あるホストクラブにて
濃い茶色の重厚な扉には、金文字で
Samael
と書かれていた。
神の毒という名を持つ天使Samaelは、イブを誘惑し人間を堕天させたと言われている。
(人間を堕落させた天使。ここにはふさわしいのかもな)
そんなことを思いながら金色の上下に伸びたドアの取っ手に手を伸ばす。
中は暗い。薄暗い中に扇状になったソファが並んでいる。
3段高い場所にはソファー席が一つ。2段高いところにはソファー席が3つ。
一番低いところはソファー席が並んでいる。
「君が立花破月くん?」
声がして振り返る。全く気配がわからなかった。
薄暗い奥から光がさしている。
その光の中に浮かび上がる人影。
「こちらが事務所だよ。神条さんがおまちかねだよ」
人影に近づくにつれ、闇に慣れた目がその男の顔をとらえていく。
優し気な面差しはどこかで見たことがあるような・・・と破月はふと思った。
男は自分より少し年上に見えた。
高そうなスーツをきっちりと着こなし、ネクタイは血のような紅色が先に向かって黒になっていくグラデーション。
グラデーションの始まりは斜めになっていて、先に向かって血が闇に堕ちていくような色になっている。
シャツの色は黒。黒いシャツに黒いスーツ。そして紅いネクタイは黒とのグラデーションだ。
闇に溶けていく血色。
男がにこやかにドアを抑えてくれている。
破月は急いでドアを抜けた。
そこは明るい長細い部屋で、両脇にいくつかのロッカーが並んでいる。
その一番奥によくある灰色のスチール製の事務机があった。
その向こう側にこちらを向いて座る人影があった。
大きな窓から入る午後早くの日差しで、やはり逆光になっている。
「神条さん。眩しいですよ。ブラインド締めます」
ドアを開けてくれた男がブラインドの紐を引いて部屋の中に入る光を弱めた。
神条さん。と呼ばれた男は、じっと破月を見ている。
「君が立花破月?」
破月は頷いた。
「お電話しました。立花です」
神条は美しい戦国武将のような顔立ちだ。
凛々しい瞳は一重で、今どきの二重の瞳をありがたがる風潮を嘲笑っているかのように美しい。
日本人古来の美しさ。それを兼ね備えた面差し。そして誰もがひれ伏しそうな威圧感が漂っている。
「ホスト希望だということだけれど、なぜうちを選んだ?」
神条が射貫くような眼で破月を見ている。
「・・・名前が気に入りました。それだけです」
アルバイトをやめ求人情報誌をダラダラ見ていた。
何の夢もない。ただ生きるために働いていた自分。
女に困ったこともない。女に媚びを売る職業など興味もない。
そんな彼がこのSamaelの求人情報を見た瞬間、電話をかけていた。その衝動をどう説明すればいいのかわからない。
「そうか。ここは2部制だ。朝と夜、どちらのシフトも選べる。人数が少ない方に出てもらうこともあるが。しばらくは黒服の加護と一緒に雑用をやってもらう。」
「わかりました」
破月は頷く。
「黒服の制服はレンタルだ。仕事が終わったら、毎日クリーニングに出す。細かいことは月夜に聞くといい」
月夜と呼ばれた男はにっこりと笑う。
「立花月夜です。よろしく」
差し出された手をおずおずと握る。
「同じ立花だし、月も同じだ。よろしくね」
人懐っこい表情に警戒心を浮かべた月夜戸惑う破月。
「人間が苦手?」
破月は下をむく。見抜かれた。
「いいよ。人が好きだとこの仕事はやっていけない。合格だよ。明日の夕方から来てね。もって来るものは革靴かな。いこうか」
ドアを開けてくれる。
「神条さん。破月くんを見送ってきます」
声をかけられた神条は見ていた書類から視線をあげた。
「わかった」
ドアを閉めてから、月夜が微笑する。
「神条さん、無愛想だけどホントは優しいから。誤解しないであげてね」
「はい・・・・」
ふと、破月はホールに目をやる。
白いたくさんの影。残留思念だ。ざわざわと楽し気な残留思念がソファの周りで余韻を楽しんでいる。
昨日の夜の光景だろうか。
そこからすこし離れて女の影が寂し気に佇んでいる。
