8 昆虫人
それからは毎日中央神殿に通った。
真珠は雷奈の申し出を快く受け、浪雷と共に剣を習うことになった。
そして――。
「ぼくにも剣を教えてください」
それは璧玉だった。
あまりにも突然の申し出に、皆びっくりした。
「あの……、どうしたんですか?」
「ぼくも近衛兵の入隊試験を受けたいんです」
雷奈の問いにそう答えられ、一同はさらに困惑した。
「だが真珠も浪雷も、基礎はできている。おまえはその基礎から、学ぶことになるぞ」
「わかってます」
良桜に言われてうなずく。
それは一つの決意だった。
良桜に助けられて共に旅を始め、魔法を習った村で和泉との別れがあり、ここで浪雷や真珠と出会った。
そのことが璧玉の心に、何らかの変化をもたらしていた。
それが何なのか、今は璧玉自身にもわからない。
入隊試験に受かるとも思っていなかった。
それでも今ここで、何かを決意しなければならないと思ったのだ。
治癒魔法を会得したことで、みんなの役に立てるようにはなった。
しかしそれは何かが違うのだと、心が叫ぶのだ。
「わかった」
良桜は言った。
「雷奈、どうせあの二人も、基礎から入るのだろう?」
「え? ええ、そうですわね。準備運動にいいかと」
「その準備運動に入れてもらえ。その後は」
くるりと振り向く。
「宮麗か宮良に、見てもらうといい」
「丸投げかよ!」
思わず宮麗はつっこむ。良桜自身で面倒を見るつもりは、はなからないのだろうか。
「いや、でも基礎体力向上からが目的だろう? 良桜じゃやりすぎるんじゃあ……」
「うっ」
宮良の言葉に思わず納得しかける。確かに良桜と璧玉では、その力は雲泥の差だ。
特に良桜の力は上が見えない。基礎がどこに設定されているのか、想像するだにおそろしい。
「それなら王子様の方がいいかもな。オレは魔法使いとしての修行しかしたことがないし、基礎体力は鬼の特性頼りだからさ」
「うーん、まあ、それなら……。基本は走りこみ……走……? えっと璧玉、走れる?」
「走れますよ」
「想像がつかない」
「その辺りは真珠の動きを見ればわかるだろう」
良桜に諭され、こうして結局、玉梓も含めて全員が、中央神殿に通うことになった。
一応狼牙と石貴の許可を得て、親衛隊と近衛兵の中間にある場所を借り、浪雷と真珠、璧玉は、雷奈の指導のもと、それぞれの入隊試験に向けて訓練を始めた。璧玉がついていけなくなると、そこからは宮良が面倒を見る。宮良はまた、ナイフづかいとして、浪雷の基礎も見ていた。
雷奈も宮良も、さすがに人から学んだ身のことだけあって、教える姿も堂に入っている。
宮麗はそれを冷やかしながら、たまに璧玉と一緒に訓練に参加している。
良桜は特に何をするでもなく、それらの様子をのんびりと眺めていた。
側には玉梓が付ききりで話をしているが、一件以来、良桜にべったりくっつくことはなくなった。
宮良はたまに姉たちの所へも顔を出しているようであるし、宮麗は璧玉の応援に力を入れている。そして雷奈は一生懸命三人の指導に当たっていた。
入隊試験までは日もある。玉梓だけが、良桜を一日独占できるのだ。
だからあわてて良桜の不興を買うよりも、長期戦でじっくりと、とにかく好意を持ってもらうことに努めた。良桜も、一頃よりは態度が軟化したように思う。
まだ会話を成立させることは難しかったけれども、話を聞いていないわけではないのだとわかると、遠慮なく、色々と、あいづちはなくとも話していた。
そんなある日。
「おう、玉梓、今日も来てたか」
訓練が終わる頃合いに、石貴が顔を出した。
「兄さん」
玉梓は顔を上げ、良桜との話は中断したが、その場から動こうとはしない。
石貴は苦笑して、良桜のところまでやって来た。
「妹がすまないな」
「いや」
「兄さん、何なのよ」
「明日は休みだからな、今日は家に帰るんだよ」
目線は雷奈たちの方へ向ける。
「そう。でも兄さんの部屋、あの人たちに使ってもらっているのよ」
「かまわんさ。荷物の入れ替えに帰るぐらいだからな」
話を聞いていたのか、訓練を終えていた浪雷が声を上げる。
「それなら今日はウチに泊まらないか?」
途端、玉梓に睨まれ、浪雷はわけもわからずびくっとなる。
浪雷の家にはたまに夕食をごちそうになることがあり、浪嵐ともすっかり顔なじみである。特に雷奈とはうちとけた様子で、仲良く話をしている。
浪雷としては、別に雷奈だけ来てもらってもかまわないのだ。
自分ももうすっかりと雷奈を尊敬していたし、姉も喜ぶ。
しかし、雷奈は絶対に良桜と一緒でなければならないというのだ。
ならばと良桜も誘うと、何故か玉梓が怒る。
直接何かを言われたわけではないのだが、まとう空気が怖すぎる。
「俺のことなら遠慮はいらん」
石貴は妹の様子で大概のことは察したらしい。おおらかに笑う。
「ではあたしたちも明日はお休みにしましょうか」
ぽんと手を叩き、雷奈が言った。
「毎日やればいいというものでもありませんもの。たまには心身共に休めないと」
「僕も賛成だな」
宮良は璧玉を見る。
