1 石人形
森のはずれだった。
先頭を歩いていた良桜が、ふと足を止める。
その隣で一生懸命話しかけていた雷奈も止まったが、後ろを歩いていた宮麗はぶつかった。
「げほっ! げほっ、げほっ。何、雷奈、急に止まるなよ、おまえ……。腹に……」
文句を言い終えるよりも先に、森の奥からがさごそと音が聞こえてくる。
誰かが走っているような音だ。
腹をさすりながら、宮麗はしかめた顔を、音のする方へと向けた。
と。
「助けて!」
しげみから転げるように走り出てきた女が、こちらを認めて叫んだ。
中央の森、南よりの場所。
春というよりは、夏に近い気候。
手ぶらで旅をして困るということもないのだろうが、それにしても良桜は軽装である。
長い黄金の髪に、サファイアンブルーの瞳。大理石を思わせる、なめらかな白い肌。
良桜は絶世の美貌の持ち主である。
だがその美貌がゆるむことも、あかいくちびるが言葉を紡ぐことも、極端に少ない。
肩幅ほどもありそうなゆるいハイネックの襟に、袖と裾は長めの白いシャツ。黒いタイトロングのスカートは両脇にスリットがあるが、その始まりはシャツの裾に隠れている。白いブーツはかかとの高いものだが、動きはどこまでも滑らかで危なげがない。
額には聖悪魔族の青い紋。その紋は見える範囲だけでも頬、首、両手首、両腿、両膝にあり、目尻と爪も青い。
しげみから転がり出てきた女性は、良桜の前で膝をつくと、顔を上げた。
「赤い眼の虎が……!」
「――!」
息を切らせながら、それでも紡がれた短い言葉に、良桜は即座に反応する。
「宮良」
「ああ」
一言、名だけを呼んで、良桜は女が出てきたしげみの奥へととびこんだ。
名を呼ばれた青年も、硬い表情ですぐさま良桜の後に続いた。
宮良は走りながら、腰にさしていた短剣ほどの長さの筒を取り出す。軽くひねるとそれは上下に伸び、弦を張ると弓になった。
背中から矢を一本引き抜くと、良桜の隣に並ぶ。
「わかるか?」
「ああ」
視線は交わさず良桜の問いに答え、宮良は前に出た。
狩人としての嗅覚が、宮良をその場へと導く。
宮良は額に第三の眼を持つ、王家の青年である。
その横開眼の瞳の色は紫水晶、その下にある二つの瞳は透明で、髪は銀糸。
肩にかかるその髪を後ろで一つに束ね、額にはコウモリ羽のついた銀環、首にはコウモリ羽十字の飾りが下がる黒いチョーカー、先が少しとがった耳には三角形の黒い耳飾り、そして白い狩装束の上から腰丈の、背の割れた黒マントをなびかせていた。
ただの虎なら問題はない。
そもそも虎は、人に近づかない。
しかし赤い眼の虎となると、それは――。
「人食い虎、ですか?」
璧玉が尋ねた。
「ああ」
宮麗は答えて、女へ水の入った竹筒を差し出す。
女は呆然と座りこんだまま、良桜たちが駆けていったしげみの方を眺めていた。
「大丈夫ですか?」
宮麗の差し出した水筒を代わりに受け取り、上半身ごとかがめて、雷奈は女をのぞきこんだ。
雷奈は半馬人族の娘である。
短めの髪の毛は茶色で、黒目がちの大きな瞳をしている。
額には紋の代わりに角が生えており、鼻筋と直角に交わる青い紋がある。そして爪もまた青い。
金褐色に焼けた健康的な肌。下半身は茶色い毛に黒い尾を持つ馬。その左後ろ足には、途中で切られた鎖付きの足枷がはめられている。
胸を覆う布の上から薄いボレロという衣装はきわめて軽装だったが、装飾は首と両腕にリングを三つずつ。同じ飾りを大きく横にとびでてとがった耳にもつけており、さらに水色の石の首飾りもさげていた。
一応の旅備えとして、小さな鞄を腰のベルトにつけてある。
女は目の前に差し出されてやっと、水を受け取り含んだが、視線は戻らないままだった。
雷奈は顔をのぞきこみ、女の体にすばやく視線を走らせる。
ざっと見たところ、ひどい怪我はしていないようだ。
雷奈はうなずくと体を起こし、宮麗へと振り返った。
「虎に限った話じゃねえんだが……」
宮麗は雷奈の視線を受けてうなずき返し、璧玉に説明をする。
宮麗は鬼族、大柄な男である。その背は半馬人である雷奈よりも高く、よくきたえられた筋肉の持ち主でもある。
紋は、鬼族を示す緑色が額に一つ。黄褐色のざんばら髪に、小さな角が二本。
瞳は赤く、肌はよく日に焼けている。黒いローブに身を包んではいるが肩はあらわで、その左肩には王家の紋が焼き押されていた。先がとがった耳には十字架の飾り。
ずだぶくろと革靴は、旅慣れた様子をうかがわせる。
自分を含め、赤い瞳を持つ種族は多い。
現に目の前で自分の話を聞いている璧玉の瞳も赤い。
だが、瞳の赤い動物はいなかった。
もし赤い眼の動物がいればそれは――。
種を問わず、人の味を覚えてしまった狂獣である。
璧玉は自分が世間知らずであることを自覚している。この冬の間一生懸命勉強してきたとはいえ、普通の人が何年何十年かけて普通に獲得してきた知識を、一冬で得ることはできないと心得ている。
