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地球病

作者: 無虚無虚

SFですが、万有引力の法則しか登場しません。

 彼が衝撃を受けたのは、警告のメッセージを見てから二秒足らずだった。メッセージの内容を理解する間も無く、衝撃に襲われた。まず大きな音と強烈な加速度に襲われた。その後は猛烈な目まいに襲われた。ジェットコースターが好きで、結構経験があるつもりだったが、今のはそんな生易しいものではなかった。彼は自分の生命が危険にさらされていることを理解した。


 目まいは十秒ほどで止んだ。ようやく彼は周囲の状況を観察できるようになった。


「大丈夫?」


 自分の隣の座席に座っている女性が彼に声をかけた。


「なんとか」


 そう答えるのが精一杯だった。危うく飛びそうな記憶をなんとか繋ぎ止めた。自分は月面都市の公務員で、施設管理課で働いている新人(ルーキー)だ。船外活動(EVA)の資格をとったばかりだ。船外服(うちゅうふく)を着た作業は数回経験したが、月面上だけだった。今日は人工衛星の修理を行おうとした。初めての無重量環境での仕事だ。EVAの資格をとるために、プールの中での擬似環境の訓練は飽きるほどやらされた。だが本物の宇宙空間の無重量環境での作業は今日が初めてだ──いや、正確には今日が初めてになるはずだった。


 隣に座っている女性は職場の先輩だった。五、六年の経験を積んでいる。ブラック企業でもない限り、ルーキーに危険な任務を一人でやらせるような真似はしない。彼女は彼の教官も努める予定だった。だが彼女はそれより緊急の作業に追われていた。


 彼も彼女に習って、彼らが乗っている作業用の月離着陸船(ボート)操作卓(コンソール)を見た。彼は航法士の資格も機関士の資格も持っていなかったが、深刻な事態に陥っていることは理解できた。人工衛星に向かう途中の作業船は何かと接触し、その衝撃で船体の一部が変形し、軌道が大きく変わっていた。軌道が変わっただけではなく、船体が猛烈な速度で回転したが、作業船の非常用プログラム作動して姿勢制御推進器(アボジモーター)を使って回転を止めたらしい。コンソールを見ていると、彼女がテキパキと作業を進めているのが分かった。作業船の状況と軌道が明らかになった。


「貨物室の一部が壊れて、貨物の一部が船外に出ているわね。でも推進剤(プロペラント)は無事。これはラッキー、と言いたいところだけど……」


 彼にも彼女が言いたいことが分かった。推進剤を使う主機(メインエンジン)が停止している。


「この軌道だと……月に墜落しますね?」

「アボジモーターだけでは、軌道を変えられないわ。通信機器は無事みたい。インターネット回線が繋がったわ。緊急事態(エマージェンシー)は送信済みよ。あ、応答がきた」


 応答を読んだ彼の表情が青くなった。月面港は救助船をすぐに出せる状態ではない。月を周回する軌道港は救助船を出してくれたが……


「これって……間に合いませんよね?」

「自力で軌道を変えるしかないわね。君、航法士か機関士の資格を持っている?」

「いいえ」

「偶然ね。私もよ」


 要するに、二人とも宇宙船を手動(マニュアル)で操縦した経験が無いのだ。衝突したのが自然の隕石か、人工物のデブリかは分からなかった。いずれにせよ、このような事故が起きる確率は、無視できるほど小さいとされていた。さすがに旅客船には航法士と機関士が搭乗するが、作業船なら、EVAができる作業員が搭乗するからなんとかなるだろうという根拠の無い楽観が、財政が楽ではない市の行政ではまかり通っていた。彼はマーフィーの法則を痛感した。『うまくいかない可能性があるものは、必ずうまくいかなくなる』


「貨物を全て捨てて、船を身軽にしたらどうです?」


 彼はとっさに浮かんだアイディアを口にした。


「君、いい加減、地球病を治しなさい」


 彼は不愉快な感情を抱いた。地球から来たばかりの人間は宇宙の常識を知らない。そのため非常識なヘマをやらかすことが多い。そのヘマや、ヘマを何度もやらかす人間を揶揄した言葉が地球病だ。敬意ではなく侮蔑的なニュアンスを含んでいる。


