64「破壊者再臨す」
「ウィル……!」
いずれ向き合う覚悟はしていたが、いざ彼を目の前にしてみると身体ががくがくと震えて仕方がなかった。女のときに刻み付けられた恐怖が蘇る。そればかりではない。初めて出会ったときとは違って、今は彼の気を感じ取ることが出来る。彼から放たれる気の強大さと不気味さがわかるようになってしまった。
格が違う。中途半端に手に入れた力が、かえって彼の恐ろしさをより鮮明に浮かび上がらせていた。俺はその場に貼り付けられたように動くことが出来なかった。
「彼が、ウィルなの……?」
横から尋ねてきたカルラ先輩に、俺はこくりと頷いた。先輩たちも身体がわずかに震えている。
俺たちが戦慄する一方で、無様に倒れていたトールは喜びの声を上げた。
「おお! 神の化身よ! この私に救いの手を――」
「黙れ」
ぴしゃりと制したのは、他でもないウィルだった。彼は一目でわかるほどに不機嫌な顔をしている。
「僕は今非常に不愉快だ。なぜだかわかるか?」
次の瞬間、俺の前にいたはずの彼が消えた。
はっと振り返ると、彼は既に俺を通り過ぎ、後ろで倒れているトールのすぐ横に立っていた。
時間を止めたわけじゃない。辛うじて動きを感じることは出来た。本当に一瞬で移動したのだ。
ウィルはどうやってかトールを浮上させて空中に吊り上げた。宙で金縛りにあったように身動きが取れないトールに、彼はドスの効いた声で言った。
「お前だ。お前がもっとしっかりやっていれば僕がわざわざ出張ってくることもなかった。よくも下らないものを見せてくれたな。おい」
身の毛もよだつ氷の眼がトールに向けられる。さしものマスター・メギルもただただ震え上がるしかないようだった。
「いいか。別に負けてもいいんだよ。だがなあ――もう少し面白いものを見せろよ」
彼が睨むと、トールは急に息苦しそうにし始めた。そのまま「おしおき」は続く。俺たちは黙って見ていることしか出来なかった。
やがて彼が威圧を緩めると、トールは咳き込んだ。
「ごほっ……ごほっ!」
「不甲斐ない様ばかり晒しやがって。お前はまさにクソの役にも立たない屑だ」
さすがにこの言葉に対してはプライドが許さなかったのか、トールはわなわなと震え憤慨した。
「な……この私を――」
トールが言い終わる前に彼は遮り、真顔のままで恐ろしいことを告げた。
「圧死。窒息死。身体をバラバラに引き裂かれて死亡。好きな死に方を五秒以内に選べ」
「は?」
一瞬言われたことを呑み込めなかったのか、トールはあっけに取られていた。ウィルは表情を変えないまま無慈悲なカウントを始める。
「5、4、3、2、1……」
トールの顔がみるみるうちに青くなっていく。
「待て! 待ってくれ!」
「時間だ」
「ひ、ひいっ!」
トールは必死に逃げようと手足をばたばたしたが、ただ空しく宙を泳ぐばかりだった。
彼の左手の指が一本一本引き千切れていく。
「いぎぃいいい!」
足のつま先から肩にかけて、血肉がぶちりぶちりと毟られていく。いたぶるように少しずつそれは行われていった。
「あぎゃああああ!」
声にならない悲鳴を上げてのた打ち回ることも許されず宙でもがき苦しむ彼を、憎むべき敵であるとはいえさすがに見ていられなかった。俺は震える身体を押して声を張り上げた。
「やめろ! ウィル!」
ウィルはちらりとこちらへ振り向くと、ほんのわずかだけ笑った。
次の瞬間、トールの眼球が弾け飛んだ。間もなく、身体の内側から弾けるようにして彼の全ては飛び散った。
びちゃびちゃと肉片が地面に撒き散らされる。あまりの気持ち悪さに吐き気を催すほどの光景だった。
そんな光景を何の感情も感じられない冷たい眼で見届けた彼は、こちらへと向き直った。
「――さて」
固まったまま言葉を失い震える俺たち三人を視界に捉えて、彼は自己紹介を始める。
「そこの二人ははじめまして。こいつから名前だけは聞いていると思うが、僕がウィルだ。そして――」
また彼が消えた。ほんの一瞬で俺の後ろに回り込まれたとき、身体に電流が走るような感覚が起こる。