楽しげな輪に入りたいのに入れない。そんな感じに見える。
「どうしたの?」
月夜の問いに破月が我に返る。
「あの・・・少しいいですか?」
普段なら歯牙にもかけない。キリがないのだ。
だがその女の姿があまりにも切なく、破月の心が揺れた。
「いいよ」
月夜に許可をもらって、その寂しげな女の影に近寄る。
女の髪型は肩までできついパーマをかけているようだ。おとなしい女性には見えない。
服はボロボロのジーパンとキャミソール。どちらも血に染まっている。
「君、そこで何をしているの?」
女は振り返った。顔がない。削れたように目の合った部分に穴が二つ。鼻の穴はつぶれて判別できない。
(和也のそばに行きたいけど、こんな顔じゃ嫌われちゃう)
女は黒い穴から涙を流している。
「じゃあきれいにお化粧しておいで。服もきれいにしてくるといい。この蝶が案内してくれるよ」
破月が両手を合わせると、その間に青く光る蝶が出現した。
ひらひらと女の周りを舞う。
「いってらっしゃい。もう迷っちゃだめだよ」
女はうなずくと、その蝶の後をついて2.3歩あるいた。童女のように無邪気な顔で蝶を追う。そしてすうっと溶けていった。
「・・・鮮やかだな」
月夜の後ろから神条が現れた。
月夜が神条の後ろにすっとまわる。
「その女は和也というホストの太枝(高い金額を貢いでくれる女性)だった。だが交通事故で車から投げ出されて、顔と命を失った。」
それで女はここに来た。交通事故で死んで心細かったのだろう。そして会いたかったのだろう。
大好きだった和也に。だがケガで醜くなってしまって近寄れなかったのだ。
「君が帰った後、僕が案内しようと思っていたんだけど・・・。君も見えるんだね」
月夜が静かに言う。
「僕は神条さんが頼まれる不思議なことを、調査して回っているんだ。もし手伝ってくれたらうれしいんだけど。君の方が僕よりはるかに強いしね」
戸惑う破月。
「俺は・・・」
「人を救う気はない?」
月夜が言う。
「人間は忌むべき存在。だから救う気はないと?」
破月は黙ってうつむく。
「僕も同感だよ。人間を救う必要はない。神でさえ人間を救わないのだから」
破月が顔をあげた。邪悪で無邪気な微笑を月夜は浮かべている。
「人間を知るにはいい機会だと思わないかい?君は・・・」
「月夜」
神条の咎めるような声に、月夜の表情が引き締まる。
「ごめんなさい。神条さん。」
月夜は破月に向き直る。
「人間だけではなく、この世のコトワリを知るにはいい機会じゃないかい?よく考えてから返事をしてほしいな」
破月は不思議に思う。どうしてこの人は、俺にそんな話をするんだろう。と。
「興味があると思っていたんだけどな。そういうの。違う?」
いたずらっ子のように月夜が言った。まるで心を読んでいるかのように。
見送られて店を出てから、破月は今までバイトをしていていた店のことを思い出した。
一か月前には辞める意思を出さなければならないのに・・・と焦る。
法律がどうあれそういう風に言われていたのだ。
(そのまま店に直接行くか)
店は普通の小さな個人営業の飲食店だったのだが、シャッターは締まっていて人の気配がない。
シャッタ―の前では男が一人、悪態をついていた。
「ココの店主夜逃げしたらしいぜ。オヤジも金貸してたんだけどさ。めんどくせーな。あんちゃんは?」
破月は男を見つめる。汚れたよれよれのスーツとセンスが良くない靴。
やくざの下っ端だろうか。オヤジ・・・父親のことではないだろう。
「夜逃げ・・・ですか」
途方に暮れたようにつぶやく破月に同情したのか、下っ端ヤクザが『何だか知らないが元気だしなよ』と慰めてくれた。
昨日までの給料が心配になり、コンビニに走った。
・・・案の定振り込まれていない。
(仕方がない。貯金でやり過ごすか)
これであのホストクラブに勤めることは自分の中でも確定した。
何か運命に踊らされた気になるが、気のせいだろう。
たぶん。
この小説はダーク系文芸ブログ-混沌の呟き-に【ホスト立花破月の心霊事件簿-1-運命の扉】として多重投稿されています。