 だが今の自分の発言がヘマだと気づいた。重力に逆らって飛ぶ航空機なら、機体を軽くすればより高く、より遠くへ飛べる。しかし自分が乗っているのは慣性飛行中の宇宙船だ。貨物を捨てても、捨てた貨物が宇宙船と同じ軌道を飛んで宇宙船を追ってくるだけだ。どちらの軌道も変えることはできない。


「作業船にも旅客船を使うべきだ。航法士と機関士を乗せるべきだ」


 彼は怒りを建設的な方向に表現した。本人はそのつもりだった。


「そんな予算、うちの課には無いわよ。一桁は足りないわ。それで?」

「旅客船は無理でも、メインエンジンは旅客船のように二基搭載すべきです。一基が停止しても、残りの一基で帰還できる」

「だから、そんな予算、うちの課には無いわよ。新しい作業船を建造するなんてとても無理。うちの予算でできる範囲といったら、中古の単発貨物船を購入して、作業船に改造する程度よ。双発の貨物船は数が少ないから、なかなか手に入らないし、値段も単発より高い。貨物の量が多いのなら、貨物船のメインエンジンを増やすより、使用料金を払ってマスドライバーで貨物船を打ち上げる方が安上がりよ。普通ならそちらを選ぶわよ」

「でも、せめてメインエンジンだけでも旅客船用に換装すべきです。規格は違いますが、互換性があります。換装は簡単なはずです」


 月離着陸船は、旅客船も貨物船も同じ基本設計が使われている。一隻ごとに違うエンジン、違う部品が使われたら、整備の手間が増えるし、部品を融通することもできない。要するに高くつくのだ。コストを下げるため、月離着陸船の基本設計は規格になっている。同じ設計のメインエンジンなので、旅客船のメインエンジンを貨物船に載せかえることは簡単だ。つまり互換性がある。

 だが規格は違う。人間を乗せる旅客船と、人間を乗せない貨物船では、要求される信頼性が全く違う。工作精度や、使われている材料や部品の品質などが異なる。当然値段も違う。


「あんな高いメインエンジン、うちの予算じゃ買えないわよ」

「しかし、作業者の安全にもっと配慮すべきです。そのための予算を惜しむべきではありません」

「それは私も賛成よ。でもそういう演説は、事故調査委員会に証人喚問された時でいいんじゃない?」


 彼女が言いたいことは、彼にも分かった。事故防止策を論じても、現に起きた事故で生き残れる確率は変わらない。八つ当たりをしているだけで、時間の浪費にしかならない。生き残るための方法を議論すべきだ。しかし彼には、その方法が全く想像できなかった。


 だがそれなりに経験を積み、技能(スキル)を身につけた彼女は違った。


「私たちにできそうなことを探しましょう。船体というハードウェアは、修理ドックに繋留でもしないと直せない。私たちにできるとしたら、ソフトウェアよ。まずは船のシステムプログラムのリバース・エンジリアニングね。これも規格化されているはずよ……ふむ、汎用OSではなくリアルタイムOSね。乗り物だから当然ね。船の運航を司る航法プラグラムのタスクはこれか。あー、予想外の例外で無限ループに突入している。ウオッチドッグタイマーぐらい入れても(ばち)はあたらないと思うけど。これは強制終了して、プログラムを再起動するしかないわね。メインエンジンの操作は、航法プログラムからのAPI呼び出しをたどれば分かると思うけど……ブラックボックスだ」

「メインエンジンには手が出せないんですか?」

「うーん。航法プラグラムだけなら、私にもなんとか再起動できると思うけど、メインエンジンのデバイスドライバは無理ね。ブラックボックスをこじ開けて中を覗くには、液体燃料ロケットエンジンの専門知識が必要だけど、私にはそれが足りない」


