銀の翼は呪いの翼
とある片田舎。人間達の住む集落から少しばかり離れた所に、ゆっくり達が棲む森が有った。
この森は、それほど木が密集していたわけでも、起伏が多いわけでもないが、自然が豊かで、ゆっくり達も他の小動物達と同じく、その恩恵に浴していた。勿論、他の捕食者に殺されるゆっくりもいたが、それも既に正常な食物連鎖の内となっていた。
ここのゆっくりの群れは、実に三桁に及ぶ多くのゆっくりを抱えていたが、最初からそんなに大きな群れだったわけではなかった。いくつかの小さな群れが、生き残りのために身を寄せ合い、徐々に大きくなっていったのだった。
そして、人間の集落、というより、人間には近寄るべきではない、と、彼らは経験的に知っていた。興味本位で近寄ったゆっくり達は、その殆どが二度と帰る事はなかったのだ。
しかしそんな中、まだ群れがそれほど大きくなかった頃に、人間の集落に向かい、そこに住み、森に戻ってきた一匹のぱちゅりーがいた。
幸運な事に生まれつき聡明だったそのぱちゅりーは、幼い内から自らの種の短所である体の弱さを気にしていた。そして、体を鍛える事によってそれを克服しようとした。その努力は見事に実り、少なくともぱちゅりー種としては間違いなく群れで一番の、そして、並のゆっくりには決して負けないだけの身体を手に入れた。
充分に強靭な体を資本に、彼女はその生活の中で触れる全ての知識を吸収していった。先ゆん達の教訓、自然の厳しさ、それらに基づいた生き残るための術。ぱちゅりーは、まさに賢者と呼ばれるに相応しいゆっくりとなっていた。
ただ、彼女はそれだけで満足する事はなかった。
とどまる事を知らない未知への関心は、禁忌とされていた人間の集落への興味へと向けられた。それでも、彼女が勝手にそこに向かう事はなかった。
ぱちゅりーは、その時の長であったまりさに直談判に行った。長まりさは、当時既に群れの貴重な頭脳であったぱちゅりーを失うかもしれないその願い出を、最初は堅く禁止した。しかし、何度でも願い出るぱちゅりーの熱意に押し切られた形で、長まりさは渋々それを許した。
勿論、ぱちゅりー自身も危険は承知していた。ただ、命を賭してでも人間の集落へと向かいたいほど、彼女の知識欲は抑えられなくなっていた。彼女にとっては、知識欲を封じられる事はゆっくり出来ない事であり、生きながらにして死しているのと同じ事なのだった。
集落へと向かったぱちゅりーは、しかし、ほどなく人間に捕らえられてしまう。即座に叩き潰されてもおかしくはなかったのだが、ぱちゅりーが普通のゆっくりと違って落ち着いて理性的な話をしていた事と、そもそも害獣としての行動をしていたところを捕らえられたわけではないという事とで、森へと帰される事になった。
しかし、当のぱちゅりーは森へは帰らないと言った。『帰らないと潰してしまうぞ』と脅されても、主張は曲げなかった。
と、そのやり取りを聞いていたある老翁が笑い出した。『腹の据わったゆっくりだな。人間でもお前ほどのはそうそうおらんぞ』と。そして、自分の飼いゆっくりになる気はないか、と聞いてきた。ぱちゅりーはそれも面白いと思い、承諾した。
飼いゆっくりとなったぱちゅりーは、さらに人間の世界の知識を深めていった。新しい刺激の洪水だった長い長い日々が落ち着き始めた頃、飼い主である老人の周囲はにわかに騒がしくなる。彼の家を含めて周囲の土地の買収計画が持ち上がったのだ。
老人は買収反対運動に参加するようになったが、心労が重なって倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
残されたぱちゅりーには、選択肢が与えられた。これから他の有志に引き継いで飼われるか、それとも、森へ帰るか、である。
今度の彼女は、森へ帰る事を選択した。何時の間にか大好きになっていた、そして、もういない老人への郷愁と後悔。それと、森のゆっくり達に迫るかもしれないこの騒ぎへの危機感。それらが彼女に森へ帰る事を選択させたのだ。
ぱちゅりーが集落で過ごした長い時間は、森のゆっくり達にも等しく流れ、彼女が居ない間にも群れの状況は少しずつ変化していた。群れ自体も大きくなっていたが、かつて長だったまりさは既に死に、当時ぱちゅりーの友──そこそこ年上ではあったが──だったありすが群れの新しい長となっていた。
群れの性質にもよるが、野生のゆっくりの群れは概ね、他所から訪れたゆっくりを好意的に(よく言われる、『ゆっくりしていってね!』の挨拶から始まる一連の『プロシージャ:手続き』によって)迎え入れる。
しかし、この例外として、普通、一度でもその群れを離れたゆっくりや、人間に飼われていたゆっくりが野生の群れに加われる事はまずない。
ただ、このぱちゅりーは、その知識と能力という実力と、長が古い友だったという幸運によって、再び群れへと迎え入れられた。
群れに戻ったぱちゅりーは、その実力ゆえにすぐに重用されるようになり、やがて長の参謀とも言えるような地位に就いていた。
それから暫くの間、彼女達の努力もあって、群れのゆっくり達はゆっくりした生活を楽しんでいた。
彼らのゆっくりした毎日がにわかに慌しくなったのは、その冬の雪の季節が過ぎた頃の事だった。
それまでまるで不可侵条約でも結んでいたかのように森のゆっくり達の生活圏には入って来なかった人間達が、度々そこに姿を見せるようになった。彼らはゆっくり達に直接危害を加える事はなかったが、森を訪れるたびに柵や塀を設置し、ゆっくり達の行動範囲を徐々に狭めていくのだった。
もし群れがさほど大きくなかったならば、当面の問題はそれほど無かったのかも知れないが、十分に大きい群れとなっていたゆっくり達にとっては大きな問題だった。群れが大きいという事は、それを維持するために多くの食糧が必要という事であり、ゆっくり達の生活圏に人間が侵入し、その行動範囲を狭めていくという事は、獲れる食糧の減少、即ち、群れの維持の危機となる可能性をはらんでいたのだ。
ぱちゅりーが進言するまでもなく、長ありすは野生のゆっくりが人間達と関わる事の危険性を理解していた。人間達と野生のゆっくり達の利害関係が一致するケースはほぼ無いし、両者の間で真っ当な契約や協定が成立したケースもほぼ無い。
人間にとってはどうか分からなかったが、少なくともゆっくり達にとっては接触しない事自体が自らの身を守る最大最良の手段である事は明らかだった。
接近してきた人間と接触しないようにするには、人間の手の届かない場所へと群れ自体が移動、つまり引越をすれば良いのだった。但しそれは、この群れのような大きなゆっくりの集団にとっては簡単な話ではなかった。
そもそもゆっくり達にとっては引越というものは生命の危険の伴うもので、その危険性を少しでも抑えるためには充分な下準備が必要なのだった。それは群れごとの引越となればなおさらで、これほどの大きさの群れとなれば『さらに』であった。
この群れがそれなりに安全な引越が出来るようになるまで準備をするには、どんなに急いでも数日や何十日程度では済むわけがないのは明らかだった。
そして、今のペースで人間達の『侵略』が進んで、ゆっくり達の行動範囲が狭められていき、食糧の充分な確保が出来なくなるなら、充分な引越の準備が出来ない内に食糧が底をついてしまうのもまた自明だった。
まずは、長ありすは群れのゆっくり達に引越の準備を進めるように伝えた。それが完全には間に合わない可能性が高くても、努力しておいて困るような対処法ではなかったからだ。季節的な問題としては、赤ゆっくりも少なく、雪も無くなっていたという点において、引越には最悪のタイミングというわけでもなかった。しかし、住み慣れた土地から離れるという事は、多くの動物がそうであるように、好ましい事ではなかったし、多くのゆっくり達もそれを望んではいなかった。
ただ、この件に関しては、長ありすは全く妥協はしなかった。いくつかの反対意見を強く押さえ込み、引越の準備を進めさせた。実際に、不満を漏らしていたゆっくり達も
