5 時
二人の動きはよく見えた。
しかしそれは、太刀と拳を合わせている間だけのことで、移動の瞬間はまるで見えない。
狼牙ですら、すべてを目で追うことはできなかった。
良桜の拳は強化したものだ。
それで瞬速の居合いをはじき、蹴りを繰り出す。雪虎もまたそれを避けて蹴り、突く。
攻撃は全て受けられるか避けられる。二人の動きにはまるで無駄がない。
見学者は声もなく、ただ息をひそめていた。
雪虎は前回ここに来た時よりも、遥かに強くなっていた。
良桜と互角か、あるいはやや強いか、という感がある。
良桜の力は安定している。
そう、あの日麗宮王を倒した時のような、強烈な力は感じない。
雪虎はおそらく、命をかけた仕合いを求めている。だが良桜からは、そういった覇気、のようなものが感じ取れないのだ。
それは相対している雪虎が、最も感じるところでもある。お互いの距離が離れた隙に叫んだ。
「何故私を殺そうとしない!」
それは本気を見せろという叫びだった。
己の一番の好敵手であった蛍夏を殺した麗宮王。その麗宮王を殺した良桜。それが事実なら、自分との戦いが、こうも拮抗して長引くはずはない。
良桜は、誰の目にも明らかな程に、顔を歪めた。
狼牙は目を見張る。
良桜の、表情と呼べるものを初めて目にしたからではない。いや、それもあるが、何よりも驚いたのは、その表情を目にした狼牙の胸に、痛みを覚えさせたからである。
良桜の表情に、狼牙は驚愕よりも共感を抱いた。
そして再び同じ――いや、次に繰り出された良桜の蹴りには、明らかな殺気が含まれていた。
ものすさまじい殺気――。
ここにいるのはいずれも腕に覚えのある者ばかりである。さすがに気を失った者こそいなかったが、かなりの数が武器を手に構えていた。
狼牙ですら、思わず身構えたものである。そして辺りを見渡せば、いつの間に来たのか火売が、目をギラギラさせて身を乗り出していた。
それでこそ火売である。狼牙は苦笑して、視線を戻した。
雪虎はその殺気に反射的に体をかわし、刃をたてた。
良桜の脚は止まらない。普通の蹴りだったならば、良桜の足の方が斬れていたはずだった。
高いかかとをを立てているわけでもない、足の甲を見せる普通の蹴り――、その殺気は普通ではなかったが。それでも雪虎には、良桜の足首を斬り落とすぐらいの自信はあった。
しかし――。
雪虎は目を見張る。
己の小太刀が、良桜の蹴りで破壊されてしまったのである。
刀の腹を突いて壊すのならまだわかる。しかし刃と真っ向勝負して蹴り壊してしまったのである。
「私の、負けだ」
手に残った柄を放す。
良桜の瞳は、まるで怒っているかのような、強い視線を寄こしてきた。
「わたしは、おまえの命までは背負えない」
「ああ、すまなかった」
雪虎は素直に目を伏せた。そして空を仰ぐ。
「私はあなたに甘えていたのかな」
苦笑い。
反対に良桜は顔を伏せる。
「大切なひとを、失ったのだろう?」
「ああ」
肯定ともため息ともつかぬ声をもらして、雪虎は正面から良桜を見据えた。
「そう、最高のライバルで友人だった。私の……、そう。決着は私がつけねば」
そして首のあたりをまさぐっていた手が飾りを握り、引きちぎる。
チョーカーから下げていた円形の飾り。
それはふたのついた懐中時計――、おそらくそういう物だ。
雪虎はそれを手でいらいながらぐるりを見渡し、そこで初めて気づいて目を丸くする。
「……石貴、来ていたのか……」
そこには近衛兵の制服に身を包んだ、大柄な男が立っていた。
言われて初めて、狼牙もその姿に気がつく。
いつからいたのだろう。
しかし蛍夏と仲の良かった石貴には、雪虎の戦う気配もなじみのものだ。
「あの方が、玉梓さまのお兄さま……」
良桜と一緒に来ていた雷奈が、ほうっと息をつく。
先程の良桜の殺気に、唯一動揺しなかった人物といってもよい。雷奈にとって、そのぐらいのことは「良桜さまならあたりまえ」なのである。
一方、こちらはさすがに恐怖を感じた宮良はうなずいた。
「ああ、近衛兵の隊長だな」
確かに、近衛兵の制服の左腕に、赤い布が巻きつけられている。
「覚えのある気配に驚いて来てみたのだが……。修者が相手をしていたのか……」
少し歪めた表情で男は言った。
大柄で体格もよく、がっしりとした巌を連想させる風貌である。
石を思わせる硬質な灰色の肌。石灰の白さを持つ髪は短く刈られ、普段は瞳が見えない程に細められた目は、今は驚きに丸く開かれ、石炭のような黒い瞳をのぞかせている。
彫りの深い顔。顎にひげをたくわえ、左耳上部にカフスをし、青い紋は額と両頬にある。
親衛隊と近衛兵は、歴史的に仲が悪い。そんな中、石貴と蛍夏の交友は、例外的であったともいえる。もちろん蛍夏の副長だった狼牙も近衛兵を敵視するようなことはないが、蛍夏の一件以来縁遠くなり、苦手に感じているのも事実である。
「雪虎、今回はアンタ、遅すぎたよ」
「ああ、知っている。すまなかったな」
二人とも、今ではお互いだけが、蛍夏と対等な友人であった者同士である。
