第2話
「もう一度言う。私は貴様に危害を加えない。だから安心したまえ」
少年は再び語りかける。だが蒼穹は押し黙ったままだ。相手が人の形を模した所で恐怖心は変わらない。むしろ似ているからこそ不気味さが際立つ。
そしてにべもなく少年はこう告げた。
「だが今すぐここを離れる事になる。悪いが貴様に選択肢はない」
その直後だった。ズシンと石造りの建物を揺るがすほどの大きな振動が襲った。
「うわぁ?!」
想定外の揺れに蒼穹は台座の上で転びそうになる。だが慄いていたのは蒼穹だけでない。周囲にいた他のスライム達も同じように脅えていた。
そんな中、建物の奥から一体のスライムが現れた。
「報告します! 外に居たヴィーマの群れが侵入してきました!」
そう告げたのもまた人の形を模した別のスライムだった。
しかし身体には銀と赤の古風な鎧を纏っている。
「やはりこちらの動きに勘付いたか。どこから侵入してきた?」
「東の壁に穴を開けて……数は多数。とても持ち堪えられそうにございません!」
険しい表情で鎧の戦士が報告すると、周囲のスライム達が慌てふためく。
「い、今すぐ逃げようぞ! もう用は済んだ! 早く! 早く!」
一方で少年スライムは鎧の戦士に向かって冷然と命ずる。
「警備隊には出来るだけ時間を稼げと伝えろ。我々が脱出するまでだ」
それだけ伝えると少年スライムは鎧の戦士を追い返し再び蒼穹と向き合った。
「判ったか? ここも安全ではないという事だ」
彼の言葉を耳にしながら蒼穹は選択に迫られる。
危機的状況が迫っているのは間違いない。だがこのまま目の前の得体の知れない存在の言葉を信じるか? それとも奴等と離れて一人で逃げ出すか?
「どっちだ。どっちが正しい? どっちだ? どっち? どちらが正解なんだ!」
迷う度に蒼穹の心は窮する。答えが判らない中で時間が差し迫る。しかし判断を誤った先にあるのは確実な自らの死だ。
「す、菅生蒼穹!」
悩んだ末、蒼穹は目の前の青いスライムに向かってこう叫んだ。
自らが名乗る。それは青いスライムの事を信じると決めた証だった。
「スガイソラか……私の名前はブ・プロテウス」
今度は青いスライムが名乗り上げる。
そして傍に居たスライムにもう一着、服を持って来させた。
「着たまえ、裸のままでは何かと都合が悪かろう」
蒼穹は差し出された服を受け取ると、成すがまま濡れた体を包み込んだ。
「ではスガイソラ、貴様に命ずる。私に付いて来い、死にたくなければな」
着替え終えた蒼穹に向かってプロテウスが言った。
だが事態は先を越して急変する。
今度は一人ではなく大勢の戦士達がホール目掛けて飛び込んで来た。
その彼等を追って後から得体の知れない影が現れた。ホールに侵入してきた影の正体もスライムだった。だがこれまでに見たものとは明らかに毛色が違う。
それは背中に巻貝の様な斑模様の殻を持ったスライムだった。
しかも大きさが尋常ではない。殻の全長は約五メートル、尖った先端はホールの天井を擦りそうだ。更に巻貝の穴から二本の長い触手が伸びるとその先端には槍の穂先の様な鋭い爪が伸びていた。
その殻付きの化け物が傍に居たスライムに狙いを定めると触手を振るった。触手の先端の爪がブヨブヨの体に刺し込まれた瞬間、スライムは動かなくなる。
活動を停止したスライムは床の上で溶けたアイスクリームの様に広がっていった。
それはスライムにとって死を意味する事を蒼穹は直感した。
だがそれだけでは終わらない。
殻付きの化け物は溶けたスライムの前に来ると何と殻の中から管を伸ばし、そのまま死体を吸い上げ始めたのだ。
「く、喰ってるのか……」
その凄惨な捕食現場を前に蒼穹は愕然とした。
ホール中は阿鼻叫喚の地獄絵図に変わった。続け様に大勢の殻付きの化け物達がホールに侵入すると触手の爪で脆弱なスライム達に次々と襲い掛かる。
仲間が目の前で溶かされながら喰われていく。
その中を正気を失い生死の境で逃げ惑う。
当然、侵入者の矛先は茫然としたままの蒼穹にも向けられた。
「危ない!」
プロテウスが慌てて蒼穹を突き飛ばした。その直後、穂先は蒼穹の横を擦り抜け、代わりに背後にあった八角形の台座に一撃を浴びせた。
台座は蒼穹の身代わりとなって粉々に砕け散る。
「痛てて……」
その傍で突き飛ばされた蒼穹が呻く。
しかしプロテウスは労わってくれる素振りもみせない。
「我々も逃げるぞ、スガイソラ!」
信じる信じないは別にして、もはや付き従うしかない。侵入者達は誰にでも分け隔てなく敵意を示し襲ってくるのだ。
蒼穹は立ち上がると先に走り出したプロテウスの後を追った。そしてホールから脱出すると長い廊下を駆けながら建物の出口へと急いだ。
その蒼穹達の後ろにはホールに居た数体のスライム達が付き従い、更にその後方からはあの殻付きの化け物が追ってくる。
追う方も追われる方もヌメヌメと床の上を這うのだがその動きは予想以上に素早く蒼穹の全力疾走と変わらない。そして殻付きの化け物達の方が速く、逃げる蒼穹達の背後に再び迫った。
「もう、だめだ。シストになるしかあるまい……」
「そうだ、このまま食われるくらいならば……」
蒼穹の後ろで諦めの声が漏れた。
その直後、走るのを止めたスライム達が床の上で饅頭の様に体を丸くする。
「いかん、諦めるな! 今、シストは駄目だ!」
彼等の動きを見てプロテウスが叫んだ。しかし少年スライムの声は彼等に届かない。
饅頭は瞬く間に灰色に変わり石の様に硬くなった。
だが追ってきた殻付きの化け物は触手の先端を硬化した体に難なく突き刺していく。
「だからシストは通じぬと言ったのに……」
騒然とする蒼穹の横でプロテウスは悔しそうに表情を歪める。
「おい、アンタの仲間がやられてるぞ! どうするんだ?」
「どうすることも出来ない。もう外からでは何を言っても無駄だ」
彼等を救う手立てはない。プロテウスは硬化した仲間を見捨てる他なかった。
そして蒼穹だけを連れてこの場から逃げ去っっていった。