『今まで群れをしっかり守ってきた長が、そこまで言うのならば』とそれに従った。長ありす自身も、これが杞憂に済んで群れが無事ならば、自分の強行な態度に不信を持たれる程度は構わないとも思っていた。
一方で長ありすは、人間達の行動の真意を計りかねていた。ただ、ぱちゅりーが群れに戻ってきた頃に彼女が話していた人間の集落の混乱が、森に訪れつつあるのかも知れないというのは容易に想像がついた。
しかし、これだけ大きな群れである。不要な不安を煽ってしまえば、パニックに陥ったゆっくり達が何をするか分からない。場合によっては、破滅的な行動を取るゆっくりも出てくるだろう。確実な事が分かるまでは、どんな最悪な事態が推測されようとも、うかつな事を群れのゆっくり達の前では話すべきではない、とも、長ありすは思っていた。
そうなると、今現在一番欲しいのは、人間達が何をしようとしているのかの情報だった。但し、人間達の情報を得るためには、当然の事ながら人間に接触しなければいけないし、それは危険を伴う事だった。
そんな事を長ありすが近しいゆっくり達に漏らしていたところ、ある歳若い──と言っても、立派な成体の──まりさが、自分にその役目をやらせろと立候補してきた。
このまりさは、身体能力は高いものの、すこぶる他愛のないまりさで、いかにもまりさ種らしい個体だった。それ故に、長ありすも、参謀であるぱちゅりーも、彼を独りで人間の元に送り込む事は心配だった。
それを聞いて一計を案じたのは、ぱちゅりーの補佐役に就いていたれいむだった。彼女はその上司のぱちゅりーと同じぐらいの変わり者で、感情の起伏の激しいれいむ種としては珍しいほどの冷静沈着なゆっくりだった。この群れの生え抜きであるこのれいむは、その物腰の柔らかさとも相まって、群れの他のゆっくり達からのゆん望も厚かった。
れいむはとある別のまりさの元を訪れ、かのまりさと共に人間の元へ向かって欲しいと頼んだ。れいむの旧友であったこのまりさは、身体能力は並以上であるが、逆に少しばかり臆病な面があった。ただその臆病さが故に、それまでのゆん生における幾度もの危険を乗り越えて来られたのでもあった。
頼まれたまりさは一瞬考えたようだったが、それでもまるで近所へのお遣いでも頼まれたかのような軽さで『いいですよ』と答えた。勿論、れいむは命の保証は無い事は告げたが、それでも彼は『れいむのたのみなら』と答えた。まりさには、彼が断ったられいむが自分で行くであろう事が分かっていたし、それは確実に旧友を失う事を意味するのだろうと思っていたからだった。
そうして、れいむがぱちゅりーと長ありすに具申したお陰で、二匹のまりさ──厳密には、一匹のまりさと一匹のお守り──が人間の元へと向かう事に決まった。
猫の爪のような細い月が光る夜、二匹のまりさは人間の集落に向かった。
単に人間と接触するだけなら夜間に集落へと入る必要は無かったが、接触する前に何らかの情報を収集が出来ればそれに越した事はない、という理由で、まりさ達は夜の内に人間の集落へと忍び込む事にした。あわよくば、というか、情報を充分に収集出来れば、人間と接触するという危険を冒すことなく、そのまま森へと帰る事が出来るかも知れない……。
ただ、得てして希望的観測は現場で否定されるものであり、この場合も目論見通りにはいかなかった。
夜で、まばらではあるが、人通りが無い訳ではない。他愛のないまりさがちょろちょろと動き回っては、お守りまりさの肝を冷やす。運が良いのか悪いのか、まだ人間に見つかってはいなかったが、心配するお守りまりさの気持ちなぞ知らず、他愛のないまりさの方は自分が先陣を切っているのだと言わんばかりに迂闊に動き回っては、自らの勇敢さ(だと思っているもの)に酔いしれていた。
その無謀な突進のお陰で、至近距離の藪の中から人間達の動きを見たり会話を聞いたりする機会も得る事が出来たのでもあったが。
こっそりと人間達の会話を聞く内に、お守りまりさはある違和感に気がついた。その会話の内容自体は良く分からなかったのだが、問題はその言葉だった。以前にも彼は何度か人間達の会話を聞いた事があったが、その時は人間達の言葉がそれほど自分達ゆっくりが使う言葉と似ていなかったような覚えがあったのだ。もっともそれは、違っていると言えるほど違っていた訳でもないのだが、今回耳にした会話は、驚くほど自分達が使う言葉と似通っていたのだった。
ただ、あまりにも漠然とした違和感だった上、いちいちそんな事を話したとしても、あの他愛のないまりさはウザったがるだけだろうと思った彼は、その違和感を心にしまったままにしていた。
しかし、無謀な行動に対する幸運など、おおよそ長続きするものでもない。
民家に興味を示した他愛のないまりさは、その手前にある畑を横切ろうとしていた。
「そこをとおっちゃだめだ!」
お守りまりさが叫ぶ。彼は畑に入った時点で害獣扱いとなり、駆除されても仕方がないという事を知っていた。人間に捕らえられる事自体は、人間と接触する手段として必ずしも悪くはない。但し、害獣として捕らえらえるのはマズい、と、お守りまりさは思っていたのだ。
「ゆうかんなまりささまは、こんなとこはへいきなのぜ!」
お守りまりさの制止も聞かず、他愛のないまりさは畑の方へと跳ねていく。確かに、見る限りは害獣捕獲用の罠などは見当たらないが、それでも安全な行為ではない。
ボコッ!
「おそ……ゆぐっ!」
他愛のないまりさの台詞が終わるより先に、彼は底まで落ちていた。落とし穴だ。
カラカラン……
鳴子の音がした。この落とし穴に獲物が入った事を知らせるものだろう。
お守りまりさは、その落とし穴の淵にまで寄った。良く見ると、害獣捕獲用の檻型の罠が穴の中に縦に仕掛けられている。普通はこんな仕掛け方はしない。つまり明らかに、ゆっくりを捕獲するための物だ。
「ゆぎぎ……、はやくまりささまをたすけるのぜ!」
「まりさ、おちつけ!」
騒ぐ他愛のないまりさに、お守りまりさが一喝する。静かに、しかし強く言われたその台詞の迫力に、他愛のないまりさは静かになった。
急がないと人間が来るだろう事は分かっている。ただ幸いにして、檻の入り口はまだ閉まっていない。うまくやれば助け出す事が可能だ。少なくとも、このまりさを見捨てて自分だけが逃げるよりは後悔はしないだろう。
お守りまりさはそう思い、穴の淵で体勢を低くして踏ん張ると、自分のお下げを穴の中へと垂らした。
「つかまれ!」
それを聞いた他愛のないまりさは、檻の底から狙いを定めてジャンプする。そして、お守りまりさのお下げの先に噛み付くようにしてぶら下がった。
穴の中の方へとグイッと引っ張られるお守りまりさ。しかし、それを踏ん張る。踏ん張り切った感触で、よし、これで引き上げられる、と、彼が確信した時だった。
お守りまりさは何者かに背後から蹴られ、他愛のないまりさと共に穴の底へと落ちていった。
窓も無い殺風景な部屋。捕らえられた二匹のまりさは、それぞれが透明なアクリルの箱に入れられ、机の上に置かれていた。
箱は成体ゆっくり一匹がなんとか入るぐらいに狭く、彼らの帽子さえ縁が壁に当たって折れているほどだ。天井は空いているが、その床面積の狭さに比べて壁は高く、ジャンプで逃げ出す事もかないそうにない。かといって箱を倒して逃げ出そうにも、箱の底は奇妙な金具で机にガッチリと固定されていてビクとも動かない。
二匹が入れられている箱はお互いに一メートルも離れておらず、しようと思えば会話も可能だったが、まりさ達はむしろ、その部屋にたった一人居る男に向かって話しかけていた。
「ここからだすのぜ! まりささまを、ここからだすのぜ!!」
他愛のないまりさはひたすら叫んでいたが、お守りまりさの方は近くにその男が通り掛かった時だけ落ち着いて話し掛けていた。
「にんげんさん、ゆっくりおはなしをきいてね! まりさのおはなしを、ゆっくりきいてほしいよ!」