 それは彼も同じだった。


「……なんで初めてで、こんな危機に直面するんだ!」

「この作業(ミッション)になぜ危険手当が支払われるのか、考えたことないの?」


 彼は絶句した。この状況で、なぜこんな皮肉を言えるのだろう。


 彼女は職場では少し浮いた存在だ。優秀で頼りがいがあるのは誰もが認めた。だが空気が読めない。対話相手の心情を察することができない。自分の主張をごり押しすることは滅多にないが、他人の発言に問題があると、容赦なく論破する。相手が悪あがきをして失言を重ねると、完膚なきまでに叩きのめす。彼女と議論するときは完全な理論武装が必要だ。多くの同僚は彼女との議論を避け、彼女の意見を尊重する。理論武装は大変なうえに、ほとんどの場合は彼女の意見が正しいからだ。


「やはり僕たちは助からないんですか?」


 彼はそう訊いたが、よい返事を期待したわけではなかった。


「助かる方法ならあるわよ」


 予想外の返事を聞いたとき、彼は驚きの表情を浮かべた。それはすぐに歓喜の表情に変わった。付き合い難いと敬遠していた彼女が、今は救いの女神に見えた。


「どんな方法なんですか?」

「知らないの? 有名な方法よ」

「……知りません」

「君はSFを読む方?」


 意外な質問に彼は戸惑った。


「いいえ、読まない方です」

「二十世紀のSFの文豪が発明した方法よ」


 彼は急に不安になった。


「そんな方法、大丈夫なんですか? どんな方法ですか?」


 彼女はコンソールのディスプレイを使って、説明を始めた。




「……公転速度がもっとも遅くなる遠月点で加速を行えば、軌道をここまで変えられるわ。月に墜落する軌道だけど、墜落する時刻をここまで遅くできる。一方、救助船の軌道はこう。月に墜落する前に、救助船とランデブーができるわ」


 彼は彼女の説明を理解した。確かにこの方法なら助かると分かった。しかし、これは正気の沙汰ではないと思った。


「これってつまり、自分の足で作業船を蹴飛ばして、人力で加速度を作れってことですか?」

「その通りよ。船外服の推進器(スラスター)でも加速度は作れる。でもスラスターの推進剤では必要な加速度は作れない。これを補う方法は人力しかないのよ」

「こんなクレイジーな方法を、誰が発明したんですか?」

「アーサー・チャールズ・クラークよ」


 クラークの名前は彼も知っていた。SF作家であると同時に、科学に深い知見を持った科学評論家でもあった。彼のもっとも有名な功績は、人工静止衛星のアイディアを世界で初めて発表したことだった。静止衛星軌道は、今でもクラーク軌道と呼ばれることがある。クラークの名前を出されては、彼も納得せざるを得なかった。


「やるべきことは決まったね。帰還プランを送信してっと。遠月点まで三十分か。船体の確認もした方がいいから、今のうちに外に出ましょう」


 二人は元々船外服を着ていた。貨物船を改造したので、船外服に着替えるスペースも、二重のエアロックを作るスペースも無かった。搭乗前に船外服を着るしかないのだ。船室は一気圧の空気で与圧されていたので、搭乗中はヘルメットを被る必要は無かった。外へ出るときはヘルメットを被って、船室内の空気をバキュームで吸引して真空にし、船室をカバーしている外殻を開いて、そこから直接宇宙に出るようになっていた。


