第1話
その日の夜、菅生蒼穹は自宅の風呂場で溺れた。
湯舟に腰を下ろした途端、瞬く間に目の前が沈み、湯が頭の天辺を覆いつくしたのだ。
「がばぁ! あぷっ!……」
入浴剤で白濁した湯の中で慌てて湯舟の底を探した。
だが幾ら足で探ってもあるはずの湯舟がない。まるで底が抜けた釜の中だ。
「嘘?! 何がどうなって……」
溺れながら必死にお湯を掻き分ける。足が着かないのなら泳いで浮き上がるしかない。
しかしどれほどもがいても顔が湯面から出る事は無く幾らでも沈んでいく。
「父さん!……母さん!……助けて……」
泡を吐きながら両親に助けを呼んだ。
つい先ほどのいつもの夕食が今生の別れなどと死んでも認めない。
しかし二人に息子の声は届かずリビングのソファの上だ。
「もう駄目だ……」
蒼穹は藻掻きながら息苦しさを覚える。
そして白濁した湯の周囲は次第に暗さを増し、冷たい闇へと変わっていった。
溺れた蒼穹が行き着いた闇の向こうは、やはり新たな闇だった。だが不思議な事に息苦しさからは解放され、周りにあったはずの風呂の湯も忽然と姿を消していた。
「ぷはっ!」
蒼穹は大きく息を吐いた。そして今度は瞳を開いて辺りを見渡す。
だが何度見てもあるはずの風呂場はなく暗いがらんとした空間が広がっていた。
「な、何? ここ何処?」
全く、意味が判らない。自分は湯舟の中で溺れていたはずなのに、今はまるで見覚えのない場所に居る。
「もしかして天国?」
ならば理不尽だ。いくら神様でも風呂の中で突然、足を引っ張って溺れさせるなんて悪趣味にも程がある。
そんな時、吹き込んだ隙間風が濡れた背中を撫でた。
「へっくしょん! 寒っ!」
「何だと! 生き物が召喚されたとはどういう事か?!」
くしゃみをした瞬間、声が聞こえた。
「子供の声?」
反射的に声の方を振り返る。そこも薄暗かった。ただどこかの建物の中らしく黒い石壁に立てかけられた燭台の上の灯火が周囲をまばらに照らしていた。
その淡い光を浴びながら何かがぬっと姿を現した。だがそれは蒼穹がイメージする神様ではない。青い色をした半透明のゼリー状の物体だった。
「うわっ!」
蒼穹は思わず声を上げた! 驚きと慄きで体が強張る。
ゼリーは生きていた。そして暗い床の上を這い回る。
その動きは不定形で一度として同じ形を作らない。まるで微生物のアメーバの様だ。
しかし大きさの方はアメーバとしては常軌を逸しており、バケツの三杯分ほどの質量を持ったブヨブヨとドロドロの塊だった。
それはアメーバというよりは……。
「スライムそっくりだ……」
スライムとはドロドロの粘性質の物質の俗称だ。世間一般にはホウ砂とポリビニルアルコールの両水溶液を混合、攪拌して作られたおもちゃや教材の事を指す。
だが蒼穹が言ったスライムとはファンタジー小説やゲームに登場する上記物質と形の似た架空の魔物や生物全般の事だった。
なぜならそのスライムは生きていたからだ。
スライムは大概、物語かゲームの序盤で脇役か雑魚として登場し、体は半透明でゼリー状の不定形を成し動きは地面を這う様に蠢く。その知性は低いか、持ち合わせておらず本能のままに体に餌を取り込み、体内の溶解液で溶かし栄養に変える。まさしくアメーバを巨大化させたような生き物だった。
だがスライムは飽くまで空想上の生物だ。逆にバケツ三杯分のアメーバの話も聞いた事も無い。
やがてゼリー状の生物は全身をゆっくり隆起させると頭頂部に穴を開けた。
「おい貴様、私の声が聞こえるか?」
穴から人の声が聞こえた。それは先ほどの子供の声で紛れもなく日本語だった。
「しゃっ、しゃべった?!」
蒼穹は思わず叫んだ。しかしそれで精一杯だった。思考は鈍り体は今も恐怖で硬直したままだ。正直、気が変になりそうだ。
しかも今の自分は一糸纏わぬ全裸だ。相手が牙を剥けば抗う術は一切無い。
一方で青いスライムは蒼穹とは対照的に冷然とした口調で語り始める。
「どうも言葉が通じる様だな。なら安心しろ。危害を加えるつもりはない」
だが蒼穹は現実が受け入れられず目の前の異様な存在を前に脅えるばかりだ。
「ふむ、混乱して聞く耳を持たぬか……。まあ仕方なかろう。突然、こんな場所に召喚されたのだからな」
蒼穹の態度にも青いスライムは極めて冷静だ。
そんな中、周囲から声が漏れる。
「何と! 生き物が召喚されるなど今まで聞いた事が無い……」
「しかもあの形は口にするのも恐れ多い……」
「これは何かの悪い予兆では無いのか?」
青いスライムとは逆に声には騒然と焦燥が入り混じっている。
蒼穹は再び周囲を見渡す。すると瞳が闇に慣れ始め空間の全容が見えてくる。
黒い石の壁とアーチ型の天井、そこは宗教じみた円形のホールを思わせた。
だがその床の上は大勢のゼリー状の生き物で埋め尽くされていた。
「うわぁあああああぁ!!」
目の前の不気味な光景を前に蒼穹は恐怖で悲鳴を上げた。
奴等は群れを成して蠢いている。色も大きさも声色もばらばらで、それらが全裸の自分を品定めする様に遠巻きに囲っていたのだ。
そして蒼穹は自分が腰を下ろしていたのが直径五メートルほどの八角形の台座の上だと気づいた。台座の上端は磨き上げられ、その外縁を囲むように文字の様な記号の様な彫刻が刻み込まれている。
無論、自宅の湯舟ではない。むしろ生贄を捧げる祭壇か何かに思えた。
自分が供物として捧げられると想像すると恐怖で頭がおかしくなりそうだ。
「落ち着け。何も取って食おうという訳ではない。それは私が保障する」
脅える蒼穹を青いスライムが宥める。しかし蒼穹は脅えるばかりだ。こんな訳の判らない存在の言う事の何が信じられるというのか。
「ふむ、困ったな……なら、これならどうだ?」
青いスライムが蒼穹の前で形を変えた。しかも今度は秩序だったある物の形だった。
それは人の形だった。おおよそ小学生高学年か中学校に入りたての男子生徒ほどの背格好の美少年だった。少年は違うスライムが運んできた古代文明の貴族や神官が纏うような衣服に袖を通すと蒼穹の前で毅然と立ち尽くした。
一方で袖や襟下から見える身体は肌も髪も目も鼻も口も耳も爪までもが半透明の青の一色で構成されていた。
それは一言で言えば人型の型枠で作ったゼリーの塊だった。