男が彼の言葉に動きを止める事はなかったが、それでもお守りまりさは男に聞こえるように話を続けた。
「もりのゆっくりたちはね、にんげんさんとなかよくしたいんだよ! だからまりさたちは、にんげんさんがどうしたいのか、ききにきたんだよ!」
その言葉自体に嘘は無かったが、男は聞いてはいなかった。というか、厳密には聞こえてはいたが、聞き流していた。
しばらく部屋の中を行き来して何かの作業をしていたらしい男だったが、やがてまりさ達の前で歩を止めた。そして手に持っていた白い箱を机の上に置くと、その中から銀色に輝く物を取り出した。
それは果物ナイフだった。森生まれ森育ちのまりさ達は、勿論それを知るはずもなかったが、未知の輝きを見るにつけ、漠然とした恐怖が心の中に湧き上がってきていた。
男は右手に持ったナイフの刃先を、左手の人差し指でなぞるようにしていた。
「つッ……」
不意に男が声を上げた。他愛のないまりさは、男の指先からその中身が流れ出しているのに気がついた。あの銀色の物体は、人間の体をも切り裂く事が出来るのだ、と気がつくに至って、それは自分達の体など簡単に切り裂けるのだろうと思うと、それまでの漠然とした恐怖が徐々に具体化してくるのだった。
「さて……」
男は指を口にくわえて血を舐め取ってから短く言うと、今度はその左手でナイフの刃をつまんで柄を下にすると、まりさ達が入っている箱の間にぶら下げるように持った。そしてそのまま柄を机面につけると、刃をつまんでいた指をパッと離した。
ほんの一瞬だけ不自然に立っていたナイフは、コトン、カラカラと音を立て、刃先をお守りまりさの方に向けて倒れた。
「お前の方か……」
薄笑いを浮かべながら言った男は、おもむろにお守りまりさの帽子を掴み、ポイと肩越しに後ろへと放り投げた。
「まりさの、おぼ……」
お守りまりさは、それでも辛うじて歯を食いしばり、言葉の残りを飲み込んだ。ただ、体の震えは隠す事が出来なかった。男は再びナイフを手にすると、お守りまりさの上にそれをかざした。
「ゆっくりしてね! にんげんさん、ゆっくりしてね!!」
お守りまりさは、男の尋常ならざる殺気を感じ取り、必死になってなだめようとしていた。ただ、ゆっくり史上の多くの場合と同じく、何ら状況を改善する結果とはならなかったが。
ナイフが一閃される。
「ゆぎッ……」
お守りまりさの目の脇がパックリと開き、中の餡子が覗いていた。彼の悲鳴は、それでも精一杯我慢した声だったのだろう。
「……安心しろ。目は傷つけん。目が見えなかったら、楽しみも減っちまうだろ?」
男はそう言って、お守りまりさを頭上から鷲掴みにし、徐々に力を込める。成体のゆっくりは片手に余るサイズだが、人間の力が掛けられて無事な訳もない。開いた傷口から餡子少しずつが絞り出されてくる。
「ゆ……ぐ……ぐ……」
いくら我慢しても、開いた傷口が意志でどうにかなるものでもない。
「やめるのぜ!」
お守りまりさの苦悶の表情に耐えられなくなった他愛の無いまりさが声を上げた。と、男が振り返る。
「お前も構って欲しいのかッ?」
そう言うなり、乱暴にナイフを振る。帽子のツバが裂かれた他愛の無いまりさは、恐怖のあまり声が出なくなった。
お守りまりさは男に再び鷲掴みにされ、そのまま箱の外へと引きずり出された。お守りまりさは、致死量ではないものの餡子を絞り出されて、ぐったりとしていた。
男はお守りまりさの、あるかどうかよく分からない胴に紐をきつく結んで抜けないようにした。
「おそら……」
少しばかり意識を回復したお守りまりさは、それでも反射的に言いそうになった台詞を抑えようと努力をしていたが、椅子の上に登った男は、天井の梁に紐の端を結ぶようにして彼を吊るした。そして、まるでゴム動力模型飛行機のプロペラを巻くかのように、その哀れなゆっくりの体を水平に回し続け、吊ってある紐をねじり上げていった。
回されている間、お守りまりさは目を回さないようにと必死だったが、吊っている紐が硬くたわみ始めるほどにねじり上げられた頃合で、男はその手を離した。
ゆっくりと、お守りまりさの体がさっきとは逆方向へ回転していく。いや、ゆっくりなのは最初だけだった。徐々に回転の速度が増すにつれ、彼の体は今まで経験した事のない不快感を感じていた。それが遠心力によるものだという事は彼が知る由もなかったが、それでも彼は薄れゆく意識を集中して体を堅くし、餡子を噴き出さないようにしていた。
しかし、回転速度が最高速に達しようかという頃、傷が大きく開き、そこから餡子が噴き出した。そして、それによって体の力を失ってしまったのか、お守りまりさは口と尻の穴からも餡子を噴き出しながら回転し続けた。
「ゆあ……あぁ……」
やっと声を出せるようになった他愛のないまりさの上に、お守りまりさの餡子が降りそそぐ。
回転が止まった時に紐の先にぶら下がっていたのは、かつてお守りまりさだった物だった。
他愛のないまりさの入れられた箱は、机の端の方へと移されていた。相棒だったまりさの死体は無造作に部屋の隅っこにあるゴミ箱へと捨てられ、あの男は既に部屋を去っていた。
まりさは自分がまだ生きている事を喜ぶ余裕は無く、目の前で相棒が惨殺された事に対するショックで放心状態だった。普段のゆっくりだったら大いに気にするだろうはずの帽子のツバの裂け傷さえも、忘れてしまったかのように呆然としていた。
ショックのあまりか、まりさは目眩を起こしてよろけた。背が壁に当たり、箱がグラリと揺れた。
ハッ、とまりさは気がついた。さっきまで箱は机に固定されていたが、移動された後、つまり今は固定されていないのではないか? だとしたら、この箱から脱出が出来るかも知れない。
彼は、自分の前の壁に体当たりしてみた。ガタン、と音がして、箱が揺れる。繰り返し、少しずつ強く体当たりを繰り返す。何度か目の体当たり、まりさなりにかなりの力を込めたその時、箱は大きく傾き、ついに横倒しになった。
箱が横倒しになったため、したたか顔面を打ちつけたまりさだったが、それでもすぐに箱から這い出てきた。
彼は部屋の中を見渡した。この部屋の唯一の出入り口であるドアが開いているのを見つけた。窓の無いこの部屋では、唯一、脱出が可能かも知れない経路だ。まりさはそっちへと動きかけたが、ふと思い立ち、机の上を歩いていった。
その目的は、あの白い箱。相棒の体を切り裂き、自分の帽子を切り裂いた、あの刃物が入ってる箱だった。あの銀色の物体は、人間の体さえも切り裂く事が出来る。これを持って行けば、きっといざという時に役に立つはず。まりさはそう思ったのだ。
とてもゆっくり出来ない状況にも関わらず、まりさの思考は恐ろしいほど冷静になりつつあった。それはむしろ、狂気に近いものだったのかも知れない。
自分が怪我をしてはたまらない。箱が勝手に開かないように慎重に、しかし無理矢理に、白い箱を帽子に詰め込む。奇妙な形に変形した帽子を被ると、その重さにバランスを崩しそうになったが、それをこらえて部屋の出口をうかがう。
帽子とその中身を落とさないように慎重に床まで降り、開いているドアへと向かう。もしそこが行き止まりなら、どの道、脱出はかなわない。まりさは祈るような気持ちでドアをくぐった。
その部屋には、もう一つのドアが有るものの、それは堅く閉ざされていた。ただ、部屋には窓が有り、その窓が開くなり、ガラスを破ることが出来るなりすれば、外へと脱出が出来そうだった。まりさには、ガラスを破る自信は無かったが、いずれにせよ窓の所にまで辿り着かなければ脱出の可能性はない。なんとか机の上に乗る事が出来れば、窓にまでは到達出来そうだ。
彼は部屋の中を見回した。そして床に置かれた何かの箱を見つけると、それを椅子のそばまで押し動かした。
重い帽子の中身にバランスを崩しそうになりながらも、まりさは箱、椅子、机と跳ね登っていった。
窓の際まで辿り着いたまりさは、祈るような気持ちで窓に触れてみた。
ガラガラ……。
窓には施錠されておらず、開いたのだった!