 外に出た彼は景色に圧倒された。軌道の内側を見ると、月面が猛スピードで移動していた。作業船にしがみついていないと、月へ落下するのではないかという錯覚に襲われた。

 彼女の方は慣れていた。


「メインエンジンの様子を見てくるわ。万一、爆発でもされたらひとたまりもないから」


 そう言い残すと、軽やかに船尾へ向かった。彼女が戻ってきたのは二十分後ほどだったが、彼には二時間以上にも感じられた。


「あと十分足らずよ。なにしがみついているのよ。ジャンプしないといけないのよ。もしもーし、聞いてる?」


 彼女は右手で、彼のヘルメットをコンコンと叩いた。


「聞いています」

「慣性飛行中よ。立っても転げ落ちることはないわ。私を見なさい」


 それでも彼は立ち上がれなかった。


「おい、こら、地球病、世話を焼かせるな。自分で跳ばないのなら、私が蹴飛ばすわよ」


 それでも彼は立ち上がれなかった。


「いい加減にしなさい。君は死ぬ気? 私を殺す気?」

「殺す?」

「ルーキーを置き去りにして、先輩の私だけ脱出できるわけないじゃない。よく考えなさい。君の命は、君一人だけのものかしら?」


 彼はようやく立ち上がった。


「わかりました。やります。先輩に迷惑はかけられませんし、蹴飛ばされるくらいなら自分で跳びます」

「そう、マゾヒストじゃなかったのね」


 彼は理解に苦しんだ。最初はよくこんな状況で冗談が言えるな、そう思った。次にこれは自分の緊張を和らげるためかもしれない、そう思った。最後はどういうつもりでも冗談の趣味が悪すぎると思った。


「ひざを曲げて力を蓄えて。カウントダウンを始めるわよ」


 彼はひざを曲げてカウントダウンを待った。カウントがゼロになるのと同時に、渾身のジャンプをした。


 彼はジャンプをした後、船外服のスラスターを点火した。そのまま推進剤が尽きるまで加速を行った。加速が終わると体の向きを変えた。彼は推進剤を使わずに体の向きを変えるテクニックを訓練で教えられていた。手や足を広げると、慣性モーメントは大きくなる。逆に手足を閉じると、慣性モーメントは小さくなる。手を広げて足を閉じた状態で体をひねると、上半身は小さな角度で動くが、下半身は大きな角度で動く。手足を逆にすると、反対のことが起きる。これを繰り返せば、推進剤を使わずに体の向きを変えることができる。


 とても下を見る勇気は無いが、何も無い進行方向を見ても不安になる。彼は作業船を見ることにした。測距計(そっきょけい)で作業船との距離を測った。測距計は赤外線レーザーを照射する発光ダイオードと、赤外線を検出するフォトトランジスタを組み合わせた計器だ。測定対象に赤外線レーザーのパルスを照射し、測定対象から撥ね返ったレーザーを検出する。光の速度は不変だから、レーザーが往復した時間を高精度で測定すれば、かなり正確な距離を測れる。返ってきたレーザーの周波数を測定すれば、ドップラー効果(シフト)で相対速度も測れる。とはいっても測距計は万能ではない。測定できる距離や対象に制限がある。赤外線を吸収したり、自分が強力な赤外線を放射する物は測れない。それでも測距計が発明されたおかげで、EVAはこれまでより安全になった。測距計はEVAに欠かせない装備だ。


 彼は距離の異変に気づいた。最初は距離は開いた。加速したのだから当然だ。だが距離が開く速度が遅くなり、ついに逆転した。距離がどんどん小さくなっていく。つまり飛び出したはずの作業船に追いつかれつつあるのだ。


