4 親衛隊
雪虎は、長い長い話を聞いた。
雪虎を始め、年を数えている種族はほとんどない。おおよそ百年を一つの区切りとしている。
王家には、それこそ一年単位での記録があるのだろうが、そんなものに興味を示すのは、王家の中でもごく一部だった。
それでも百年は長い。
雪虎が最後にここを去った時、親衛隊長は蛍夏で、副長が狼牙だった。
「今の副長は?」
「火売ですよ。海魔族の」
「そうか」
雪虎はあくまでも蛍夏の個人的な友人で、親衛隊にとっては客分である。「火売」と言われても顔は思い出せなかった。ただ海魔族と聞いてめずらしいと思っただけである。
「おおざっぱな流れは聞いた」
二人は石段に座って、正面を向いたまま。
麗宮王が化猫族殲滅の命令を出し、それに反対して蛍夏は殺されたこと。
その後、鬼族迫害、半馬人族狩りと続き、麗宮王は良桜によって殺されたこと。
「私の知りたいのは蛍夏のこと、そして……あの良桜というもののことだ」
狼牙は剣の柄に手を置いて、深く深くため息をつく。
常に闊達な狼牙にしてはめずらしく、硬い表情だった。
「ではまず、隊長の話から」
思い出そうとするまでもない。何もかも、忘れられなかった。
視線を宙に浮かせ、ぽつりぽつりと、狼牙は語り始めた。
「最後に雪虎さんが来て去ってから、そんなに時間は経っていなかったと思いますよ。麗姫、雷姫両殿下はご存知ですよね」
「ああ。あの宮良という青年は……」
「お二方の弟殿下ですよ。まだ生まれていなかったように記憶していますが」
「そうだろうな。私は知らない」
「白姜殿の予言は知っていますよね」
「ああ」
「何をどうやったのか、煌殿が“予言の上書き”と呼ばれるらしい、何かすごいことをやりましてね、二つ名に該当する種族が判明したわけです」
狼牙には、占者のことなどほとんどわからない。“予言の上書き”が何を意味するのか、それがどうしてすごいのか。
だが雪虎には、ある程度の予想はできる。
占者の予言は『絶対』だ。
占者の口にした事は、将来必ず起こることである。
だから、他の占者が同じ未来に対して口を出す事はできない。
たとえ同じものを視たのだとしても、矛盾が全くないとは言い切れないからだ。
「当時『修者』の種族を知っている奴はいなかったんですよ。まあ俺は、今でも知りませんが」
あの麗宮王に限ってとは思うが、王家に手を出さなかったのは、わからないでもない。
しかし何故化猫族が最初だったのだろう。
狼牙は目を閉じた。
――そういえば嬢ちゃんも化猫族だったんだっけ。
受ける印象があまりに違ったから――。
蛍夏は頼れる兄貴分で、桜奈は本来なら保護すべき妹分だったのだと思う。
そして思えば二人とも、麗宮王に反したのだった。
皮肉な巡り合わせだ。
蛍夏は、雪虎の持っている小太刀よりも幾分長めの刀を武器としており、隊長の証である赤い布は、首に巻いてスカーフのようにしていた。
そして猫又だった。すらりとしたしっぽが二本、生えていたのである。
青灰色の肌。青みがかかった黒い髪。とても綺麗な瑠璃色の瞳。
その剣筋は疾風の如く、鋭き刃に斬れぬものなし――。
しかし決して剛剣というわけではなく、狼牙などに比べればかなり小柄だった。
おそらく雪虎と同じくらいか、もしくは低いくらいの身長ではなかったか。
しかし強かった。
狼牙は一度も勝てたためしがない。
蛍夏と唯一対等に渡り合えたのが、部外者である雪虎だったのである。
それでも。
蛍夏自身にもわかっていたはずなのだ。
王には決してかなわないと。
化猫族を殺せ――。その命令はあまりに唐突だったが、何故、と問う者はいなかった。
しかし周りの者らはこぞって止めた。当たり前だろうと思う。
それでもその命令が撤回されなかったのは、それこそ麗宮王だったから、としか言い様がない。
蛍夏はいつもの飄々とした態度で麗宮王への定時報告に向かい、その時も、ごく普通に進言したらしい。
「陛下の今回の御命令には反対です。ですから私と勝負してください。親衛隊隊長であり、化猫族である私と」
長老たちの意見にもまるで耳を貸さなかった麗宮王だが、この申し出には興味を引かれたようだった。
「私は、私自身の命を賭けます。もし万一私が陛下に勝ちましたら、私の命を以て、化猫族殲滅の命令を取り下げてください」
「よかろう」
それはあまりにも簡単な承諾だった。
狼牙たちがそのことを知ったのは、蛍夏が帰ってきてからだ。
狼牙は声もなかった。みんなが黙り込んでいるうちに、蛍夏はさらに続けた。
「明日陛下に挑んでくるよ。狼牙、キミは見届け人として立ち会うように」
「ちょっ……、隊長っ!」