まりさは思わず上げそうになった狂喜の声を抑え、窓の外へと飛び出した。無様な着地のせいで跳ね飛んだ帽子とその中身を拾うと、まりさは森の方へと駆けていった。
ほうほうの体で脱出したまりさは、疲れ切った体を引きずりながらも森の群れの住処まで辿り着いた。
迎えた長まりさ達はその様子から、命からがら脱出してきたのだろうとすぐに分かったが、中でもぱちゅりーと共に迎えたれいむは、あのお守りまりさが死んだのだろうと直感し、唇を噛んだ。れいむはそれ以上は表情には出さないようにと思ってはいたが、察したぱちゅりーはれいむを気遣っていた。
実際、まりさが持ち帰った情報は殆ど無かった。害獣として捕らえられ、人間とのコミュニケーションも殆ど無く、ようやく逃げ帰っただけなのだから、それ自体は仕方のない事なのだが、その代償として優秀なまりさ一匹を失った事は痛かった。
長まりさから帽子のツバの裂け傷を気遣われると、その傷を与えられ、相棒のまりさが殺された事を苦々しく思い出したまりさだが、帽子を脱ぎ、その中に押し込まれている白い箱を取り出さねばならない事も思い出した。
帽子に無理矢理押し込んだ箱を取り出す事もまた、それほど楽な仕事ではなかったが、まりさはなんとかそれを取り出すと、箱を開けて中身を誇らしげに見せた。
「むきゅ? これは……、はものさん?」
人間との生活が長かったぱちゅりーは、勿論それが何なのかは知っていた。そこには、小型ではあるが、数本のナイフや包丁が入っていたのだ。
「これをつかえば、にんげんさんのからだを、きりきざめるのぜ! にんげんさんとたたかって、かてるのぜ!」
まりさは、半ば狂気の表情でその武器の威力を熱弁していた。目の前で相棒を殺された彼の心に、人間に対する過剰な敵愾心が渦巻いているのは仕方のない事だったが、それが危険な事であるというのも、長ありすやぱちゅりーには分かっていた。
ましてや、害獣として捕らえられた以上は、殺されても仕方はないという事も彼女達は知っていたのだ。
そして、ぱちゅりーは、この『刃物』というゆっくり達にとってのオーバーテクノロジーが、かえって群れに危機をもたらすのではないかと、漠然とした不安を感じていた。
彼女達は、人間への怒りによって疲れも忘れ興奮するまりさをなんとかなだめ、床につかせた。ただ、長ありすは、残酷な言い方をするなら、このまりさが生きて戻ってきた事自体の方がむしろ群れに悪影響をもたらすのではないか、と心配していた。
彼が無事に帰ってきて欲しくないなどとは、ほんの少しも考えた事は無かったのに。
人間の元へ向かったまりさが殺された事が知れると、群れのゆっくり達は色めき立ち、人間との対決機運が高まっていった。勿論、長ありすはそれが馬鹿げた事だと思ってはいたが、それを少しでも長く抑えるには別の手段が必要だと感じていた。
長はゆっくり達が『広場』と呼ぶ場所に群れのゆっくりを集めた。この広場はとある洞穴にあり、人間でも何十人かが楽に入れるほどの大きさだった。ゆっくりにとっては
『大ホール』とでも言えるような場所だ。その中に群れの殆どのゆっくりが集まっていた。
「みんながにんげんさんをにくむきもちは、よくわかるわ」
長ありすは、群れのゆっくり達に向かって声を上げた。
「でも、たたかいになれば、おおかれすくなかれ、わたしたちもきずつくことになるわ。そんなのは、とかいはじゃないでしょう?」
ざわついていたゆっくり達が、少しだけ静かになった。
「だから、もういちどだけ、にんげんさんとおはなしをするきかいをつくりたいの。おはなしでかいけつすれば、もうだれもきずつかないですむわ」
再びざわつき始めたゆっくり達を静かにさせるため、彼女は語気を強めた。
「こんどは、おてがみをにんげんさんにとどけようとおもうの。それのおへんじがとどくまで、……そう、みっかだけみんなもまってほしいの」
周りのゆっくり達は気がつかなかったかも知れないが、長ありすの表情は明らかに曇っていた。
「そのおてがみを、とどけるやくめは……」
長がその台詞を言い始めると、広場は静まり返った。誰かが指名されるとでも思ったのだろうか。
そんな危険な役目に立候補するゆっくりはそうそういないだろうし、立候補するようなゆっくりは、そんな役目で失いたくない優秀なゆっくりだろう。だから自分がその役目をやるべきだろう、と、長ありすは思っていた。
が、よく通る声が長の台詞の続きを遮った。
「わたしがやるわ」
皆の視線が、声のした方へと集まった。そこから前に出てきたのは長の娘のありす。二匹姉妹の姉の方だ。
もう立派な成体で、将来は今の長に負けず劣らずのリーダーシップを発揮するだろうと、群れの誰もが期待している賢いありすだ。
「……そうね。あなたにまかせるわ。……あしたのひるの、はやいうちにとどけてね」
長は一瞬顔をこわばらせたが、静かにうなずきながら言った。
長が『昼の早い内』と時間を指定したのには訳が有った。
人間は野生のゆっくりにとっては危険な存在だが、それでも大人が特に理由もなくゆっくりを殺す事はそれほど多くはない。むしろ子供、それもある程度成長した子供が一番危険なのだ。
長は経験上、そんな子供達に一番見つかりにくい時間帯が昼の早い内だと知っていたのだ。
任命を受けて、誇らしげな顔で戻ろうとするありすを、親友でもあるぱちゅりーが引き止める。と、ありすはわざと周りに聞こえるような大きな声で言った。
「こんなとかいはなおしごと、わたしにふさわしいでしょう?」
「ありす、わかってるの? しぬかもしれない……、いえ、ほぼまちがいなくころされるようなしごとなのよ?」
ぱちゅりーが押し殺したような低く小さい声で言うと、ありすは一瞬、厳しい顔つきになった。
「ぱちゅ、いまありすができることは、これぐらいしかないのよ……」
ぞっとするほど静かに言われたありすの台詞に、ぱちゅりーは彼女の覚悟を感じ取った。そして、彼女が細かく震えているのを見て、それ以上は何も言えなかった。
その夜、ぱちゅりーは自分の巣穴にこもり、人間に宛てる手紙を書いていた。長ありすに頼まれた物だ。この森においてはとても貴重な白い紙に、それはそれは慎重に文をしたためていた。その紙は、彼女がかつて人間の集落から森に戻るときに持ち帰り、その後も大事に取っておいた物だった。
その手紙は言わば最後通牒ではあったが、これの出来がそれを届けるゆっくり──親友のありす──の命にも関わるかも知れないと思えば、慎重に渾身の文章を作らざるを得なかった。
それの文脈は単純だった。かいつまんで言うなら、『森のゆっくりが人間の邪魔になるなら退去するので、引越が終わるまでの間だけ待ってください』という事だ。
それでも彼女は、自分の全知全能を傾けて文を綴っていった。意味の取り間違いが起きないように何度も推敲した文章を、人間の大人が十分に読みやすいようにふんだんに漢字を使って書き記していった。それは少なくとも、この群れの他のどのゆっくりでも出来ない事だった。
そうして書き上げられた手紙は、人間の書いた文章と比べても遜色が無いと言える物だった。
長ありすは今はもう成体となった娘達とは別々に暮らしてはいたが、その晩のご飯だけは久しぶりに長の巣穴で一緒に摂った。
三匹揃っての食事はそれが最後になるかも知れないと全員が理解してはいたが、誰もその話題は出さず、多少の不自然さはあったものの努めて明るく食事を楽しんでいた。
長ありすの娘達が各々の巣穴に帰ってからしばらくした頃、書き上げた手紙を渡すため、ぱちゅりーが長の巣穴を訪れた。
彼女は、奥の壁を向いたままの長の背中に声を掛けた。
「おてがみさん、できたわよ」
「ありがとう。さすがはとかいはなぱちゅりーね」