璧玉に、種族はない。
しかし真っ白な蛇の下半身と額の緑の紋を見れば、知る人には蛇女族だと知れるだろう。
病的に白い、細い体と中途半端な長さの髪。鼻梁のない顔は凹凸に乏しく、赤い瞳の瞳孔は針のように細い。
両手首には、鎖を思わせる入れ墨。
もともと璧玉は名もなき“種”だった。
しかし“種”であることを厭い、蛇女族の村から逃げ、良桜たちに拾われ、良桜に「璧玉」という名をもらい――、そうして自由を得た代わりに、璧玉は、族長自ら蛇女族であることを捨てるようにと言われた。
――蛇女族に“男”はいらない――。それゆえ璧玉に種族はない。
マントをしっかりと着こみ、荷物を入れた袋を棒の先にくくりつけて持っている。
宮麗の言によれば、赤眼の動物、その危険性は旅人のためだけの知識ではなく、村に暮らす者たちにとっても他人事ではない。故に誰もが知らぬうちに身につける知識なのだということだったが、村からさえも切り離されて生きてきた璧玉は、そんな「普通」の知識すらない。
しかし宮麗は気にすることなく、説明を続けた。
たとえ肉食の獣であろうとも、人を食うことはめったにしない。
ほとんどの獣は人に寄らない。
人里にはもちろん、旅人の前に姿を現すこともまれである。
それはひとえに、自分たちが狩られる側であることを知っているからだ。
群れている人には適わない。だから人里には寄らない。
一人でうろついているような者はさらに危険だ。群れる必要がない程に、強いのだから。
人も獣も、飢えるから食べる。
そして神と同格視される王でさえどうにもできないもの、それが天候だ。
普通なら人里には近づかない獣も、草木しか口にしない獣も、飢えれば人であろうと襲って食べる。
それが食糧難ゆえの一時しのぎならば、それも仕方のないことだ。
しかし中には、人の味を忘れられず、難が去ってもひたすらに人を狩り、人しか食べなくなってしまう獣が現れる。
そうして人を食い続けた獣は力をつけ、人里であろうがお構いなしに襲いかかるようになる。
そしてその眼は、知らぬ間に赤く染まってゆくのだ。
「だから赤い眼の獣を見かけた場合、狩る自信があるなら必ずしとめ、自信がないならすぐに逃げて必ず誰かに知らせなきゃいけないんだ」
宮麗の説明を聞き、璧玉はようやく良桜たちが駆けていった方角に目を向けた。
なるほど、だから良桜は、女の一言を耳にしただけで飛び出していったのだ。
しかし――。
「良桜さん一人でも無理なのですか?」
良桜は宮良を呼んだ。
「ん? ああ、あれは適材適所っていうか……。王子様は“狩人”だからな」
宮麗もまた上体をひねって、良桜たちの消えた方角を見やる。
「でも、良桜さんの方が強いのでしょう?」
璧玉の言葉に破顔する。
「そりゃあな、むしろ良桜より強いヤツなんて、今はもういないだろ」
ひとしきり笑ってから続ける。
「人食い虎の正確な居場所はわかっていないし、追跡になるだろう? そうなると狩人である王子様の方が適任だろ?」
「はあ……」
「強さってのは能力によるんだぜ」
その時の璧玉には、宮麗のその言葉は理解できなかった。
「良桜!」
そのしげみの先にいる、振り向かず宮良は名を呼んだ。
ここまで来れば、良桜にも虎の気配はわかるはずだ。良桜はものの気配には、時に自分以上聡さを発揮する。
呼ばれた良桜は一気に速度を上げ、宮良を追い抜きざまに一言告げた。
「光の矢の方がいい」
そして跳躍した。
宮良は躊躇しなかった。
良桜の言葉と同時に手にしていた弓矢をしまい、走りながらその手の中に光の弓矢を作り出す。
それは「王家の力」と呼ばれるもの――。
宮良の予想通り、しげみを抜けたそこに、巨大な虎がいた。
目の色はわからない。
虎の上体は、跳躍した良桜に向いていた。
おかげで宮良の眼前には、虎の腹が無防備にさらされている。
宮良の弓が胸を貫いたのと、良桜の蹴りが頭に落とされたのは、ほぼ同時だった。
虎の巨体は大きな音をたて、くずれ落ちた。
戻ってきた良桜がしげみから姿を現した途端、それまで微動だにしていなかった女が飛びついた。
「!」
いきなり死角から足下にタックルされた形の良桜は驚いたが、声は上げなかった。
しかしいかに良桜といえど、両足にがばりと抱きつかれては、バランスが取れない。
「うわっ!」
後ろで良桜の肩を支えた宮良の方が、びっくりして声を上げた。
「わたくし玉梓といいますの!」
これまた唐突に、顔を上げた女が名乗る。
「……」
女は足を放さない。
仕方なく良桜は宮良の肩に手をかけ、女の腕から足を解放しようと試みる。
「石人形族です! 旅人です! 南の街に家があります! 帰る途中だったんです!」
しかし玉梓と名乗った女は良桜の顔をじっと見つめたまま、構わず足を抱きしめる。
「……」
――蹴ってもいいかな?
