
◇
読み終えて手紙をていねいにしまうと、モルモとラミィはポストの上で不思議そうに顔を見合わせました。
カゲロウのはねを羽ばたかせて飛び上がると、ふたりはヘカッテの顔の近くまでやってきて、こっそりと訊ねたのです。
「仲直りって?」
「ねえ、ヘカッテ。頑固おやじのカロンとケンカでもしたの?」
心配するというよりも、面白がってという方がふさわしいその態度に、カロンは綿のつまった尻尾をぶんぶんと揺らしながら腕を組みました。
「聞こえているぞ、おしゃべり妖精たち」
「まあ、おっかない」
「地獄耳の猫だわ」
「お前たちの声がでかいだけだ」
そう言ってカロンはコバエでも追い払うかのように片手を払いました。それを見てモルモとラミィは不満そうに顔を見合わせました。
険悪な三人を心配するかのようにポロロンと竪琴のような音を鳴らしたのは歌う花のメンテです。花ですので表情は見えませんが、ヘカッテにはその言葉が少しだけ分かるので、メンテの代わりにカロンと妖精の間に割り込みました。
「はいはい、そこまで。メンテの前で言い争いはやめてちょうだい」
そして、モルモとラミィを見つめると、ヘカッテは言いました。
「カロンとケンカなんてしていないよ。この先の事はちょっと分からないけれど」
不安そうに言うヘカッテを見上げ、カロンもまた首を傾げました。
「ふうむ、確かに未来の事は分からない。なんせ、ヘカッテは私の尻尾をぎゅっと踏んづけてもすぐには謝らないからね」
鋭い指摘に肩をすくめつつ、ヘカッテは言い返しました。
「とはいえ、たいして痛くないでしょう? ぬいぐるみなんだもの」
「こら、ヘカッテ」
すかさずカロンは見上げました。
「ぬいぐるみと言ったかね? ああ、それは確かだ。確かだが、君はぬいぐるみでもないのに、どうしてぬいぐるみが痛みを感じないと分かるんだい?」
「それは……神経が通っていないから」
と、ヘカッテはさっそく迷宮の隅にある図書館で読んだ本の聞きかじりを盾にしました。けれど、怒ったカロンには通用しません。
「ああ、そうだね、神経は通っちゃいない。だが、ヘカッテ。知識というものはね、この世界の一部分を見えやすくしたものにすぎないのだ。本にどのようなことが書いてあろうと、他人の痛みの程度を勝手に決めつけて、謝るか謝らないかを決める根拠にしてはいけないのだよ。根拠っていうのが何なのか分かるかね?」
「理由だっけ?」
「うん、そうだね。ヘカッテは頭がいい。頭がいいから、私の言っている意味も分かるね?」
大きな目に覗き込まれ、ヘカッテはもじもじしながらしゃがみ込みました。そして、カロンの尻尾にやさしく触れると、頷きながら言いました。
「ごめんね、カロン。今度からちゃんと気を付ける」
素直な態度にカロンも満足し、こくりとうなずきました。
「素直なのはいいことだ。分かったよ、ヘカッテ。その言葉を信じよう」
そのやり取りを見ていたメンテは嬉しそうにポロロンと音を鳴らし、モルモとラミィはポストの上で互いの顔を見合わせました。
「仲直りしたわね」
「ヘカッテは素直ね」
そんな二人を見上げ、カロンは再び腕を組みました。
「さて、誰かさんが私の事を頑固おやじと言っていたようだが」
カロンの顔はもともと三白眼に作られていたので、ただ見つめているだけでもまるで睨みつけているかのようでした。そんなカロンの顔を見下ろしながら、モルモとラミィは鈴を転がしたように笑いました。
「ごめんなさい、怒りんぼうさんのカロン」
「あたし達が悪かったわ」
まるで、小さな駄々っ子をあしらうようなその態度に、ヘカッテは思わず笑ってしまいそうになりました。けれど、カロンに悪かったので、咳払いで誤魔化しました。
一方、カロンは不満げでしたが、それ以上怒るのはさすがに大人げないと思ったのか、大きくため息を吐きつつも、それ以上はとやかく言わずに二人を見上げました。
「分かった、水に流そう」
それを見て、なおさら楽しそうに笑うモルモとラミィの様子に、ヘカッテもまた楽しい気分をもらいながらそっと声をかけました。
「二人はいつも仲良しね。ケンカするなんてないんじゃない?」
すると、モルモとラミィはお互いに顔を見合わせ、ぶるぶると首を振りました。
「あらまあ、ヘカッテったら」
「あたしたち、卵からかえった時からケンカばっかりしてきたんだから」
意外な答えにヘカッテは驚きました。
なにしろ、両親のもとからこの迷宮の片隅に引っ越してきて以来、モルモとラミィのケンカなんて一度も見たことがなかったのですから。
それを伝えると、モルモとラミィは同時に笑いながら答えました。
「もちろん、卵からかえってサナギになるまでの間のことよ」
「サナギから羽化して大人になったあとは、そんなにケンカもしなくなったの」
カゲロウのはねを震わせながら自慢げに語る二人を見て、ヘカッテは素直に感心しました。カロンもまた少しだけ見直したように二人を見上げて言いました。
「なるほどね。大人になるというのは、他人に寛容的になるということでもあるのかもしれない」
「寛容ってなに?」
ヘカッテの問いに、カロンはすかさず答えました。
「他人の失敗や欠点をそんなに気にしないでいられることだよ」
なるほど、とヘカッテはうなずきました。
「じゃあ、モルモとラミィは寛容的な大人なのね」
「そうは見えないが、そういうことなのだろうね」
カロンの皮肉も笑い飛ばす二人の様子に、ヘカッテはますます納得しました。
一人前の魔女になるためには、魔法だけでなく心と身体も大人にならなくてはなりません。だから、大人として暮らしているモルモとラミィの姿は、ちょっとだけ輝いて見えたのです。
「でもね、そんなあたし達もいまだにケンカをすることはあるのよ」
モルモが言いました。
「そうね。とはいえ、とってもくだらない事ばかりだから、いつの間にか機嫌も戻っちゃうんだけどね」
「水に流すってやつだね」
カロンが言うと、二人は無邪気に笑いながらうなずきました。
「そうそう。さっきカロンがしたのと同じようなこと。あたしたち、いつもそうなの」
「ケンカをして、ちゃんと仲直りをしたのっていつだろうね」
「たぶんサナギになる前の頃でしょうね」
顔を見合わせて首をかしげる二人を見て、ヘカッテは手紙をそっとにぎりしめました。
仲直りは自分から。きっとこの言葉はまだ子どもである自分が覚えておくべきなのだろうとヘカッテは思ったのです。
誰とどんな形で仲直りをしなくてはいけなくなるのか、今は分かりません。けれど、きっと大切な場面で思い出さなくてはならない日が近々来るのでしょう。
だから、自分に言い聞かせたのです。仲直りは自分から。どんなに不満に思ったとしても、その気持ちと共にいられるように。
そんなヘカッテの思いを読み取ったように、歌う花メンテは鳥かごの中でそっと竪琴の音を鳴らしました。まるで応援してくれているかのようなその声に、ヘカッテは心に温かなものを感じました。