背を向けたまま答えた長の声がわずかに震えているのに、ぱちゅりーは気がついていた。恐らく泣いているのだろう。当たり前だ。娘を死地に送り出さなければならない親が、悲しくない訳がない。ただ、そこまで覚悟を決めている親子に、ぱちゅりーが掛けられる言葉もまた、無い。
「……じゃ、ここにおいとくわね」
ぱちゅりーは丁寧に折り畳んだ手紙をそっと置き、長の巣穴を後にした。長ありすもまた、自分が泣き顔を見られたくないという事をぱちゅりーが察してくれた事を分かっており、無言の内に感謝していた。
朝やや遅く、手紙をたずさえたありすが出発するのを、長……と言うより母と妹のありす親子と、参謀のぱちゅりーとその補佐のれいむが見送りに出ていた。
「みっかたってももどらなかったら、しんだものだとおもって。いきていたら、そのまえにかならずかえるし、それいじょうまっても、むれのみんながなっとくしなくなるだけでしょうから」
手紙をしまったありすは、言っている内容に関わらず、ひどく軽い調子で言った。それは勿論、見送る彼女達に極力心配を掛けないようにとの心配りであり、自分の仕事の重要性を理解していないという訳では、決してなかった。
「わかったわ。……がんばってね」
他にも色々な言葉を掛けられたような気もするが、ありすは母から最後に言われたその言葉しか覚えていなかった。言葉を覚えていなくても、思いは伝わっていたが。そして、必死に涙をこらえる妹の表情も忘れられなかった。
ありすは、人間の集落を目指した。
まりさが人間に殺された事が知れ渡って以来、群れのゆっくり達の殆どは、引越の準備よりも人間との戦いに向けた準備を急ぐようになっていた。
生還したまりさが持ち帰った刃物だけでは、勿論、群れのゆっくりには行き渡るはずもなかったが、それでも殆ど全員が何らかの得物を持つようになっていた。それは、
『宝物』として持っていたか、あるいはつい最近どこからか拾ってきたであろう物で、錆びた釘やらナイフだったり、時間を掛けて磨いて刃物のようにした硬貨やら石だったり、それさえも手に入らない場合は、昔ながらの木の枝だったりした。
刃物を得物として使う場合の心得も広まっていった。
旧来の木の枝を武器とする場合は主に突く事しか出来なかったので、口にくわえた状態で硬い物に当たった場合は自分の口内に刺さって自滅する事があった。
しかし、ナイフや包丁といった刃物を使う場合は相手を斬る事が出来るので、口から横にくわえた状態で敵の横をすり抜けるようにして攻撃する事が出来る。つまりこうする事によって、自滅する危険性を減らす事が出来る。こうした刃物の使い方が広まっていったのだ。
もっとも、そうした戦いの準備は、長ありすやぱちゅりーが薦めていたものではなかった。そもそも彼女達は、ゆっくりが人間にまともに戦いを挑んで勝てるとは露ほども思ってはいなかったのだから。
子供達の笑い声が響いている。
日曜の昼早く。村のはずれ、川の近く。
ゆっくりありすであったろう物体が転がっていた。
村の子供達に捕まり、サッカーボール代わりに蹴りまくられたそれは、中身のカスタードクリームをぶちまけ、全く原型を留めていなかった。
「あぁもう、うだら汚れちったさー」
一人の子供がカスタードクリームで汚れた靴を洗おうと川の中へと入っていくと、それに何人かの子供が続く。
「これ、投げんでいいん? ゴミ放っておくと怒られるっしょ? あれ……?」
そんな中、ゴミとなった物体の始末を心配していた一人の子供が、そのカチューシャの下に挟まれていた紙を見つけた。
「なんじゃこりゃ?」
その子供が折り畳まれていた紙を広げようとすると、川から戻ってきた一人の子供が鮮やかに奪い取って広げ、視線を落とした。
「んー……、ムズコい漢字ばっかで、さっぱ分からんべや……」
その子供は、不愉快そうな顔をすると、手早く紙を折り始めた。
「したっけ、こうじゃ!」
乱暴に投げられた紙飛行機は、それほど飛ばずに川に落ち、そのまま流れていった。
「はんかくせー!」
子供達の笑い声が響いている。
結局のところ、人間に手紙を届けに行ったはずのありすは、その期限の三日の内には戻らなかった。それは喜ばしい事実ではなかったが、非情な言い方が許されるなら、三日の期限を切った事は不必要な苦悩の時間を延ばさずに済んだという事でもあった。
期限を過ぎた事で、群れのゆっくり達の人間に対する敵愾心は既に抑えが利かない状態になりつつあったが、ぱちゅりーはそれでも、ありすが無事に帰ってくればという希望を抱いていた。
ただ、どちらかと言えば、群れのゆっくり達を抑えるためというより、ありすを独りで手紙を届けにやった事への悔恨によってであったが、ぱちゅりーはありすを探す事にしようと決めた。
「やるかいがないかもしれない、きけんなおしごとよ。それでも?」
ありす探しに同行したいと言うれいむに向かってぱちゅりーは言ったが、れいむは顔色一つ変えずに答える。
「れいむはね、ぱちゅのおしごとをてつだうようになったときから、きめていたの」
そして、ぱちゅりーの顔を真っ直ぐに見て続けた。
「あなたとならば、どこまでも」
切迫した状況にも関わらず、なんだか気恥ずかしくなったぱちゅりーは、苦笑を浮かべるしかなかった。
それでも無断ではありす探しに出ようとしなかったぱちゅりーは、長ありすの元に許可を求めに行った。
娘を探しに出る事自体への親としての本心はどうだったかは確かではないが、その可能性の低さの割に危険の大きい任務にぱちゅりー達をあてがう事に対しては、長として許可する事は出来なかった。
ただ、ぱちゅりーも頑として引かなかった。最後のわがままを聞いてほしいと言う彼女に対して、それならばせめて何らかの援護をしたいと思った長ありすは、邪魔にならない程度に何匹かのお供を連れて行く事を条件に、彼女の願いを許可する事にした。
多くのお供を連れ歩いて賑やかに実行出来るような任務ではないので、長ありすは、彼女が最も信頼するゆっくりの内の二匹だけ、まりさとありすをお供としてあてがう事にした。
長が許可を出す事に対する交換条件ではあったが、ぱちゅりーは恐縮してそのお供を賜った。そしてその優秀なお供は、実際にぱちゅりー達の助けとなった。
期限切れの日の宵の口、ぱちゅりー達四匹は住処を後にした。
一夜明け、群れのゆっくり達は出撃準備が整っていた。長ありすは勿論、そんなものは実際にはままごと程度の物だとは思っていたし、いずれにせよ人間とまともに戦って勝てる訳もないとは思っていた。
ただ彼女は、これ以上群れのゆっくり達に自制を求めても、その人間に対する憎しみが、自分を含めた群れの内部に対する不満に変わり、群れが内部から崩壊するであろう事も分かっていた。
そこで仕方なく、長は『出撃』する事にしたのだ。実際に人間との戦いになったら、最悪の結末を迎えるだろう事は想像に難くない。ただ、その『出撃』が『ちょっとした遠出のお散歩』で終わってくれたら、という希望もわずかには持っていた。
もう一つ、長ありすは最悪の事態を想定して、策を講じていた。子ゆっくりと赤ゆっくり全員、そして、その子守役の十数匹のゆっくり達を、住処に残していく事にしたのだった。勿論、本気の戦いとなれば、幼いゆっくり達は邪魔になるし、危険に遭わせるわけにもいかない。ただ、この場合は、そういった理由を付ければ納得して残るゆっくり達もいるだろうし、恐らく全滅するであろう人間との戦いになったとしても、残された彼らは戦いと関わり合わずに生き延びてくれるのではないか、という考えの方が大きかった。
洞穴広場に幼いゆっくり達と子守役を残してはいたが、その入り口前にその他のゆっくり達は集まり、大きな集団となっていった。そしてそのゆっくり達は、各々が武器を携えていた。
麗かな陽気の日の朝、それにそぐわない殺気立ったゆっくりの集団が、人間の集落へと向かって動き出した。