「それじゃあ明日は頼んだよ。そういうわけで今日は早いけれどこれで解散だ」
そしてひらりと手を振ると、呆然と動けないままの隊員たちを残して、蛍夏は去ってしまった。
翌日、蛍夏はいつも通りにやってきた。
しかし狼牙たちの格好を見て目を丸くする。
何故なら――、狼牙はいつも通りだったが、隊中の化猫たちは制服に身を包んで狼牙の後ろに整列していたからだ。他の隊員も、さらにその後ろに整列していた。
「みんな、どうしたの」
いつもの穏やかな声。狼牙は哀しくなる。
「隊長、俺は見届け人なんでしよう。でもこいつらにだって、見届ける権利くらいはあるはずです」
後ろにいた化猫たちがうなずく。
「本来なら親衛隊総出といきたいところですが……」
「隊長はおれたちのために命を賭けるんでしょう。ならばせめて化猫族であるおれたちだけでも、立ち合うべきです。これは義務だと言い切ります」
「そうか……」
蛍夏はびっくりしたように、隊員たちを眺めていた。
けれど。
「わかったよ」
あっさりと微笑む。もしかしたら蛍夏には、予想済みのことであったのかもしれない。
「それじゃ、行こうか」
背を向け歩いていく。緊張しているのは、後ろに続く隊員たちの方だった。
そこは謁見の間ではなかった。名前は知らない。
麗宮王もまた、いつも通りだった。いや、いつもより上機嫌にさえ見えた。
「どうした。化猫全員で挑むことにしたか」
「いいえ。皆見届け人ですよ」
ゆったりと椅子にもたれて問う王に、にっこりと親衛隊長は答えると、副長を呼んだ。
「陛下、こちらが副長の狼牙。正式な見届け人です。狼牙、キミはこれを」
赤い布を首から外すと狼牙に渡す。反射的に受け取った狼牙は、まだその意味に気づいてはいなかった。
部屋の両端に、王とその親衛隊長が立つ。二人はリラックスしている。
狼牙は隊長の布を握ったまま、二人のちょうど中間に、緊張して立っていた。
制服に身を包んだ化猫たちは、壁にそってずらりと一列に並んでいる。彼らもまた、緊張に張りつめた空気をまとわせていた。
そこには占者も王家もいたはずだが、狼牙の記憶にはない。
震える手を挙げる。
「始め!」
本来ならその勝負は一瞬だったのだと思う。
蛍夏の神速の居合いを受け止め、かつその杖が折れなかった時点で。
しかし麗宮王の方には、すぐに終わらせる意思はないようだった。ゆるいとしか言い様のない攻撃で、蛍夏の本気をどんどんと引きずり出す。
そして結局一瞬だった。
麗宮王の武器は杖だった。それで何故斬れたのかは、わからない。
蛍夏はゆっくりと仰向けに倒れた。
狼牙はただ呆然と、つっ立っていることしかできなかった。
「狼牙」
柔らかい声が名を呼ぶ。
「狼牙」
それは自分の名だ。
確信した途端、狼牙は蛍夏の許へ走った。
「隊長!」
「赤い布はキミに渡したからね。キミが次の親衛隊隊長だ。……いいですよね、陛下」
「かまわん」
見上げる蛍夏に、見下ろす麗宮王。殺される者と殺す者。しかしその二者間には、どんな感情もなかった。
二人にはさまれた状態の狼牙は、まるで自分が神聖な場所にいるかのように感じた。
蛍夏は確かに赤い布を、決闘前に自分に渡した。
それでは、隊長は、始めから――。
蛍夏を腕に抱いた狼牙の時間もまた、止まったままだ。
しかしそうして呆けている間にも、事態は進行していた。
制服に身を包み、全てを見届けていた化猫の隊員たち。その中の一人が一歩前に出た。
「恐れながら陛下、我ら一同隊長の意志を継ぐつもりです」
「その制服と、剣でか」
興味を瞳に乗せて、麗宮王は振り返る。
今日この場に蛍夏が普段通りの格好でやって来たのは、それが最も自分の戦闘スタイルに合っているからだ。
親衛隊の制服は、式典に華をそえるためだけのものにすぎず、共に下賜される剣もまた、日頃彼らが使っている武器に比べれば、飾りにも等しかった。
「どちらにせよ私たちは死ぬのでしょう」
「ならば最後まで親衛隊として」
「そして誰か一人でも、陛下に傷をつけることかないましたら」
「他の同族たちを手にかける事は止めていただきたい」
「おまえら、何を……」
狼牙は何も聞いていない。何も知らない。
だがそれぞれに、彼らは決意と誇りをかけた顔。
全員の顔を見渡し、麗宮王は笑った。うれしそうに。
「よかろう」
それが始まりの合図だった。
血の海で、狼牙は目を覚ます。
語り終えて目を開けると、やはり目の前は真っ赤だった。
それは夕日だったのだけれども。
そうして結局化猫族は滅びたのだ。たった一人の幼い女の子を残して。
あれは狼牙の悪夢だ。いまだに夢のようにしか感じられない。
夕日は嫌いだ。
