3 中央神殿
雪虎は何も問わなかった。
時間兎族。その能力は明らかにされていないが、種族名からして、おそらく時間に関わるのであろうと推測されている。
それゆえだろうか、雪虎は良桜の「二百年」に対しても何も言わず、ただじっと顔を見つめた。
そしてうつむく。
「二百年は……長いな」
妙に実感のこもった、痛ましげな声だった。
南の街へと至る道は、森の入り口あたりから整備されている。
南の森にも村を構えている種族は、もちろんいる。村へ至る道をどうするかは、村人に一任されていた。
中央神殿は大陸のどこからでも望める巨大な建物とはいえ、その巨大さゆえに門にたどりつけず、延々その巨大な建物の周りを歩き続けなければならない、という事態も起こりうる。
ゆえに、各門から森の入り口程度までは、道が造られていた。
ただし、南側は多少異なる。
南の街に入った時点で、森の道はなくなる。
街には街で、きちんと舗装された道が、それこそ縦横に整備されているからだ。
その、道が変わる街の入り口で、玉梓は立ち止まる。
「まずはわたくしの家でひと休みなさいます? 良桜さまも中央神殿に行かれるのでしたら、皆さまには家でくつろいでいただいて、わたくしが良桜さまをご案内しますよ」
にっこりと、見事なまでに良桜だけを見つめて言った。
「いや、わたしはこのまま雪虎についていく」
玉梓の視線は完全に無視して、良桜は雪虎を見上げる。
「それじゃあ、あたしも! あたしも良桜さまといっしょに神殿に行きますぅ!」
しかし雪虎がうなずくよりも早く、雷奈が手を挙げ身を乗り出す。
その瞬間、ものすさまじい視線が玉梓から飛んだが、雷奈は気づかなかったようである。
むしろ後ろにいた宮良の方が殺気にも似たものを感じ、一歩下がる。
「いや、僕はむしろ、中央神殿が家だから。ええと、おかまいなく?」
それでも何とか、視線は外しつつも、帰省の意思を伝える。
「中央神殿かあ……。ぼくも行ってみたいです」
まだ空気が読めるほどには世間慣れしていない璧玉も、どこかうっとりした口調で続けた。
宮麗は何も言わなかったが、すでに何も言うことはなく、一人諦めの境地に達していた。
そうして一行は、そのまま中央神殿へと向かった。
宮良も、雪虎も道は熟知している。玉梓の道案内は不要であったが、誰もそのことについてはつっこまなかった。
いまだ玉梓はがっちりと良桜の腕を離さなかったし、良桜は良桜でもうどうでもよくなっていた。
そういった投げやりな雰囲気を、宮良と宮麗の二人はどうしても感じてしまい、ついうつむきがちに視線をそらし、良桜に対して同情するのみである。
さすがの璧玉も、そして雪虎も、何か変だとは思うものの、それが何によるものかはわからず、とまどいを隠せないでいる。
雷奈だけが、いつも通りに元気だった。
そして南門が見えてきた。
この南門をまっすぐ進めば、カソレア教の総本部、本神殿へと入ることができる。
よって付近には信者が集っていた。
それでも中途半端な時間だからだろうか、流れが悪くなるわけでもなく、道の邪魔になるわけでもなく、なんとなくかたまって話でもしている風である。
ここに来てさすがに玉梓の歩みはにぶくなった。中央神殿の「どこに」行けばよいのかわからなかったのである。
これ幸いと、良桜はするりと腕から抜けて、雪虎のもとへと歩み寄った。
「狼牙はどこにいる?」
「あ、ああそうか。こちらだ」
うっかりぼーっとついてきてしまっていた雪虎は我に返ると門へと近づき、側にある小屋を覗き込んだ。