気付いたときには、私は女に「されていた」。
女になって背が縮んだ私よりも少し背の高くなった彼は、後ろから腕を私の肩に回し顔を寄せてきた。振り払いたいほど嫌だったが、身体は固まったように動いてくれない。本能がわかっているのだ。下手に逆らわない方が身のためだと。
「こいつは僕のおもちゃのユウだ」
それでも、この言葉には我慢ならず振り向いて彼を睨み付けた。お前にいいようにされて、全てを差し出そうなんてもう二度と思うものか。そんな気持ちからの精一杯の抵抗だった。
「相変わらずの良い目だな。そんな目をしてる奴は――叩き潰したくなる」
彼の瞳に宿る闇が鋭く私を刺した。ますます恐怖が込み上げて、私のささやかな抵抗心すら折れてしまいそうになる。
震える私を見て満足したらしい彼は、視線を外し先輩たちに向けた。
「まあいい。それでだ。そこの二人には少し黙っていてもらおうか。僕はこいつと話があるんでね。もちろん一言でも喋れば殺す」
普段ならずかずかと物を申すタイプのカルラ先輩もケティ先輩も、この場限りにおいてはヘビに睨まれたカエルのように凍り付いてしまっていた。だがそれが最善だった。先輩たちの反応にとりあえず合格点を与えたらしい彼は彼女たちには何もしなかった。
それから、後ろから耳元で囁くように話しかけてくる。まるで世間話でもするかのような口ぶりで。
「どうだユウ。もう異世界には慣れたか」
「……まあまあね」
辛うじて搾り出した声は、情けないほど弱々しく震えていた。
「そうか。何しろお前にとっては記念すべき最初の異世界だ。剣と魔法の世界なんてお誂え向きだろうと思ってわざわざ選んで飛ばしてやったんだぞ。感謝しろよ」
驚きだった。
「お前が、私をここにやったって言うの?」
彼は頷いた。
「お前の行き先に『干渉』することなどわけはないさ。おかしいと思わなかったのか? 世界はまさに星の数ほどある。そうそう都合良く僕が関わった世界に行けるわけないだろう?」
はっとした。言われてみればそうだ。そんな当たり前のことにどうして気付けなかったんだ。じゃあ最初からずっと私はこいつの掌の上だったっていうのか!?
驚愕する私をよそに、彼は楽しそうに次の「予定」を立て始めた。
「次はどこに飛ばしてやろうか。まあ今回はサービスだったからな。もっと厳しいところにするか。ここからなら――暗闇の星『ポリウス』、凍結世界『キューベルサ』。この辺りが直で送れて面白そうだ。何なら手間はかかるが戦禍の世界『アウスランダー』でもいいぞ」
まるで私の都合など考えない一方的な提示だった。こいつのことだ。おそらくどの世界を選んでもきっとろくなことがない。
「全部嫌だと言ったら?」
「お前に選択肢があると思うのか」
有無を言わさぬ威圧に、私はそれ以上の言葉を詰まらされてしまった。そんな私を一瞥すると、彼は私の前に回り込んで話題を変えた。
「まあそれは置いておくとしよう――ところで、僕が用意したものは楽しんでくれたか」
こいつが用意したもの? 心当たりがなかった私は尋ね返した。
「何のこと……?」
すると、彼は得意顔で答えた。
「バリアにオーブに、魔導兵にスカイチューブ。他にも色々だ。まるでゲームの仕掛けみたいだっただろう?」
「あれを全部、お前が?」
「そうだ。この国は元々僕が創り上げたようなものさ」
またも衝撃の事実だった。だが、言われてみれば納得がいく。そもそもこれだけ文明が異常発達した国が一つだけあるという状態は明らかに異常だ。本来ならあり得ないことだとずっと思っていた。だが、異世界から技術を持ち込んで創り上げたというなら簡単に説明が付く。急に発展したものだから妙にちぐはぐだったのか。
「ゲームを盛り上げるためにわざわざ僕が用意した特製の舞台だ」
「ゲームだと!?」
「そうだ。世界を賭けたゲーム。お前が勝つか、汚い人間の欲望が勝つかのな」
その言葉を聞いたとき、私の中で怒りが爆発した。
「ふざけるな! お前の下らないゲームに一体どれだけの人たちが巻き込まれてると思ってるんだ!」
許せない。暇潰しのために世界を弄びやがって!