ぱちゅりー達は夜の内に人間の集落へと忍び込み、行方不明となっていたありすの捜索をしていた。四匹で交互に仮眠を取りながらも一晩中探していたが、それでも全く、手がかりさえも見つからなかった。
明るくなるにつれ、人間との接触の危険を避けるために徐々に人家からは離れていったが、それでもぱちゅりー達の捜索は続いていた。
「にんげんさんよ!」
朝になり、彼女達が人家からやや離れた草むらを探っていた時、周りを見回していたありすが、小さく、それでもぱちゅりー達全員に聞こえるように、強く叫んだ。と、四匹全員が草むらで体勢を低くして隠れた。
あ、流石だ、と、ぱちゅりーは思った。普通のゆっくりは、こう咄嗟に物陰に隠れ、一言も発さないなどという事は出来ない。言ってみれば、それぐらい間抜けな生物だ。しかし、自分とれいむはともかく、お供のまりさとありすも見事に隠れているのだ。まりさに至っては、言われるまでもなく帽子を脱いで背を低くしている。よほど『訓練された優秀な』ゆっくりでないと、こうはならないだろう。
彼らはそれまでも良く働いてくれてはいたが、長ありすがこの二匹をお供につけた理由が一段とはっきり分かり、不謹慎だとは思ったが、ぱちゅりーは少しばかり愉快な気分になった。ただそれと同時に、この優秀なゆっくり達は自分の身を犠牲にしてでも生きて帰さなければならないとも思っていた。
と、ぱちゅりーの目には、ありすが見つけた人間達の姿が映った。それは、どうやら森の方へ向かおうとしている三人の男達だったのだが、その中の一人が銀色の箱のような物を持っているのに気がついた。
ぱちゅりーは、その箱のような物に見覚えがあった。『ビデオカメラ』とか言ったはず……。人や物の動きを記録できる物だ。
あの男達は何をしようとしているのだろう? 一体、何をしに森へ向かっているのだろう? 言いようのない不安が、スコールの黒雲のようにぱちゅりーの心に広がる。ただ、群れの本隊は、あの聡明な長ありすが率いている。きっと大丈夫だ……。ぱちゅりーはそう思い込む事によって、自分達の任務に集中しようとしていた。
人間の集落へと向かって進むゆっくり達。長ありすにとっては憂鬱なその進軍は、中にはピクニック気分の暢気なゆっくりもいるのだろうが、その規模も相まってそれほど静かなものでもない。人間達にいつ見つかってもおかしくない状態だったが、住処からはそこそこ離れたと言えるほどに進んだ頃、人間に遭遇する事になった。
そこに現れた人間達は、三人の男だった。先頭の男が家庭用の小さなビデオカメラを構えているのを除けば、いずれも素手のようだった。
男達と対峙したゆっくり達は、それでもまだ長ありすの制御によって沈黙を保っていた。群れのゆっくり達は既に、人間達と戦うものだと思っていたが、長は人間との戦いになれば間違いなく群れは壊滅すると知っていた。それ故、最後まで人間との戦いは避けようとしていた。
「にんげんさん、おはなしがあるわ」
長ありすは、努めて静かに話を始めた。これからする話次第で群れの運命が決まるかも知れないと思えば、慎重に話をせざるを得なかった。
「にんげんさんが、なぜもりにかべさんをたてているのか、おしえてほしいの」
長ありすの声に男達は誰一人、そして何も答えない。
「もりのゆっくりが、にんげんさんにめいわくをかけたのなら、それはあやまるわ」
ゆっくり達は、何故そこまで長が人間達に対して下手に出るのかが理解出来ず、不快な思いをつのらせていた。勿論本来なら長自身のプライドも傷つくものだったが、群れのゆっくり達の命が助かるならば、その程度の代償は取るに足らないと彼女は思っていた。
「だから、にんげんさんがわたしたちになにをのぞんでいるのか、おしえてほしいの」
男はまだ無言のまま、ビデオカメラを向けたままだった。
一瞬の静寂。と、人間からの答えが無い事に苛立った一匹の若いまりさが、怒声を上げた。
「なんとかいったらどうなのぜ?!」
ビデオカメラがその方向へと向く。
「まりさ、やめなさい!」
長の声も、いきり立ったまりさを止める事は出来なかった。次の瞬間、そのまりさは口にしたナイフを振りかざし、ビデオカメラを構えている男に飛び掛っていた。
ゆっくりの突進を避ける事など簡単な事だったろうが、その男は避けるというほどには避けなかった。ただ冷静に、そのナイフが自分のデニムのズボンに切り傷を付ける様子をビデオカメラに収めていた。
と、その男は、他の二人の男の方を振り返ってうなずき合うと、やはり無言のままゆっくり達に背を向けて走り出した。
「にんげんさんが、にげだしたのぜ!」
誇らしげにナイフを掲げたそのまりさの声を聞き、ゆっくり達は勝どきのような声を上げていた。彼らはその『勝利のようなもの』に酔いしれていたが、長ありすは最後の交渉が決裂してしまった瞬間だと認識し、それまで抑えていた体の震えが止まらなくなっていた。
熱狂するゆっくり達の渦の中、長ありすは娘──帰ってこなかった娘ありすの妹──を呼び寄せ、手早く二言三言伝えると、ぱちゅりー達がいるであろう方へと走らせた。
人間に対する勝利に沸くゆっくり達は、最早、長の制止さえまともに聞かないほどに士気が上がり、集落へ向かってと歩を進めていた。
そこにはハーメルンの笛吹きが居るだけだというのに。
ぱちゅりー達の元へありすがやってきた。伝令として遣わされた長の娘のあのありすだ。よほど急いで走ってきたのか、あるいは、ぱちゅりー達を探すのに手間取ったのか、おしゃれなありすとは思えないぐらいに泥だらけだ。足にも自信があったはずの彼女だが、表情にも疲労の色が浮かんでいる。
「ありす! だいじょうぶ?」
心配したぱちゅりーが声を掛けたが、ありすは構わず伝令の任務を遂行した。
「おさたちは、にんげんさんたちとあったわ。でも、こうげきされたにんげんさんが、にげていってしまって……」
「むきゅ? なぜ? おさはわかっているはずなのに……」
ぱちゅりーはれいむと困惑の表情の顔を見合わせた。
「こうふんしたゆっくりが、にんげんさんにおそいかかってね……」
ありすが苦々しげに言ったところで、ぱちゅりーははたと気がついた。人間の大人達はそう安易にゆっくり達を殺したりはしない。ただ、ゆっくりが人間に害をもたらしたとなれば別だ。遠慮なく害獣として駆除する。ましてや、刃物を持ったゆっくりが人間を襲ったとなれば……。
そして、さっき見た光景──人間がビデオカメラを持っていた──を思い出し、目眩のような感覚と共にある結論に辿り着いた。人間達の挑発的な行動から、ゆっくり達に攻撃させる事までの全てが、人間達の罠だったという事に気がついたのだ。無念と共に襲い来る吐き気は、恐らく彼女が並のぱちゅりーだったら抑える事が出来なかっただろう。
「あと、ぱちゅ。おさからあなたに、でんごんがあるわ」
そこから後は、絞り出すような声になってありすが言った。
「『あとはたのむ』と……」
そこまで言ったありすの目からは、ボロボロと大粒の涙が流れ始めた。恐らく、長ありす、いや、母ありすが死を決意しているのが分かっていたからだろう。
「ありす……」
ぱちゅりーとれいむが優しく体を寄せようとすると、ありすは一瞬だけ後ろを向いた。その短い間に彼女の涙が乾く事はなかったが、前に向き直った時には、もう既に涙は止まっていた。
精神的にかなりまいっていたはずだが、最悪の事態の中でも最善の行動を探っていたぱちゅりーの判断は、それでも早かった。
「ありす。わるいけど、もうひとしごと、してくれるかしら?」
「はい?」
ありすの答えは疑問のニュアンスを含んでいたが、それはぱちゅりーの判断への疑問ではなく、ぱちゅりーの命令を間違いなく聞こうという意志の表れだった。
「これから、すみかさんにもどって、のこっているゆっくりたちに『たべものさんをもてるだけもって、おちびちゃんたちをつれてにげて』とつたえて。なるべくにんげんさんたちのむらから、はなれるようにね。わたしたちも、あとからいくわ」
