第15話
下町に入った途端、凄まじい生活臭が立ち込める。それは生きていく上で吐き出される生の臭いだった。
目の前には木枠で補強した擦り減った土の壁の街並みと、それに張り付くように多くの出店や屋台が所狭しと並んでいた。
「あの木材みたいなのは何だ? ここに来て木なんて一本も見た事ないけど」
「建材の事を仰ってるならサイプレスケルプと呼ばれる陸棲の藻類の一種です。成長すれば幹の太さが一メートルを超える事もあるそうです」
その街並みに挟まれた道路の舗装は広い大通りのみが石畳で後は土を固めた道だった。
どちらも穴だらけで泥濘が点在し、その中を大勢のノーム達が行き交う。大きな荷物を運ぶベクター、建築現場を動き回る若い職人。乾燥した海藻の入った籠を担いで歩く女達。その人込みの間を走り回る子供達の群れ。似姿も居れば饅頭型もドロドロ型も居る。
だが湧き上がるような活気に満ちている。城門の向こう側が無菌室ならここは雑菌の温床だ。
「酷いわね……似姿が前よりも減っている。戦争のせいでここのモラルも崩壊寸前だわ」
ユーグレナが町の光景を眺めながら独り言をつぶやいた。
そんな時、道端の屋台から威勢の良い声が聞こえてきた。
「どうだい覆面の兄ちゃん! いい共生体が入ってるよ。一杯やっていかねえか?」
ドロドロ不定形の店主は陶製のジョッキを蒼穹の前で掲げた。蒼穹がジョッキの中を覗き込むと水の中にぎっしりとカエルの卵の様な物が沈んでいた。
「うえっ! 何だこれ?」
その気味の悪さに蒼穹が尻込みする。
「体力増強の共生体だよ。知ってるだろ?」
「共生体?」
初めて聞く言葉に蒼穹は興味を魅かれる。
「一杯飲みゃ明日の朝までギンギンさ。どうだい、そこの若嫁さんの為に? 今なら一杯800ゼリーだよ!」
「お断りします!」
ユーグレナが会話を遮ると屋台の前から蒼穹を連れ出した。
「遊びに来たんじゃありません!」
「まあ、そうだけど……ところで共生体って何?」
「簡単に言えば魔法の元です」
「魔法の元ってここは魔法の世界か? どんな魔法を? もしかしてさっきの雷も魔法で出したのか?」
「雷衝の魔法です。それに合わせて先ほど筋力増強の魔法も使いました」
「筋力増強って、さっき屋台で売っていた?」
「あんな物は紛い物です。屋台で売っている共生体なんて信じないで下さい」
そう言いながらユーグレナは腰に下げたポーチから丸薬の様な小さな玉を取り出した。
「これが共生体? 薬みたいだけど」
「こう見えても列記とした生き物です。それぞれに特殊能力があり体内に取り込むとブロームの細胞に入り込み魔法の力を授けてくれます。最も、長くは持ちませんが……」
「これが生き物だって?」
説明を聞きながら蒼穹は目を見張る。その丸薬が生き物とは到底、思えない。
「神様の作った奇跡だな……」
「講義はこれくらいにして雑踏に入ります。はぐれないで下さいね」
ユーグレナが町の中を進んでいった。蒼穹はその後ろにぴったりと付いていく。通りは込み合い足元も悪い。一瞬でも目を離すと前を歩く彼女を見失いそうだ。
「二本足は歩き難いな……」
蒼穹が小さく吐き捨てる。時折、泥濘に足を取られる。泥は深く、時には膝の下まで沈む。その点、饅頭の形をして地面を這うスライムは滑るように泥濘の上を進んだ。
「あっちの方が効率が良さそうだな……」
だがそんな中でもユーグレナは似姿を崩すことなく前を進む。
「ユーグレナ、似姿よりも饅頭型の方が速く走れるんじゃないのか?」
蒼穹が後ろから尋ねるとユーグレナは歩きながら答えた。
「確かに仰っている事は理解できます。ですがあの姿はあまりお行儀の良い姿ではありません。ブロームにとって似姿こそが正しい作法ですから。それにあの姿で動くにはほとんど裸にならねばなりません。それは余りにもあんまりです」
やがて二人はどこかの住宅街の中の一軒家に到着した。そこは支配層で見る石造りではなく陸棲の藻類の桁材と土壁で作られた簡素な一般住宅だった。
「ここは?」
「私の実家です」
ユーグレナは簡潔に答える。
「じゃあユーグレナは……」
「ノームの出身です」
ユーグレナが扉を叩くと中から一体の饅頭型スライムが姿を現した。スライムはオレンジ色でずいぶんと小さい。多分、子供のスライムだ。
「おばさん?……」
子供スライムが訊ねて来た。
「こんにちわ、コンジドール。皆、元気してた?」
ユーグレナが優しく呼びかけると小さなスライムがうなづく。
「お母さんは居る」
「今、呼んでくるね……」
そう答えると子供スライムは家の中へと姿を消した。
暫くして今度はオレンジ色の大きな饅頭型スライムが他の子供達と共に姿を現す。
「あら、久しぶり。本当にあなただったのね」
「久しぶりね、姉さん」
「姉さん?」
蒼穹が心の中で叫ぶ。確かに目の前に居るのはオレンジ色のブロームだった。
しかし似姿を取っておらず、ズッシリとした饅頭型の体形に腰巻の様なエプロン姿は一目見ただけではユーグレナの姉と言われてもピンと来ない。
「そちらの方は?」
姉は妹の後ろに立つ覆面の男を覗き込む。
「同僚よ。宰相閣下の下で働いてるわ」
「初めまして……菅生蒼穹と申します」
蒼穹は不審がらせない為に出来るだけ丁寧にあいさつした。
「いらっしゃいませ。でもあなたがお客様を連れてくるなんて珍しいわね」
「覆面は病気をした顔を隠してるの。皆を驚かせない為にね。大丈夫、感染はしないわ。それは保障する」
「もう、この子ったら……。そんな言い方したらスガイソラさんに失礼でしょ」
「まあ、そうなんだけどね……。一応、断っておくわ」
「そんな事より、さあ、入って。ここで立ち話も何でしょ? スガイソラさんもどうぞ、何もございませんがゆっくりしていって下さい」
「では失礼いたします」
蒼穹は恐縮しながら家に入ると居間の敷物に座らされた。そこはワイズマーもノームも共通の習慣らしかった。