「先輩!」

「なに?」

「作業船との距離が縮まっています。おかしいです」

「君の軌道はこちらでも確認したわ。問題ないわ」

「でも作業船に逆戻りしているんですよ!」

「君ね、航法士の資格を持っていなくても、宇宙船の機動の基礎ぐらい覚えなさいよ。常識よ」

「ああ、そうですか。分かりました。認めますよ。僕は地球病ですよ! 病人にも分かるような説明をしてください!」

「万有引力の法則は知っている?」


 これにはさすがに腹が立った。自分は侮辱されているのかと思った。だが相手はあの先輩だ。たぶん天然だろう。喧嘩を再開しても無駄に疲れるだけだ。ここは折れよう。


「知ってますよ」

「重力の強さは距離の二乗に反比例するでしょ」

「それで?」

「高い高度を飛んでいる衛星と低い高度を飛んでいる衛星、どちらが主星の重力を大きく受けているかしら?」

「僕らが飛んでいるのは、衛星軌道ではなく、墜落軌道ですよ」

「近月点が月の中だというだけよ」


 だけ? それで済ませていいのか? この人は本当に有能なのか? 疑いを持った。


「これからの話は、月が大きさが無い質点と仮定してもいい話よ。そう仮定して」


 少し安心した。


「それでさっきの質問に戻るわ。どちらの高度の方が主星の重力が大きいかしら」

「そりゃ、低い方でしょう。距離が近いんだから」

「高度が高い衛星には、重力が働いている?」

「もちろんです。力の大きさが違うだけです」

「つまりどんな高度でも、衛星は主星に引っ張られているわけね。それなのになぜ衛星は落ちないの?」

「永久に主星に落ちない軌道を自由落下しているからです」

「私が訊いているのは、その軌道なら落下しない理由よ」


 彼は慎重に答えた。


「主星の重力と、公転運動による遠心力が釣り合っているからです」

「そうね。ここで最初の質問を思い出して」

「万有引力の法則なら知っています」

「……あ、ごめん。怒っている?」

「いや、ちゃんと説明してくれれば許します」

「高度が低い衛星ほど、重力が大きくなるわね。これに対抗して落下しないためにはどうしたらいい?」

「重力に対抗できるだけの大きな遠心力が必要です。公転速度を上げるしかないでしょう」

「その通り。高度が低いと公転速度は速くなり、高度が高くなると公転速度は遅くなるの。これを今の君にあてはめたら、どうなる?」


 彼は少し考えた。


「あっ、分かったかもしれない」

「話して」

「僕は作業船を蹴飛ばして、公転速度を上げました。つまり遠心力が重力を上回ったんです。だから高い高度に遷移したんです」

「続けて」

「高度が上がったので、公転速度が落ちたんです。だから作業船に追いつかれるんです」

「それで?」

「作業船に追い抜かれても、僕の方が高度が高いから、問題にならないんです。だって位置エネルギーは僕の方が大きいんだから」

「正解。君の足が作った運動エネルギーは位置エネルギーに変わったの。君が持っているエネルギーは減っていないの」


 ようやく彼は安心した。そして自分がとんでもないことを見落としていたことに気づいた。


「先輩! 先輩はどうするんです? 遠月点はとっくに過ぎていますよ!」

「ああ、それなら無用の心配よ。男性でルーキーの君の足なら必要な加速度を出せるけど、女で月の重力に馴れてしまった私の足では無理なのよ」

「無用じゃありませんよ! 先輩が助かる方法はあるんですか?」

「別の方法を試してみる。成功率は低いと思うけど」

「どんな方法なんですか?」

「私じゃなくて、自分の心配をしなさい。通信機のバッテリーは温存しなさい。今使い果たすと、救助船と交信できなくなるわよ。今から受信のみにしなさい。私のことを心配してくれるのは嬉しいけど、慣性飛行しかできない君にできることは何も無いわ。はい、交信終わり」