ぱちゅりーの言葉を聞いて、ありすは静かにうなずいた。
「わかったわ。まかせておいて」
「つかれているのに、わるいわね……」
ぱちゅりーが、自分ではどうにもならないありすの体の事を案じて声を掛けると、気を使わせまいとしたありすは、いつもの高飛車な表情を作ってみせた。
「まらそんさんは、とかいはなすぽーつなのよ。もんだいないわ」
心身共に疲れているはずのありすは、それでも普通のゆっくりよりは遥かに速いスピードで駆けていった。
「おさのこは、みんないいこにそだったわね……」
小さくなっていくありすの背中を見ていたぱちゅりーがつぶやいた。それを聞いていたれいむも、優しい顔でありすの背中を見ていた。
「あのおさのこたちですもの」
ゆっくり達の住処からは大分遠くはなったが、それでも人間達の集落には届かない小高い丘。長にさえ制御が困難になった興奮状態のゆっくり達の前に、人間の集団が姿を現した。
彼らは総勢十数人だったが、ゆっくり達にとっては、『自分達よりはるかに少ない』としか認識出来ない。興奮状態でなければもう少しはまともな判断が出来たかも知れないが、今の彼らには個体の戦力差なぞ考えられるわけもなく、『さっき人間に勝ったんだ。今度も負けるはずはない』と、間違った根拠の元に人間に勝てると思っている無謀なゆっくり達と化していた。……ただ一匹、長のありすを除いては。
人間達は手に手に道具を持っていた。四本鋤や銛のようなもの、大きなトングやハンマー……、まちまちではあったが、そのいずれもがゆっくり駆除を目的として持ち出された物であろう事も明らかだった。
彼らは、台車に乗せた自動粉砕機も運んできていた。大規模なゆっくりの駆除には、こうした粉砕機が使われる事が少なくない。
脆弱な体の割になかなか死なないゆっくりという生物は、その最中に人間の言葉で騒ぐ事が駆除における最大の難点である。
一般に大量駆除の場合は、袋に詰め込んで収集し、その後にまとめて殺処分する事が多いが、ゆっくりにそれを行うと、袋に詰め込んだゆっくり達が延々と泣き叫び、悪態をつき、懇願をする状態が延々と続く。鳴き声のようなものだと分かっていても、人間の言葉で発せられるそれは、駆除人の精神衛生にとっては良いものではない。
ゆっくり達に騒がせないようにするには、一気に潰して即死させるのが一番だが、それはそれで周囲が汚れ、その後始末が面倒になる。
そこで、粉砕機が使われるようになったのだ。ゆっくりを粉砕機に放り込んでしまえば、周囲を汚す事もなく処分が出来るからだ。勿論その瞬間、聞くに堪えないゆっくりの悲鳴がする事もあるが、延々とゆっくり達の『鳴き声』を聞き続けるよりは遥かにマシだろう。
長ありすは元より、人間達と戦って勝てるとは思っていない。群れ全体が興奮状態となり、自分の制御がまともに利かなくなった時点で、破滅へ向かっているのも分かっていた。ただ、暴走する群れを救う手段が何か無いか、最後まで考えてここまで来たし、たとえ救う事が出来なくても、最期まで長である自分が群れと共に居るべきだと思っていた。
このまま人間達と戦えば、まず間違いなく群れのゆっくり達は全滅するだろう。逃げてくれれば、全て助かるとは思えないが、それでも何匹かは生き残ってくれるかも知れない。ただ、人間達に勝利する事を盲信している群れのゆっくり達が、自ら逃げ出すとはとても思えない。
思えば、この群れのゆっくり達は、長い間ゆっくりし過ぎていたのだ。長い間、人間と接触をしないでゆっくりしていたため、人間の恐ろしさを知るゆっくりが殆どいなくなってしまったのだ。それが今の盲信につながっていた。
長ありすは、このゆっくり達が逃げるきっかけと成り得る最後の可能性を考えていた。彼らは自分達が人間達に勝てると思っているから、逃げようとしていない。ならばもし、たとえば長である自分が人間に殺されれば、旗を巻くのではないかと。そう考えた長ありすは、最期の賭けに出た。
長ありすは群れのゆっくり達を押し留め、自ら独りで人間達の方へと跳ねていった。彼女の思いも知らず、どんなに見事に人間をやっつけるのかと他のゆっくり達は期待していた。
「ゆぐっ!」
それが長ありすの声だという事には気がついたものの、ゆっくり達には一瞬、何が起こったのかが理解できなかった。一人の男が持つ四本鋤が長ありすの体を貫通しているのだと彼らが認識しきるより早く、串刺しの彼女の体は宙を舞い、そのまま粉砕機へと放り込まれた。
「ゆぎいぃっ……!!」
意識さえも粉砕される直前、長ありすは悲痛な悲鳴を上げた。しかし、本来なら彼女は、そんな事で悲鳴を上げるような弱いゆっくりでもなかった。ただ、自分の悲惨な死を群れのゆっくりに印象付けて、彼らが逃げ出してくれればという、彼女なりの最後の策だった。結果はどうあれ、彼女は最期の瞬間まで立派な長だったのだ。
ゆっくり達の時間が一瞬止まった。いや、一瞬、何が起きたのか認識出来なかった。認識出来ていたとしても、意識がその事実を拒否しようとしていた。だが、その恐ろしい事実は、正に目の前の真実だった。
長が、や、ら、れ、た、……!
長ありすが命を賭した策は、しかし失敗に終わった。あるゆっくりは怒りのあまりに自暴自棄に突進し、あるゆっくりは絶望のあまり脱力し、あるゆっくりは恐怖のあまり硬直していた。ただ、まともに逃げ出そうとするゆっくりはいなかった。それは群れから離れる事の不安によるものも有ったのかも知れないが、いずれにせよ結果は、その丘で死ぬゆっくりの数を減らせなかっただけだった。
人間達に向かって突進していったゆっくりの多くは、人間に触れる事さえ出来ずにハンマーで叩き潰されたり、踏み潰されたりした。ちょこまか避けようとしたゆっくりもいくらかはいたが、それでも四本鋤で地面に刺し止められてから潰されるだけだった。
運良くその足に刃物で斬り掛かれたゆっくりも、対策としてズボンの下に脛当てをしているであろう人間にはさして威力無く、また、ゆっくりごときの動きが人間に何度も通用するはずもなく、二度は触れる事が出来ずに死ぬだけだった。
一方で脱力したり硬直して動けなくなっているゆっくり達は、全く事務的に処理されていった。四本鋤や銛のような物で刺されたりトングで掴まれたりしては、持っていた得物は簡単に奪い取られて回収箱に放り込まれ、ゆっくり本体は粉砕機に放り込まれた。
粉砕機を中心に、丘のあちらこちらで上がるゆっくり達の悲鳴は、その他のゆっくり達をより恐怖させ、硬直させ、人間達の作業を捗らせるだけだった。
ぱちゅりー達が洞穴広場に戻った時でも、まだ何匹かのゆっくり達──子ゆっくりと赤ゆっくりを含む──と先に着いていたありすがまだそこに居た。
「あぁ、ぱちゅ……。ごめんなさい。まだ、どうしてもここをうごきたくないっていうゆっくりたちがいて……」
「おつかれさま。だいじょうぶよ。あとはわたしたちが……」
それがありすの失策ではない事を十分知っていたぱちゅりーは、労をねぎらう声を掛けたが、その間にもれいむは、残っているゆっくり達に向かって厳しい表情で、厳しい口調で怒鳴った。
「あなたたち! ありすにいわれたことがわからないの? おちびちゃんたちをつれて、たべものさんをもって、でていくのよ!」
普段、温厚で物腰の柔らかいれいむがひどく怒っているのを見て、それまでざわざわと騒いでいた残りのゆっくり達は凍りついた。他のれいむ種ならともかく、このれいむがこれほど厳しい態度を取ったのを見た事など、それまでのゆん生で一度も無かったのだろうから、それも無理もない話だった。
「ゆっくりいそいで!」
畳み掛けるように続けたれいむの言葉で、それでも渋々、ゆっくり達は準備を始め、そして広場を後にしていった。