「親衛隊に用だ」
「今なら訓練中ですよ」
中から返ってきた声に礼を言うと、雪虎はさらに脇へと入っていく。
「こっちだ」
振り向いて自分の背を指さした。
「今のは?」
後ろを振り返り、雷奈は雪虎に視線を戻した。
「近衛兵の詰所、門番のようなものだ。別に報告せずとも構わぬが、後々面倒がなくていい」
今度は雪虎が先頭に立ち、詰所の脇道をどんどん奥へと進んでいく。
「訓練中だと言っていたからな、まあ大概こちらだ」
それからしばらく進むうちに、人の動く気配、武器のぶつかる音、気合いの声などが伝わってくる。
その広場の手前で、雪虎は立ち止まった。
見渡すそこには、様々な種族が様々な武器を手に、打ち合いをしていた。
こちらには気づいても、その動きを止めることはない。
一番奥に、記憶にある姿があった。
雪虎は隊員たちには目もくれず、大きく迂回して狼牙へと近づいていく。
狼牙はすぐにこちらに気がついた。
そして明らかに、大きな動揺を見せた。
「狼牙」
声を上げることなく、淡々と雪虎はその名を呼ぶ。
長い灰銀の髪を頭頂で束ねたそこに、赤い布が結わえられているのを見て、目を細める。
その赤は隊長の証――。
「雪虎さん、ずいぶんと久しぶりですね。……宮良様たちも、ようこそ」
それでも動揺を押し隠し、狼牙は落ち着いた声で挨拶する。
雪虎は一つ、息を吐くと、静かに尋ねた。
「蛍夏はどうした」
覚悟はしていたが、それでも狼牙は息を詰め、視線を落とした。
狼牙は親衛隊の隊長を務める、人狼族である。
長い灰銀の髪と血赤色の瞳を持つ、大柄な男だ。
首からはカソレア教徒の証であるコウモリ羽十字のペンダントを下げ、黒いロングコートは腕まくりしてある。
見事に実戦向きの、鍛え上げられた肉体。
見るからに重量のある大刀を肩に担いでいたが、ため息を一つ吐くと片手で軽々と操り、地に刃を突きたてた。
「アンタ、いくらなんでも遅すぎますよ」
視線は大刀と共に下げたまま、陰鬱な声で狼牙は答えた。
「今回に限って、なんでこんなに時間がかかったんです?」
問いかけるも、顔は上げなかった。
「隊長は死にました。優に百年ぐらいは経っていますよ」
やはり顔はそむけたままだった。
「話を……、聞きたい」
「宮良、わたしたちは麗姫と雷姫に挨拶してこようと思うのだが」
うつむく雪虎に続けて、良桜もまた視線をやることなく告げる。
「あ、うん。じゃあまず陛下の所へ行こうか」
はっと顔を上げ、宮良が歩き出す。
「え? ちょっと良桜さま? わたくしは……!」
さすがに王と顔を合わせるほどの度胸は持ち合わせておらず、玉梓が声を上げた。
この場に残るのもふさわしくない。
途方にくれて肩を落とし、玉梓はその場を後にした。
占者である魂は、宮良の帰還を予言していたらしい。
謁見の間では、すでに麗姫と魂が待ち受けていた。
「おかえり、宮良。そしてお久しぶりです、良桜、雷奈、宮麗。ようこそ、璧玉」
名乗る前に名を呼ばれ、璧玉はびくりとする。
現王、麗姫は、宮良の姉なのだと聞いていた。
確かに、よく似ている。
ただその白い肌は女性らしく滑らかで、おそらく宮良より長いであろう銀糸の髪はまっすぐと伸ばしたまま。そしてガラスのような透明な瞳は、ぞくりとするほどに底が見えなかった。
宮良との一番の違いは額の眼が縦開眼であることなのだが、その紫水晶の瞳を圧倒するほどに、二つの透明の瞳は宮良よりも遥かに深く、それは璧玉などには恐怖を覚えるものだった。
宮良ですら、息を呑んだ。