血の海を思い出させるから。
「わかった」
ふいに隣から聞こえた声に、狼牙は雪虎に語っていたことを思い出した。
そう、今こうして話していたことすら、夢見心地なのだ。
「蛍夏のことは、よくわかった」
雪虎は顔を伏せていた。
(譲れない誇りに命をかけたか)
とても蛍夏らしい。ふと、口元がほころびる。しかし閉じた目からは涙が一粒、こぼれていった。
しばらく蛍夏のために黙祷を捧げると、雪虎は目を開けた。
もはやその青い瞳に悲しみの色はない。
蛍夏は全てを納得済みで、覚悟を以て命を捨てたのだから、雪虎にはそれを責めることはできない。ただ唯一の、永遠とも思えたあのライバルとの、腕を競いあった日々、それを惜しむばかりだ。
だが感情は、たった一つではない。
蛍夏を殺した麗宮王、その麗宮王を殺した良桜。
興味はあったが恨みはない。彼女からも深い哀しみを感じるが故に、激情に身をまかせて八つ当たりをしようとは思わない。
ただ知りたかった。己の心に、決着をつけたかった。義理は通さねばならなかった。
「良桜は一人で麗宮王に挑んだのか」
「そうです」
狼牙は、柄に乗せた手の甲に顎を置いたままうなずいた。
「何故、勝てた」
「俺はその戦いを見ていたわけではありませんが……」
視線を遠くへと向ける。
「最初に“修者”と会った時、今とは全く違う外見でした」
髪も瞳も不自然な色で、体中にベルトを巻きつけていた。
それでも確かに強かったのだろう。だがとても王に勝てるとは思わなかった。桜奈は「“修者”は力を封印している」と言っていたが、封印できる力などたかがしれていると、思っていた。
しかし――。
良桜が封印を解く様を、狼牙は見ていない。
だがそれこそが今の姿なのだろうと知っていた。
黄金の髪とサファイアンブルーの瞳。安定した高い力。
あの時桜奈の剣をはじいてしまったのは、それまでずっと封印され続けていた力が、一気に吹き出してきた気配に驚いたからだ。
そのすさまじいまでに感じた力は、麗宮王とも互角かと思われた。
しかし互角の力で“勝つ”ことはできないのだ。
蛍夏ですら勝てなかった相手なのだ。おそらく狼牙の深い部分に、その事実が根付いており、蛍夏に倒せなかったものを他の者が倒してしまうことを――、おそらく憎んでいた。
“修者”はその後、さらに力を跳ね上げた。
何をしたのかは知らない。しかし、それもきっと“封印”だったのだ。
何があったのかは知らない。しかしあまりにも強大になった力は狼牙の体を縛り、心を萎えさせた。
思考回路も何もかも奪われた。その場にいるだけで疲労を感じた。
――恐ろしかった。
そして、“主者”は、“史上最強の王”を、倒してしまったのだ。
雪虎は一晩、親衛隊の宿舎に泊まった。
何を約束したわけではない。
それでも良桜はここに来ると、確信していた。
そして良桜は来た。
雪虎はいっそ晴れやかに笑った。
「良桜、私と仕合うてくれ」
「わかった」
良桜もまた、予想済みだったのだろう、少しの躊躇もなく、応えた。
普段なら親衛隊の朝練が始まる時間であり、場所だった。
狼牙は「自習」と言ったが、二人の試合の見学もまた、許した。
一定以上の力があれば、この二人の力はある程度計れるであろうし、またそういう者なら、二人の戦いを見るだけでも大きな刺激となるだろう。
「見物人がいますが、いいですか?」
二人の間に立った狼牙が、まず雪虎に顔を向ける。
「私はかまわぬよ」
「“修者”は」
「かまわん」
短いいらえ。
狼牙は手を振り上げると同時に、その場を跳び離れた。
「始め!」
狼牙は自分の判断が正しかったことを知った。
雪虎もまた、小太刀での居合いを得手としているのだ。蛍夏との試合はいつもお互いの居合い抜きで始まった。
狼牙のいたすぐ脇を一跳びに、雪虎は腰の後ろの小太刀へと手を伸ばす。
ただ良桜は動かなかった。
軽く身構え、視線を強くし。
――!
拳で、雪虎の刀の“面”をはじいた。
狼牙と雪虎の目が丸くなる。それは剣ではじくよりも、ずっと高度な動きだった。
覚えず血が沸き立つのを感じ、ふと狼牙は気づく。
「火売は?」
「さあ、そういえばいらっしゃいませんねえ。こんな試合、副長が一番喜びそうなのに」
近くにいた隊員に問えば、そう返ってきた。
その通りなのだ。この場に火売がいないのはおかしい。
しかしこんな試合を見逃してまで捜しに行こうとは思わなかった。
それに火売ならどこにいようと、この二人の“気”にあてられないはずはないし、そうなれば何をしていても気になって見に来るに決まっていた。
それほどまでに、二人の実力は拮抗し、また洗練されていた。