第10話
菅生蒼穹の異世界ダイラタントでの生活がこうして始まった。
しかしこの世界のルールを知らない事にはそこの社会に参加出来ない。蒼穹のやらされた事はまずここでのルールを覚える事からだった。
講師はユーグレナが付きっきりで執り行った。
「知性を持つスライム。ブロームの社会は国王陛下を中心とした支配階級のワイズマーと労働階級のノームやその他に別れます。その階級制度によって社会を形成し、ダイラタント全体に広がっているのです」
「国はここの他にもあるの?」
「はい、ここブロムランドの他にもいくつか在ったのですが……」
「どうしたんだい?」
「ヴィーマによって多くが滅ぼされました。現在、国としての体裁を保っているのはここブロムランドだけです」
「あのヴィーマってのは何者なんだ?」
「我らブロームの不倶戴天の敵です。甲殻スライムとも呼ばれています。五年ほど前から各地で目撃されて以来、ブローム達の住む土地を蹂躙し続け、多くの同胞を殺害し捕食していきました」
そう説明してくれたユーグレナの声に力が籠っている。まるで忌まわしい記憶を掘り起こしているかの様だ。
「ヴィーマの目的は? 何か言って来ないの? それとも本当にこちら食うだけ?」
「ヴィーマとは意思疎通できません。会話も成り立ちません。それどころかヴィーマは文字も言葉も持たない下等生物です。本当に食うか食われるかの関係です」
「奴等どこから来たんだ?」
「東の空をご覧下さい。小石ほどの星が出てきたでしょう」
言われてみれば東の空の地平線から月の様な白い天体が昼間から昇り始めていた。
「最初に観測された町の名を取って妖星ヒダルと呼ばれています。あの星がこの世界に現れたその日からヴィーマは各地で姿を現したと言われています」
「じゃあ、奴等はあのヒダルって星からやってきた宇宙生物?」
「確かめた者はいませんがそれが通説です。宰相も関連があるのではと考えておられますが詳しい事はまだ調査の段階です」
「でもそれが事実なだ御苦労な話だな。わざわざここを襲うのにあんな遠い星から来たなんて……」
「いいえ、恐らく聖地アーケゾアで巣食っていたヴィーマだと思います」
「聖地アーケゾア?」
蒼穹が鸚鵡返しに聞き返す。
「このブロムランドの遥か西方、アーケゾアと呼ばれる丘の頂に我らブロームの聖地があります。ヴィーマはその聖地を初期の段階で占領すると、そのまま居座りました」
「聖地には何が祀られているんだ?」
「神祖リーカ神が眠られていると言われています。一年前、偵察に行った者の話では敵は聖地の上のリーカ大神殿を占拠して厳重な管理下に置いている様です」
「占拠して何をするつもりなの? こちらを食うだけの存在が」
「判りません。ですが決して許される事ではありません。正に神に仇為す冒涜です」
講義の中で蒼穹はこの世界の神話や伝説、そして歴史も学んだ。
彼等の歴史は約三千年。人間と比較しても短いものだった。
神は神祖リーカと呼ばれアーケゾアの丘の頂に降り立った。そしてスライムを作り出し、その中で似姿と呼ばれる神の姿を模倣出来たブロームだけが文明を起こした。
神自身は丘の地下深くに潜り眠りについたと言われている。
そこから異世界ダイラタントの歴史が始まる。
その中で生まれたここブロムランドは最も歴史が古い大国だった。
だが五年前妖星ヒダルの出現とヴィーマの侵略によりダイラタントは混迷期に突入しこの国の国力も大きく低下した。
それがこの世界の歴史の大まかな流れだった。
「君の言う似姿って?」
「ブロームがブロームたる所以です。私は今、自分の姿を神に御影に模しています。本来の私達は丸いお饅頭の様な形かドロドロの形をしています」
だがそんな彼女の造形は完璧な人間の美少女の姿だ。
「でもそれって俺たち人間だろ?」
「その様ですが、私達にとってはこれが想像しうる神の御影です」
そしてその自分達が作り出す似姿こそが神の御影であり彼等の信仰の証でもあるのだ。
「ブロームによって心に思い描く神の姿はまちまちです。私は私の中で浮かんだ神の御姿を自身の体に透写したに過ぎません」
「それがブロームたる所以って?」
「スライムの中で神の御影を作り出す事の出来る物こそブロームなのです。逆に言えば神の御影を作り出せる者だけがブロームなのです。ブロームだけがこの世界の文明社会の構成者なのです」
「だから俺はそのブローム達の事をよく知り、そして合わせる必要があるって事か」
「ここで生きていくならば……ですね」
講義はスライムの体の特殊機能にも及んだ。
「シストとはどんなスライムにも備わっている自然環境に対する適応能力の事です。具体的に言えば体を丸くさせた後、外皮を硬化させ、その中で体を仮死状態にする事です。一種の冬眠状態ですね。シストの状態になれば砂漠の乾燥にも、極寒の冷気にも、海底の水圧にも、十年単位の飲まず食わずの飢餓にも耐え続ける事が出来ます」
「でも環の神殿で見た時はヴィーマの攻撃に効果無かったよ」
「当然、防御力には限界があります。ヴィーマの爪は鋼の鎧すら突き通します。スガイソラも奴等と会う時はお気を付けください」
「あのベクターの車夫がやった合体技は?」
「群体による変形体です。寄り集まってはいますが別にあれで一つの生物になる訳ではありません。しかしあの形態て集団行動をすると効率的に力の集約が行えます」
「小学生の組体操かラグビーのスクラムみたいな物って訳か……」
ユーグレナから聞かされるスライムの話は興味深いものばかりだった。
蒼穹は講義の中でこの世界の知識を順調に吸収していった。
しかし講義は順調でもそれ以外の生活面では辛さが顔を覗かせる。
プロテウスの屋敷の者達は皆、理知的で蒼穹に親切に接してくれた。
食事もお茶が薬臭いのとレパートリーの少なさ以外は耐える事が出来た。
それでもここは自分の世界とは隔絶された異世界だ。毒を喰らわば皿までと言っても本当に皿まで食える人間は稀だ。
生憎、蒼穹の異世界に対する順応性は人並みでしかない。
そうなると時折、胸中に耐えがたい孤独感が襲い掛かる。
結局、この世界で人間は自分しかいない。
その事実を突き付けられた時、決まって思い浮かべるのが離れ離れになった両親や友人達の顔だ。
とりわけ両親に会いたいという思いは募る。
「母さん……父さん……。今頃、どうしてるかなぁ……」
恐らく心配してくれているはずだ。突然、家の中で息子が消えたのだ。もしかしたら悲しみに暮れているかもしれない。
そう思うと胸の奥がズキズキと痛み、そして罪悪感に捕らわれる。自分は何も悪くないはずなのに……。
「もう二度と会えないのか?」
そんな思いが過ると今度は恐怖に駆られる。
だが今の蒼穹には何も出来ない。
結局は、寂しさを胸の奥に押し込めて耐えるしかなかった。