第3話
二人は何とか追っ手を引き離すことに成功すると、そのまま建物の外へと脱出した。
だが裏口と思わしき石の扉の外に広がっていた光景はスライム達に負けず劣らず異様なものだった。
そこは日を浴びた山の中腹らしかった。しかし山の斜面に生える植生は蒼穹が普段目にする物とはまるで似ていない。
あえて似ているといえばイシクラゲの群生に近いように思えた。イシクラゲとは偶に学校の校舎裏や造成地等で見かける地面に生えた、あの薄気味悪い暗い緑色のワカメの様な植物の事だ。
その大きさも常識を超えていた。まるで森の木々の様な巨大なブヨブヨのワカメモドキが圧倒的な質量を持って周囲の山並み全体に広がっているのだ。
「うげぇ……」
その光景を前に蒼穹の気分が悪くなる。
「大丈夫か、スガイソラ?」
「うう、何とか……」
「しかしぼやぼやしてられん。奴等はすぐに追ってくるぞ」
そして事態は彼の予想通りになる。
一匹の殻付きの化け物が建物の出口に姿を現した。
「しまった、追いつかれた!」
「駄目だ! もう終わりだ……」
蒼穹が青い顔のまま叫ぶ。このまま殻付きの化け物に食われておしまいだ。
だが今度は外の方から蒼穹達に向かって呼ぶ声がした。
「お二方、伏せて!」
その声にまずプロテウスが反応し地面に伏せた。そして茫然と立ち尽くす蒼穹の手を無理やり引き寄せ地面にひれ伏させた。
ドンッ! 化け物の殻の真上で爆発が起こった。衝撃で石の天井が崩れ落ち殻付きの化け物を埋めていく。もう穂先の付いた触手は瓦礫の下敷きとなって動かない
「プロテウス様!」
「ユーグレナか?」
爆発の後、一人の少女が駆け寄って来た。先ほどの爆発は多分彼女の仕業だ。
いずれにせよ蒼穹は少女に命を救われた事になる。
そして彼女もプロテウスと同じ人の形をしたスライムだった。
アニメのくノ一の様な裾の短い装束に身を包み、その体色は髪の毛一本まで鮮やかなオレンジ色の半透明で、うっすらと透けて見えた。
だが何より驚かされたのがその容姿だった。端整で秀麗。大きな瞳と真っ直ぐに通った鼻筋。そしてオレンジ色のセミロングの髪を揺らすその姿は見紛う事無き美少女だった。
確か名前はユーグレナ、プロテウスはそう呼んだはずだ。
「ご無事で何よりです。他の皆さんは?」
「恐らく、駄目だ。今頃は侵入してきたヴィーマに全てやられているはずだ」
「判りました。私達だけで脱出しましょう」
「致し方ないな」
「こちらにベクターを回してもらってあります。そちらの方も……。キャァ!」
蒼穹の顔を見た途端、ユーグレナが短い悲鳴を上げた。
「うそ……」
彼女の表情が強張った。菅生蒼穹という異質な存在を前に驚きを隠そうともしない。
「プロテウス様、これは一体?」
「話は後だ。彼も連れていく」
プロテウスの判断にユーグレナは黙って従った。そして先頭に立ち巨大イシクラゲの森へと分け入っていく。
その後を追って蒼穹とプロテウスも森の中へと入っていった。
森の中は湿っぽくワカメモドキの表面に触れればブヨブヨとした不気味な弾力が返ってくる。しかも立ち込める生臭さの不快感も半端ではない。
一方で先ほどまで追ってきた殻付きの化け物の姿は見えない。多分、森の茂みが障害なって前に進めないのだ。
暫くしてイワクラゲの森を抜けると開けた場所に出た。そこは森の中を切り開いて作った狭い山道だった。振り向けば山の斜面に煙を上げる石造りの神殿が見える。
「あそこから降りて来たのか?」
「ぼやぼやしている暇はないぞ。今すぐここから離れなければ奴等が追ってくる」
向こうでプロテウスの急かす声が聞こえる。
山道には四輪の馬車が停まっていた。その馬車を囲む形で饅頭の様な形をした数十体のスライムが整然と待機していた。
皆、青いスライムに対して頭を垂れ粛々と待ち構えている。
「まるでお偉方でも待っているみたいだ……」
「さあ、スガイソラ。貴様も早く乗れ!」
蒼穹が言われるまま馬車に乗ると少女は先頭のスライムに合図を送った。