 彼女は一方的に交信を切った。彼は自分を追い抜いた作業船を見続けた。月の地平線のむこうへ行って、見えなくなるまで。




「おかえりなさい」


 彼をピックアップした救助船は、軌道港に戻った。彼は民間の定期便で月面港に戻った。その彼を彼女が待っていた。


「訊きたいことがあるのは分かるわ」


 彼女は放心気味の彼の先回りをした。


「どうやって私がここに戻ってきたかでしょ? 作業船のメインエンジンを再点火して、作業船を月面港へ戻る軌道に遷移させたの」

「……メインエンジンには手が出せなかったんじゃないですか?」

「インターネットは繋がっていたわ。その気になれば自分で調べることもできるし、専門家の意見を聞くこともできるわよ」


 言われてみれば、確かにその通りだ。だが生きるか死ぬかという切迫した状況で、(仕事に限って言えば)信頼できる先輩に言われれば、それを疑う余裕は無かった。


「外に出たとき、船尾に行ったでしょ。あのとき機関部の外観を撮影したのよ。それを専門家に見せて、助言をもらったの」

「そうやって戻ってきたんですか?」

「そうよ」

「だったらなぜ最初からそうしなかったんですか? なぜ僕にあんな危険な真似をさせたんですか!」

「危険じゃなくて、怖い真似よ」

「僕は理由を訊いているんです!」

「もちろん君のためよ」

「どこが僕のためなんですか?」


 彼女は携帯端末を彼に見せた。そのディスプレイには電卓アプリの画面が表示されていた。


「四十一・九パーセント?」

「これが私が助かる確率だったの」


 彼は何も言えなかった。


「専門家の助言をもらっても、それで完全な安全が得られるわけじゃない。事故のリスクは常にあったわ。メインエンジンの再点火に失敗する可能性、再点火したときに姿勢制御に失敗して助からない軌道に遷移する可能性、再点火しようとしたとたんメインエンジンが爆発する可能性、ひしゃげた船体で着陸に失敗する可能性、そういう多数のリスクがあったの。それらを全部計算した結果がこの確率なの」


 やはり彼は何も言えなかった。


「君にはかなり気を使ったのよ。君が近くにいるときにメインエンジンが爆発したら、君も助からない。君の姿が地平線に隠れるまで待ってから、再点火をしたの。時間はぎりぎりだったのよ。再点火は一発勝負、やり直しができなかったのよ」


 また彼は何も言えなかった。


「でも君の方法ならほぼ百パーセントだったわ。なぜだか分かる?」

「……いいえ」

「機械はときどき人間を裏切るわ。壊れた機械は特にそう。でも物理法則は常に正しい。万有引力の法則を正しく使えば、計算どおりの結果が必ず得られるのよ」

「なるほど」

「少しは理解してくれた?」

「はい」


 彼女は安堵のため息をついた。


「でも戻ってきてくれてよかったわ。そのまま地球に帰るんじゃないかと心配したのよ」

「えっ?」

「作業船にぶつかったやつが月面に落ちたの。それで月震(ルナクエイク)が起きたの」

「それは地震(アースクエイク)の言い換えですか? 無駄な言い換えだと思いますが」

「地球の地震は地殻活動が原因で起きるわ。でも月は芯まで冷えた、完全に固体の天体よ。地殻活動は無いから地震は起きないわ」

「つまり、隕石が落ちたときだけ起きるのが月震というわけですか。それが僕たちにどう繋がるんですか?」

「規模は大したことなかったんだけど、落ちたところが悪かったのよ。月面都市を結ぶモジュールの近く。モジュールを直撃するよりはマシだったけど、衝撃が原因で大規模なシステム障害と通信障害が発生しているの。とにかく人手が足りないのよ」

「なんだ、そういうことですか」

「なんのこと?」

「いえ、なんでもありません」

「さあ、現場というより修羅場が待っているわよ。覚悟して」

「人使いが荒いですね。疲れたから少しは休ませてくださいよ」

「おい、地球病」

「今の僕のどこが悪かったんですか?」

「月は本来は人間が生きられない場所よ。それなのに私たちはこうして生きている。それはなぜかしら?」

「そりゃ、人間が生きられる環境を人工的に作って、維持しているからです」

「その環境を維持しているのは何かしら?」


 ようやく彼は理解した。


「環境維持に関わる基幹システムは最優先で復旧しなければ! 医療施設のインフラシステムもだ!」


 彼女は諭した。


「宇宙は地球よりはるかに危険な場所よ。それを理解できなければ、地球病は治らないわよ」

 SFファンならお気付きだと思いますが、A・C・クラークの「メイルシュトロームII」のオマージュです。パクリではありません。少なくとも本人はそう思っています。


 クラークの小説を読む方なら、宇宙で生活することがいかに困難なことか、想像できるでしょう。そこに焦点を当ててみました。


 「小説家になろう」では、SFといえばVRMMOかスペースオペラが圧倒的な主流です。私もスペースオペラは嫌いではありません。スターウォーズは面白い。でもスターウォーズってSFでなきゃいけませんかね? ファンタジーでも、架空の歴史でも、同じ物語が作れます。


 そこでSFでなきゃ書けない物語を書いてみました。でも、ウケないでしょうね。こうやって後書きを書いているうちに、テンションが下がり始めています。スペースオペラに飽きた方に、読んでもらえれば幸いだと思います。

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