第27話
聴覚が研ぎ澄まされると鎧戸の外から雨交じりの風の音が聞こえてくる。その中から何か大きなものが地面を引きずる音がした。
「何? ジイバかしら……」
あり得ない話ではない。牧場のジイバは夜になると畜舎に戻って来るのだが、その畜舎から偶に夜中、逃げ出し母屋の周囲を徘徊する個体が居るのだ。
「おじさんに知らせて来ます。スガイソラはここに居てください」
そう言って立ち上がった時だった。鎧戸が突然開いた。
空いた窓から突風が吹き込み蝋燭の火を消す。部屋は真っ暗になり風に混じった雨が蒼穹とユーグレナの肌を濡らした。
だがその時には既に二人は窓の外から異様な気配を感じていた。蒼穹が緊張で息を飲みユーグレナは身を潜める。すでに彼女は手元の短剣を抜いてた。
やがて開いたままの鎧戸から二本の触手が侵入するとその向こうから異様な気配が姿を現す。それは牧場で放牧されていたジイバの影だった。
「やっぱり逃げ出したジイバなの? でも大きさが普通じゃない……」
ユーグレナが不振がりながら息を飲む。一般的なジイバの大きさは饅頭型の時のブロームとさほど変わらない。だが鎧戸の向こうの影はそれを遥かに上回る。
「何なのあれ……。もしかして群体?」
否、ジイバは一体づつ魔法を掛けられ制御下に置かれる。寄り集まって巨大化する話など聞いた事がない。
そうではなく一個の巨大な個体というのなら突然変異としか言いようがない。
更に事態は急変する。忍び込んだ触手の一本が傍に居た蒼穹の足首に巻き付いたのだ。
「うわっ!」
蒼穹の叫び声が聞こえた。同時に怪力によって瞬く間に鎧戸の外へと引きずり込まれる。
「なにっ?!」
だがユーグレナが気付いた時には蒼穹の姿は鎧戸の向こうに消えた後だった。
彼女はさらわれた蒼穹を取り戻そうと鎧戸から外に踊り出る。
外は風雨吹き荒ぶ嵐の中だった。
その荒れ狂う暗雲の隙間から突然、光が射した。光の正体は雷だった。
漏れた閃光が巨大な影をユーグレナの眼前に晒す。
「何、これ……」
思わずユーグレナは身を引いた。
嵐の中で蠢くジイバが山の様に立ちはだかる。鎧戸から見えた時よりさらに大きい。
体色は青色、プロテウスと蒼穹と戯れたあのジイバだ。
そのすぐ横では触手によって逆さ吊りにされた蒼穹の体がゆらゆらと揺らめいていた。
「ス……スガイソラ!」
ユーグレナが叫ぶのと同時に、再び闇夜の雲の中から雷が鳴った。
その直後、ジイバの触手が荒らぶりユーグレナの体を弾き飛ばす。
「キャア!」
打ち倒されたユーグレナの手から短剣が弾かれる。その短剣を触手が空かさず拾い上げると逆さ吊りにされた儘の蒼穹の下へと運ばれた。
「うう……」
蒼穹の喉元からうめき声が聞こえる。まだ意識がある。だが意識があった事が災いした。
「グワアアアアアアア!」
うめき声が悲鳴に変わった。動けない蒼穹の首元を奪われたナイフが切り裂いたのだ。
痛みにもだえ苦しむ蒼穹の首元から真っ赤な鮮血がしたたり落ちる。
そしてその下では待ち構えていたジイバの青い頭上を血が赤く染めた。
「ああ……」
そのおぞましい光景にユーグレナは表情を強張らせた。
宙吊りにされた蒼穹からは今も荒い呼吸が聞こえる。
すぐにでも助けなければ。しかしユーグレナの足は恐怖で竦んで動かない。
そんな中、青いジイバからしたたり落ちる血をすする音が聞こえた。血は青い体内に取り込まれ細胞の一部を朱色に染める。
「そんな……そんな事って……」
ユーグレナが声を震わせる。ジイバが吸血行動を起こすことなど聞いた事が無かった。
だが現に青いジイバは蒼穹の首筋から流れ落ちる血を体内に取り込もうとしている。