「親方、お願いします!」
「合点、閣下の手前、似姿でなく失礼と存じますがご勘弁を。その代わり大急ぎで行かせて頂きやす!」
そうリーダーらしきスライムが答えると彼は他のスライム達に号令を送った。
すると不思議な事が起きる。数十体のスライムが体を寄せ合うと何と体を融着させて一つのスライムと姿を変えていったのだ。
大型の饅頭型スライムの数は都合、四体。それらが上下左右にベクターと呼ばれる馬車を囲むと掛け声を合わせて一斉に牽き始めた。
「ソイヤァ!! ソイヤ! ソイヤ! ソイヤ! ソイヤ! ソイヤ! ソイヤ!」
四体の饅頭型スライムはヌメヌメの足の裏で山道を全速力で下って行く。
その足並みたるや見かけに依らぬ俊足だった。
「うわぁ」
揺れ動く馬車の中で蒼穹は思わず声を上げた。
しかしその疾走のお陰で石のドームからは遠ざかり、殻付きの化け物達の影からも完全に逃れる事に成功した。
暫くして周囲から敵の気配が消えると引き手のスライムは足並みを緩めた。
「ここまで来れば流石に奴等も追っては来やせんでしょう」
先頭のスライムから声が聞こえてくる。しかしブヨブヨの森はまだ終わらない。
「さてと、気分はどうだね? スガイソラ」
プロテウスが尋ねた時、蒼穹は座席でぐったりと項垂れていた。そして青い顔をしながら下を向き、何もない床の一点を黙って見詰めていた。
「その様子では何も判らないままこちら側に飛ばされた様だな」
全くその通りだ。自分は自宅の風呂に入っていたはずなのだ。なのにいつの間にか、この訳の分からない状況の中に文字通り裸一貫で放り込まれていたのだ。
あまりにも衝撃的な現実。受け入れがたい事実。そして何も見えない真実がそこにある。
もしかしたら自分は今、湯舟の中で転寝して夢でも見ているのではないのか?
「悪いがこれは夢ではない。見紛う事無き現実だ。それを先に述べておく」
冷然としたその言葉に蒼穹はうつむいたまま絶望で顔を歪めた。
「さて、聞く耳を持つ準備は出来たという事でいいのだな? スガイソラ」
プロテウスの呼びかけに蒼穹は詰まらなさそうに顔を上げる。
それをプロテウスは了解の意味と受け取った。
「まず初めに、ここは貴様の知っている世界ではない、別の世界だ。恐らくな」
「恐らく?」
「正直、貴様が何者なのか、どこの世界の何なのかという事を我々も知らない。ただ一つ判っている事は……スガイソラ、貴様は神の意志によってここに運ばれたという事だ」
その理不尽な言葉に蒼穹は何も言えなくなる。
一方、その様子をオレンジ色の少女が御者席からチラチラと盗み見していた。
「さてこの世界の事だが、ここはダイアラント、我らブロームなるスライムが支配する世界。多分、貴様にとっては異世界という事になるはずだ」
スライム。蒼穹が知っている単語と同じ音が聞こえた。
だが形こそ似ているとはいえ蒼穹の知っているスライムとは明らかにかけ離れた生態をしていた。スライムは例外はあってももっと下等な生物なはずだった。しかし彼等は自分の体を人の姿に変形させ服も着れば言葉もしゃべる。明らかな高等生物だった。
「とてもじゃないが、信じられない……」
それが蒼穹の率直な感想だった。
だがそんなスライム達が人の言葉で答えたのならばそれを信じて受け入れるしかない。
そして自分はその異質な世界に神と呼ばれる存在によって放り込まれたのだ。
「……」
蒼穹が再び黙り込む。これもスライム、あれもスライム。考えてみればあの石造りの建物の中で蒼穹達を襲った巨大な巻貝も本体部分はドロドロのスライムだった。
少しづつ頭の中が整理されていく。だがそれとは対照的に気が滅入る。
「ひとつ聞いて良い?」
蒼穹は青いスライムに訊ねる。
「何だ?」
「この世界に俺みたいな人間は?」
「人間というのが貴様の種の事を示すのなら。その様な種は他に存在しない。恐らく人間は貴様、ただ一人だ」
蒼穹はその言葉の前で押しつぶされそうになっていた。