ぱちゅりー達に同行していた二匹を含めた他のゆっくり達を送り出し終わる頃、ぱちゅりーはありすに向かって言った。
「ありすも、はやくにげなさい」
彼女がその台詞を言うのを予測していたかのように、ありすは即座に聞き返した。
「あなたたちは?」
「あとからいくわ」
ぱちゅりーの答えに、ありすは少しばかり口元を歪めた。
「そう……。わかったわ」
ありすは微妙な間と調子でそう言い、入り口で一度だけぱちゅりー達の方を振り返ると、そのまま去っていった。
「うそつきね。ありすもわかっているはずよ」
ありすを見送り、二匹きりになってから、れいむは小声で言った。が、ぱちゅりーはそれには答えず、少しばかり強い調子で言った。
「れいむも、はやくいきなさい」
「ぱちゅは、ここにのこるんでしょ」
さっきとは全く違う穏やかな顔でれいむが言うと、ぱちゅりーも穏やかに言った。
「……わたしには、さいごをみとどけるせきにんがあるの。……れいむは、まだしぬべきじゃないわ」
れいむは美しくも儚げな微笑をぱちゅりーに向けた。
「いったでしょ。『あなたとならば、どこまでも』って……」
ぱちゅりーはクスッと笑った。恐らく、乾いた笑いだったろうが。
その丘にいたゆっくりは、三種類のゆっくりだけだった。粉砕機に入れられ、既に原形を留めないもの。地面上で潰され、既に絶命しているもの。体皮を裂かれ、瀕死の状態で横たわるもの。
餡やクリームで染まったその丘の唯一の例外は、あのまりさだった。
「あぁ、あの時のゆっくりか……」
近寄ってきた男の内の一人が、まりさの帽子のツバの裂け傷を見つけて言った。ナイフを口で構えたままのまりさがその男の顔を見上げると、意識がそれを誰なのか認識するより先に、ナイフと歯がカチカチと音を立て始めた。
あの臆病な……、いや、勇敢な相棒まりさを殺した、あの男だった。
「おまえはぁ……!」
まりさの震えた声を、男のいささか軽い調子の声がさえぎった。
「お前が最後まで残っていたとはな。……いや、お前には感謝してるよ。よく働いてくれたもんだ」
「ゆ……?!」
まりさは男の言っている意味が分からなかった。その様子を察した男は、薄ら笑いを浮かべた。
「分からないか? ま、お前に理解出来るかどうか分からんが、冥土の土産に教えてやろう」
男は冷ややかな調子で続けた。
「実はな、ゴルフ場建設の話が持ち上がってな。この辺りの土地を整地しないといけなくなったんだよ。ただ、私有地とはいっても自然に手を入れるとなると、色々と周りがうるさくてな」
まりさは『ゴルフ場』が何を意味しているのかは知らなかったが、話自体を概ね理解するのには問題はなかった。男は苦々しげな表情に変わった。
「特に、動物愛護団体の連中とかがな。ま、他の動物達は、別に居ても困らんし、嫌ならば勝手に逃げるだろうから問題は無い。問題なのは、お前らゆっくり共だ。何かというと人間に楯突く。自分らの立場も能力も考えずにな。だから、この森からとっとと駆除しちまいたかったんだ。しかし、駆除するとなると、動物愛護団体の連中がうるさいんだ。連中は現実のゆっくり共がどんなに厄介かなんざ、知らんし気にもしないからな」
そこまで話すと再び、男の表情は薄ら笑いになった。
「しかしな、刃物を振り回して人間を襲う害獣となれば、話は別だ。そんな危険な害獣を駆除する分には、流石の動物愛護団体もそうそう文句は言ってこんさ」
まりさにはまだ話の核心は見えてこなかったが、漠然とした恐怖によってその体の震えは大きくなってきていた。男は薄ら笑いのまま、今度はまりさの顔をしっかりと見据えて話し続けた。
「お前は実に良く働いてくれた。いや、期待以上だったよ。うまい事逃げ出したと思ったのか? 誰にも後をつけられなかったとでも思ったのか? 全く餡子脳だな。いや、怒るなよ。ほめ言葉さ。お陰でお前らの巣穴が集まってる場所も分かったしな」
男はほんの少しだけまりさに近づいた。まりさの震えは止まらない。
「仲間を殺されたゆっくり共が逆上して、人間を襲撃するところまでやってくれればこっちとしては御の字だったんだが、まさか刃物を使うところまでやってくれるとはな。本当に見事に、こっちの計画通りにやってくれたよ。……あぁ、まだ巣穴には何匹か残ってるのか? 安心しろ、そいつらもそろそろ片付いてる時分だ。……お前には感謝してるよ。餡子脳のゆっくり君よ」
まりさは何時の間にか、口にくわえていたはずのナイフを取り落としていた。体の震えどころか、目からあふれ出る涙も止まらなくなっていた。
自分の身に危機が迫っているための涙ではなかった。群れのために命を賭けて働いたはずなのに、たとえ人間の計画にはめられたとはいえ、それは結果として群れのゆっくり達を皆殺しにしてしまった。その後悔が涙を流させていた。
あの時から、悪夢のシナリオに乗せられてしまっていた。
きっと、自分さえ生きて戻らなければ、この悲劇は起きなかったはず。
ちっぽけな自分の命など、あの時に捨てていれば良かった。
ゆっくりしていたあの群れは、今やこの丘を覆う汚物となってしまった。
うらむ相手は、自分自身なのか?
いくら後悔しても、それはもう遅い。
「……にんげんさんは……」
まりさは、ゆん生で最初で最期の、人間達に対する呪いの言葉を口にした。
「みんな、しねえぇ!!」
まりさが最期に見たのは、自分の涙で歪んだ視界の向こうに見えた靴底だった。
ぱちゅりーとれいむは、ただ静かに待っていた。
たった二匹にとってこの広場は広過ぎたが、暫くの間、静寂のみが支配していた。ぱちゅりーはただ静かに最期の時を待ち、れいむはただぱちゅりーに寄り添っていた。
にわかに人間達の気配がし、静けさは破られた。
入り口から数人の人間がバタバタと入ってきた。二匹のゆっくりがたたずんでいるのは見つけたが、見回しても他のゆっくりが全く居ないのをいぶかしがっていた。
ぱちゅりーは、ある事に気がついた。その先頭で入ってきた男に見覚えがあったのだ。恐らく、並のゆっくりであったら到底憶えていなかったであろうが、それは彼女が集落に人間と共に住んでいた頃の記憶だ。老翁の近所の住民だったその男には、いくばくかの世話になった覚えがあった。心静かに最期の時を待っていたぱちゅりーだったが、ほんの少しだけ懐かしく切ない感情が込み上げてきた。
その男は、じっと自分の事を眺めているぱちゅりーを不思議そうに見ていたが、やがて彼女があのぱちゅりーだという事を思い出したようだった。
「お前は……」
実際には、ほんの数秒だったのだろうが、視線を合わせた男とぱちゅりーの間には、言葉にはしない思いが交錯していた。
止まった時間を動かしたのは、ぱちゅりーの方だった。
「かくごは、できています」
彼女は静かに、しかし、はっきりと言った。
「……そうか」
男はその言葉に一瞬戸惑ったが、そう答えると隣の男に目くばせし、それぞれがぱちゅりーとれいむの前にしゃがんだ。男達はそれぞれが、彼女達を驚かさぬよう静かに左手を出し、自分の前のゆっくりの視界を覆うようにその目の前に手の平をかざした。
そして男達は、せめて苦しまぬよう、一息にそのゆっくり達を叩き潰した。
あれから二年が経った。
この森は、ゆっくり達を全く見掛けなくなった事を除くならば、何も変わっていなかった。
急激な不況の影響で、ゴルフ場建設の計画は白紙に戻っていた。結局のところ、森の木々が伐採される事も、草むらが整地される事もなかった。ゆっくり以外の小動物は、その自然の恩恵に浴している。
ただ、ゆっくり達が姿を消しただけだった。
わずかに生き延びたはずのゆっくり達は、どこへ行ってしまったのだろう? どこか他の土地で生きているのか? それとも、生き延びる事なく全滅してしまったのか?それは分からない。
ただ確かなのは、この森には一匹のゆっくりも存在しない事。
神も悪魔も降り立たぬその森で、ゆっくりの姿を見る事はもう無い。