彼は意外にも否定はしなかった。
「そうだな。確かに下らないお遊びだ。だが、お前の言い分はなお僕には理解出来ないな」
「なんだと!」
すると、こいつはとんでもないことを言い出した。
「なぜその辺の塵など気にするんだ?」
「な……!」
塵だと。みんなのことを塵だと!
あまりの言いように言葉を失った私の肩を彼に掴まれた。顔が迫り、凍てつくような瞳が覗き込んでくる。何より感情の見えないこの瞳が私は恐ろしくて仕方がなかった。高ぶっていた心は一瞬で冷え、再び恐怖が込み上げてくる。
彼は私に諭すように言ってきた。
「いいか。僕らはフェバルだ。僕らは世界を覆すだけの力を持っている。その辺の存在など全て塵に等しい。レベルが違うんだよ。指先一つで消し飛ぶようなものを一々気にする必要がどこにある?」
こいつの言葉には一切の感情の動きも誇張も感じられなかった。ただ事実としてそう思っている。それも心の底から本気で。
彼は私から視線を外すと、至極残念そうに呟いた。
「ああ。せっかく少しは面白いものが見られると思っていたのに。あの屑では到底役者不足だったな」
次の瞬間、彼は私の目の前から消えた。
「このまま終わってしまうのはつまらない。そうは思わないか?」
声のした方を見上げると、彼は再び青い月を背に浮かんでいた。
まさか――
「本来、僕の主義ではないのだが――」
彼は私が最も恐れていた言葉を告げた。
「この僕自身が世界を滅ぼすとしよう」
「やめろ……やめてくれ……」
ウィルは私を見下ろすと、悪魔のような笑みを浮かべて宣言した。
「月を落とす」
月が急速に大きくなり始めた。それは恐ろしい速さで地表に迫ってくる。
星全体が震えていた。
「やめろおおおおおおおおおーーーーー!」
私は無我夢中で魔法を放った。
『ラファルスレイド』!
特大の風刃が彼に向かって飛んでいく。だがそれは、彼に当たる直前に跡形もなく消し飛んでしまった。
「今何かしたのか?」
彼がそう言った途端、身体中が熱くなった。息が苦しくなり、胸が張り裂けそうになる。
「うああっ!」
私は立つこともままならなくなり、その場に倒れ込んだ。
この感覚は――
また私を『干渉』で弄って――
「ああっ!」
こんなときに、私は喘いでるのか――!
身体に力が、入らない――
「そこで眺めていろ。世界の終焉をな。僕はお前が絶望するところを見たいんだよ」
横を見れば、カルラ先輩とケティ先輩はすっかり言葉を失い呆然としていた。
月が大気圏に突入する。それはこの世の終わりを告げる絶大な火の玉と化して空を覆い尽くしていた。
――世界が、終わる。
みんなが――
ちくしょう――ちくしょうっ!
――そのとき、奇跡が起こった。
今にも世界を押し潰そうと迫っていた月が、なんとその場に押し留まっていた。
月の落下が、止まった……?
見上げると、あのウィルがこんな顔をするのかと思うほど嫌な顔をしていた。
「ちっ。お前は――」
「やれやれ。ギリギリで間に合ったか」
――それは、聞き覚えのある懐かしい声だった。
間もなく、私の横に屈んで顔を覗き込んできたのは。
金髪で、旅人みたいな変わった格好をしていて。あのときとちっとも変わらない姿で――
「よう。大きくなったな。ユウ」
「レン、クス……?」
彼はちっとも変わらない笑顔で鼻をさすった。
「おう。俺だ」