「あ、はい」
「わかりました」
真珠もうなずいた。
「それなら明日は遊びに行きませんか? おれ、街を案内しますし、姉貴も喜びますし」
「まあ素敵ですわ。ねえ、良桜さま」
「じゃあ僕は、今日は神殿に泊まって明日一日のんびりしているよ。そうすれば部屋が一人分あくし」
「すみませんね、宮良様」
「いや、本当は宮麗がどいた方が、一番場所があくんだがな」
「王子様って、本当になにげに酷いよな」
そうして宮良が見送る中、一同は中央神殿を後にした。
翌日。
困った顔をした浪雷が、雷奈たちを訪ねてやって来た。
「あの、そこで石貴さんに用があるという人と一緒になったんですが……」
呼ばれて顔を出した石貴は、相手を見た途端に叫んだ。
「紅!? おまえ何してんだよ!」
紅と呼ばれた女性は、全体的に変わっているという印象を受けた。
服装は体にぴったりとした、露出の多いものだが、作り自体はシンプルで、特に変わったところはない。
昆虫人族である。見てそうとわかる程に、特徴のある種族だった。
まず全体的に小柄である。思いがけず視線を下に引っぱられるので、少女かと勘違いしそうになるが、そうではない。
闇色の髪は短いがサラサラと流れ、長い前髪は顔の左側に落ちてくる。
その頭からは、触覚。
赤い目は複眼。鼻や耳にあたる器官は見当たらず、唇のない口は、まるでただの穴のようでもある。
背には二対の薄翅。黒褐色の肌。
そして何よりも特徴的なのは、脇腹からはえている二本の足のようなものである。
退化してしまったそれを手と見るか足と見るか、非常に難しくはあったが、指のないそれを何かにたとえるなら、やはり足なのだろうと思う。
そのために、彼女は背と腹の開いた服を選ばねばならず、自然と露出も多くなるのだ。
紋は額と両頬、左胸、左の太腿に見える。
「どちらさまですか?」
雷奈が顔を出した。
「近衛兵の副長だよ。隊長が休みなのに、私服ってことはおまえも休みか? 副長もいないってどういうことだよ!」
石貴はその大きな手で顔を覆う。
「一日ぐらい大丈夫だ。皓に任せてきた」
一方の紅は、泰然としたものだ。
「だいたいおまえが私の話を聞かないのが悪い」
小柄な紅は、下から大柄な石貴を睨み上げる。
「早く私を引退させろ」
浪雷がやってきた玄関口のことである。
全員が紅の言葉を聞いた。
雷奈が驚いて口を開く。
「え、え!? 引退したいっておっしゃりに来られたのですか?」
「仕事中だと何だかんだ逃げられるのだ」
自分より大きな人たちに囲まれることには慣れているのだろう、堂々たる態度である。
「いや、だが普通に考えて、俺が引退しておまえが隊長になり、それから引退だろう?」
石貴は困りきった声を出す。
「だったら早く引退しろ」
紅は容赦ない。
「なぜ引退を?」
雷奈が訊く。
「寿命なんだ」
紅は憮然と答える。
「だいたい石人形と昆虫人じゃ、寿命が違いすぎるんだ。私を選んだ時点でわかっていただろう。私もそう言ったぞ?」
「え、でも、そんなにお年を召しているようには見えませんが」
紅は反応のある雷奈を、相手にすることに決めたらしい。体ごと向き直る。
「昆虫人族は老いない。子どもを産むと同時に死ぬのだ。私は子どもがほしい。年齢的にはぎりぎりだ。だから引退したいのだ」
「まあ」
雷奈は石貴を見上げる。
「それなら引退させてあげるべきですわ。子どもを産みたい女性を引き止めるものではありませんわ。副長だけ交替というわけにはいきませんの?」
「私はそれでいいと、何度も石貴に言っているのだ。種族が違えば寿命も違う。慣例にとらわれるのはバカだ」
玄関で騒いでいたものだから、玉兔も顔を出した。
「兄さん、副長さんの言う通りですよ。私たちのことなら心配いりませんから、もう引退したらいいじゃないですか。兄さんも長いでしょう?」
「おまえなあ……」
「引退したくない理由でもあるのか」
後ろから、良桜の声がした。
静かなその声に、何故か石貴の背中は伸びる。
石貴は振り返り、良桜の瞳を見つめ、力なく首を振った。
「あったけどなくなった」
「蛍夏か?」
「何故……」
良桜の問いに、石貴は目を見開いた。
とにかく玄関先で騒ぐのはやめてくれという、この家の主婦であるところの玉兔に従って、一同は居間へと移動した。
紅は石貴から言質を取りたい。石貴は良桜と話したい。雷奈は良桜の側にいたい。当然玉梓も席を外す気はない。
困ったのは浪雷である。
明らかに場違いな自分がここにいるのは変だと思うのだが、雷奈を誘いに来て一人でとぼとぼ帰るのは違う気がする。こちらは約束があるのだ。雷奈が退いてくれれば丸く収まるのだが、雷奈は雷奈で、すでに紅の話に興味津々である。
そこへ宮麗が助け船を出した。
「璧玉、とりあえずオレたちだけ先に行ってようぜ。せっかくだから王子様も誘ってさ。浪雷、頼む」
「あ、はい」
「お、おう」
こうして三人が出ていき、玉兔はお茶を出して言う。
「それじゃ、私は買い物に行ってきますから。あとよろしく」
そうして玉兔も出ていった。