全身を黒の衣装に包み、コウモリ羽のついた額飾りは金環。そして右手中指に目をかたどった指輪をはめ、その手には黄金色の玉飾りを頂く杖。それはまだ見慣れぬ装束ではあったが、それ以上に、雰囲気が、まるで変わってしまったかのようだった。
凛とした高貴な佇まいはそのままに、内面はただ深く深く深く。雷奈ですら眉をひそめるほどに、いたましいまでの孤独だった。
その中で良桜は、いつもより若干、柔らかな表情で告げる。
「久しぶりだ。東の村で桜奈に会ったが」
麗姫はうなずいた。
「その話は雷姫と共に聞きたいのです。夕餉を共にと誘っておりますので、その時までお待ちいただけますか」
「わかった」
良桜は麗姫を見つめたまま、かすかに頭を動かした。
たくさんある部屋の一室で、良桜たちは雷姫の勤めが終わるのを待っていた。
「良桜さま、麗姫さまは……」
雷奈にしてはめずらしく、声をひそめ、歯切れも悪い。
良桜はどこか遠くを眺めていた。
「哀しい事が、あったのだろう」
「ああ」
それは肯定とも、ため息ともとれるものだった。雷奈は東の村で耳にした話を思い出す。
麗姫はきっと、心に傷を負うような、酷い失恋をしたのだ。
本気の怒りを見せていた桜奈に、雷奈は思いをはせる。
そうしている間に、一同は食堂に案内された。
食堂にはすでに麗姫と雷姫が席に着いていたが、魂の姿はなかった。
「みなさま、お久しぶりです」
雷姫が柔らかに微笑む。
雷姫は麗姫の双児の妹であり、大神官の衣装を身にまとっていた。右手の中指には麗姫とおそろいの指輪。
髪は軽く結い上げていたが、今ならその外見以上に、内面の差が宮麗にさえわかるほどである。
「桜奈にお会いになったのですね」
食事を始めながら、雷姫が尋ねた。
「ああ、東にある、人間族の村だ」
「とてもお元気そうでしたよ。そうそう、その村、あきらさまが昔お世話になっていらした所なのですって」
簡単に答えた良桜に、雷奈が詳しく付け加える。
そうして和やかに食事は終わり、その夜は王宮に泊まることとなった。
翌朝。
良桜にはやっかいな問題が残っていたが、とりあえずその事について考えるのはやめ、雪虎に思いをはせる。
昨日、おそらく狼牙から詳しい話を聞いているはずだった。
話の内容そのものには、良桜には興味がない。
しかし雪虎には会わねばならないだろうと思っていた。
雪虎のライバルは麗宮王が殺した。
そして麗宮王は自分が殺した。
結果雪虎のような人物がどのような行動に出るか、良桜には痛いほどにわかっていた。
きっと自分も同じことをするだろうからだ。
絶対とは言えない。雪虎とは立場も違う。だがもし自分が目覚めた時、寿命ではなく誰かに殺されていたとしたらどうだろう。少なくとも自分はその相手を見に行くはずだ。
しかし良桜には、麗宮王が生きて自分を待っている確信があった。
だから雪虎とは、同じにならないのだ。
麗姫と雷姫に挨拶をすませると、一行は昨日、親衛隊が訓練していた場所に赴いた。
雪虎は、すでにそこで待っていた。
昨夜は親衛隊の宿舎に泊まったのだと言う。
その場には狼牙もいたが、隊員たちの姿はなかった。
まだ朝が早すぎるのか、それともこの時間は別の場所にいるのか。狼牙の態度からは何もわからない。
しかし雪虎よりも、むしろ狼牙の方が酷い顔だった。
良桜たちを見つけると、雪虎は一歩前に出る。
「良桜、私と仕合うてくれ」
天を仰ぎこそはしなかったが、良桜は目を閉じた。
「わかった」
答えなど、始めから一つしかないのだ。