良桜は首をかしげただけだったが、正確にその意を察してしまったお供たちの間には、動揺の空気が走る。
「玉梓さま?」
わざとらしいまでに大きな声を出すと、雷奈は女を立たせようとその身を引っぱる。
同時に宮良はやめろという意を手に乗せて、良桜を支えつつ女からはがそうとする。
宮麗の必死の念も届いたのだろうか、女は良桜を見つめたまま、それでも手を放し、雷奈に促されるまま立ち上がった。
石人形族の玉梓、と名乗った女は、その種族名が示す通り、石を思わせる硬質な灰色の肌と、黒炭の熱を感じさせる大きな黒い瞳をしていた。
頭はすっぽりと帽子で覆っているが、首の後ろ、玉で一つに束ねた長い髪は、石灰の白さである。
しかし着ている服の素材ゆえだろうか、硬質的な色合いでありながらその体は肉感的で、柔らかそうな印象を与えていた。
石人形族の紋は、額と胸元に見える。
服と帽子、アームガードは同じ柔らかそうな白い素材で、袖はなく、裾は長い。
前は大きく開いており、喉元とみぞおち辺りをベルト状のもので留めていた。
腰の後ろに、旅行用の鞄をベルトでさげている。
「あの、お名前を教えて下さい」
雷奈に引きはがされても、その目は良桜からそらされることがない。
熱心に見つめる瞳は、まさに熾火を思わせる。
そのまつげは長く、顔の彫りは浅い方で、可愛らしい。
「良桜だ」
宮良を制して玉梓には一瞥もくれぬまま、それでも名乗る。
さらに良桜に言いつのろうとする気配を感じ、なんとはなしに厭な衝動に突き動かされ、宮良は女よりも先に口を開いた。
「宮良だ」
「あ、あたしは雷奈ですぅ、よろしく!」
「オレは宮麗だ」
「璧玉です」
同じく何かしら感じるものがあったのだろう、宮良に続いて次々と名乗ると、宮麗は良桜を振り返った。
「やったのか?」
「ああ」
「え、どうしたんですか?」
「埋めてきた」
「?」
「……?」
璧玉に答えると、きょとんとした顔を返される。良桜もまた顔を返すが、先程まで璧玉に説明していた宮麗にはわかった。
「ああ、狂獣の肉は食えないんだよ」
「そうなんですか」
どうりで、と璧玉は目を見張る。いつもなら宮良が狩った獲物は、必ず持ち帰って食料になるからだ。
「血に狂った獣の肉を食うとなー、こっちもおかしくなるんだよ」
宮麗が続けて説明する。良桜が埋めたと言うからには、おそらくそう簡単に掘り返されることもないだろう。
いつも通りの雰囲気を感じ、ほっとして雷奈が玉梓から手を放した時だった。
「痛っ」
無意識に雷奈に預けていた体重が、一歩を踏み出した足にかかり、玉梓はその場にくずおれた。
目の前のことである。
仕方なく良桜はひざまずき、玉梓の黒い短ブーツを脱がせてその足首に手を当てた。
熱を感じる手のひら。眉をひそめる玉梓。
「折れてはいないようだが……、これは歩けないだろうな」
ため息をつき、良桜は立ち上がった。
死にものぐるいで走ったからだろう。しげみから出た途端にこけたのも、もしかしたらあちこちに限界がきていたのかもしれない。
両手を腰に当て、良桜は宮麗を見やる。
「あー、川あったかなあ……」
宮麗はその外見に似合わず魔法使いだが、治癒魔法は使えない。
足を痛めたのなら冷やして固定だが、こんな場所に女一人を残していくわけにもいかず、そうなると必然的に力仕事を任されてしまう自分が女を背負うはめになるのだろう。
水を出す事は可能だが、あまり得意ではない。魔法よりも水場を探す方が早かったが、川の気配はなかった。仕方なく、ずだぶくろから魔法の杖を取り出そうとした時。
「あ、治癒魔法なら、ぼく使えます」
おそるおそるといった風に、璧玉が手を上げた。