それはさながら恐るべき悪魔の儀式だ。
そんな中、嵐に混じって声が聞こえる。
「血?……血だ……これこそが……転生の源……」
その声は逆さ吊りにされ意識が朦朧としていた蒼穹の耳にも届いた。
「ジイバがしゃべる、だって?……」
ジイバはこの世界の家畜のはずだ。ブロームとは同じスライムでも明確な線引きがある。少なくともユーグレナからはそう教わったはずだ。
だが青いジイバは語り続ける。
「私は遂に……遂に弟と同じ高みに……否、やっと皆と同じ所へと辿り着いたのだ……もう食われるのを待つ飼い殺しは沢山だ……」
弟? 皆と同じ所? 食われる? 飼い殺し? ジイバの声が蒼穹の前でささやく。
しかし蒼穹はその言葉の意味を知る前に気を失った。
そして青いジイバにも変化が起きる。すすり続けた蒼穹の血を今度は吐き出したのだ。
まるで咳きこむ様に体内から血を吐き続ける。
それをユーグレナは何もできず、茫然としながら見守っていた。
やがて啜った血を全て吐き出した青いジイバは蒼穹を濡れた地面に捨てその場から立ち去った。
「スガイソラ!」
我に返ったユーグレナは蒼穹の下に駆け寄った。
蒼穹は気を失っていた。
ユーグレナは治癒魔法を起こす共生体を飲み込むと蒼穹が切られた首筋に手を当てた。正直、自分の魔法が異界の生物にどれだけ効くかは判らない。
だからといって何もしない訳にはいかない。血液を全て出し尽くせば蒼穹に待っているのは確実な死だ。
「え?」
しかし蒼穹の首筋に指を当てた途端、息を飲む。
切られたはずの首筋の傷が完全に塞がっていたのだ。
「どうして?」
自然治癒したとしか考えられない。だがあまりにも早すぎるのではないか。
「それともこれが異界の生物の再生能力なの?」
何もかもが判らない。そしてあの青いジイバが蒼穹を襲った理由も……。
「嬢ちゃん!」
嵐の中、外の騒ぎを察知した牧場主達がユーグレナの下に駆け付けた。
「スガイソラが襲われたわ!」
「襲われたって?」
だがその場に居た全員が血まみれのまま倒れた蒼穹を見た瞬間、顔を引きつらせた。
蒼穹は覆面を外したまま外へと引きずり出されたため、素顔を晒していた。
「スガイソラさんは……何の病気なんですか?」
牧場主のオクロモナスが恐る恐る尋ねる。だがユーグレナは冷静に答えた。
「言いたい事は判ります。説明なら後でいくらでもします。でも今は彼を母屋の中に運んで上げて下さい。害は一切ありませんから。閣下もそれを望まれるでしょう」
「判りました……」
全員が驚愕しながらも蒼穹を抱き抱え母屋の中へと運んで行った。
「でも、誰がこんな事を……」
「ナベカムリ様です……」
ユーグレナが騒動の張本人である青いジイバの名を呼んだ。
それは蒼穹が知らない秘密の名前だ。
「ナベカムリ様が? でもそれは何かの間違いじゃ」
「いいえ、この目で見ました。でも体が何倍にも大きくなってました。群体と変わりない位に……」
「そんな……でも、なせ?」
「それはこっちが! ……聞きたいわ」
ユーグレナが思わず本音を漏らした。彼女の言葉に皆が黙り込む。
蒼穹が母屋に運ばれた後、ユーグレナは彼の服を脱がせて体を拭いた。
「やっぱり、傷は残ってないわ」
やがて服を着替えさせた頃になってノームの一人が畜舎から青いジイバの姿だけが消えていた事を教えてくれた。
ユーグレナは牧場にいる大人達を集めてもらうと蒼穹の正体を明かした。
皆が信じられないという顔をした。だがそれでも宰相の後ろ盾と蒼穹の人柄を知ってか誰もが彼を邪険にしない事を誓ってくれた。
その言葉にユーグレナは少しだけ肩の荷が下りていく様な気がした。