そしてお互いに当時と変わらない姿に、お互いが少なからず驚いていたが、懐かしい姿を目にして心が安らいだのもまた事実であった。
「本当にすまない、石貴。だが私ももう終わらせたいのだ」
胸元に時計を握りこんだまま、雪虎は言った。
石貴は顔をしかめる。
「アンタ一体何を……」
「今まで私は、蛍夏と戦うための肉体を保つためだけに、その時を留めていた」
時計に目を落とす。
「時間兎族の能力だ。私はこの時計に、ずっと自分の時を封じ続けていた」
だからずっと年を取らず、往時の肉体を維持したままで、ひたすらに体をきたえてきたのだ。
すべては蛍夏と互角であるために。
時間兎族である自分と、化猫族である蛍夏とは、おそらく年の取り方が違う。そのハンデをなくすために、自分が蛍夏の肉体年齢に見合う年の取り方をしてきた。
「だがもう蛍夏はいない。だから……。今まで止めていた時を戻す」
「な……っ!」
はからずも狼牙と石貴の声が重なった。
「この世で時だけが平等だ。誰の上にも平等で、逃れることはできない」
王ある間は不老不死と言われる占者でさえ、その身分を降りた途端に止まっていた時がその身に一気にふりかかり、場合によっては受けきれずに老いて死んでしまう者もあるという。
「私も時を解放する。けじめは自分でつけるよ。付き合わせてすまなかった、良桜」
良桜はただ首を横に振る。
雪虎はその手にした円い飾りのふたを開く。
そして現れた文字盤に向かい、何事かつぶやいた。
途端に雪虎からあふれた奔流が、その手にした時計へと吸いこまれていく。
時計を見ていた雪虎は、悲しげに笑ってみせた。
「さようならだ。今までありがとう」
そして皆が見守る中、すべての時間を時計に吸い取られ、地に伏していたのは、老いた時間兎の女性であった。
「時を止めすぎたか……」
石貴は目を閉じて天を仰ぐ。
「……」
狼牙はいまだ時計を凝視していた。
良桜はそっと時計を拾うと、少し考えるそぶりを見せた。
そして石貴の方が少しでも冷静であると見てとると、静かに歩み寄った。
「墓はあるのか?」
いきなりのことに石貴は驚いたが、それでも良桜の問いは理解した。
「蛍夏の墓ならある。化猫族とはいえ、親衛隊長であったことに違いはないからな」
「ここに?」
「ああ」
「ではこれをそこに」
良桜は石貴に時計を渡す。
「雪虎はどうするんだ」
うなずき、大切に時計を預かった石貴は、地に伏す亡骸を見て良桜に問う。
良桜も同じように見ていたが、やがてその顔を狼牙に向けた。
「おまえに任せるのが良いと思う」
狼牙はうろたえる。
石貴は少し顔をしかめたが、何も言わなかった。
そんな石貴と良桜を交互に眺め、狼牙は決心した。
「わかった。任せてもらおう」
力強く、そう、請け合った。
石貴と狼牙が去り、ようやく辺りにざわめきが戻ってきた頃。
「良桜さま!」
ずんずんと、良桜めがけて一直線にやってきたのは、玉梓。
良桜の表情は、誰の目にも明らかな程に歪められる。
「あら玉梓さま」
「良桜さま、今日こそは我が家にご逗留くださいませね!」
反射的に口にしそうになった「嫌だ」の一言を飲みこむ。
しかしうなずきもしなかった。
それをどう取ったものか、
「妹にも許可を取ってきましたから、今日こそはまったく遠慮はいりませんから!」
今すぐにでも手を取って連れていきそうな勢いである。
「おい、修者……」
そこへ狼牙が戻ってきた。
「誰?」
「石貴の妹だそうだ」
「嬢ちゃん、近衛兵なら…」
「わたくしは良桜さまに用があって参りましたの!」
場所を指そうとしていた狼牙を遮る勢いに、さすがに目を丸くする。
「何?」
良桜を振り返るが、狼牙にもはっきりとわかる程に嫌そうな顔をしている。
ふと表情を改め、良桜は狼牙に目をやった。
「何だ」
「何が?」
「わたしに用だったのでは?」
「ああ……」
玉梓に押されてすっかり忘れていた。しかし玉梓のこちらを射殺さんばかりの視線を受けては、さしもの狼牙も口をつむぐ。
「玉梓の用は別に今すぐでなくてもかまわない。おまえは?」
「いや、俺も別に急ぐわけじゃねえけど……」
玉梓と良桜、双方からのプレッシャーを感じるが、どちらを優先すべきか、どちらが恐ろしいかはわかりきっていたし、何より自分の欲望を満たしたい思いが強かった。
「修者に勝負を申し込みたいと思ってさ」
思い思いに訓練を始めていた、その場にいた隊員たち全員が、振り向いた。
「雪虎さんとの勝負の後で悪いかとも思ったんだが」
腹を据えた狼牙は笑みを見せる。
「その程度じゃ、ハンデにならないんだろう?」
雪虎と良桜の戦いを見ているうちに、どうしてもあおられてしまったのだ。本能が、良桜との戦いを欲している。
火売はまたしても姿を消していたが、今の狼牙にとっては幸いだった。
あの男はどこでスイッチが入るかわからない。一対一の勝負の最中でもかまわずつっこんでくるようなところがある。
狼牙は誰にも邪魔されたくなかった。
にやりと笑う狼牙に、良桜もまた不敵な笑みを返した。
「よかろう」