60「黒龍を斬れ」
跳び出した小さな敵対者を見出した黒龍は、彼女を亡き者にしようと霧のブレスを吐く。身動きの取れない空中でそれを避けることは出来ない。本来ならば跳び出したイネアは迂闊だったということになるのだが、歴戦の戦士である彼女はそのような安直なミスは犯さない。無論炎龍を信頼した上での行動だった。
全てを溶かす黒い霧が彼女へ到達しようとしたとき、炎のシールドが彼女を包み霧を弾き飛ばす。そのまま最短距離で宙を進み、彼女は黒龍の背の真ん中辺りに飛び乗った。
一枚一枚が人ほどの大きさもある漆黒の鱗が覆うその場所で、そのうちの一枚の上に降り立ったイネアは遥か遠くにある黒龍の首を見やった。この位置からあそこまで走り進むには遠すぎる。その前に振り落とされてしまうのがオチだろう。そう瞬時に判断した彼女は、まずすぐ横に見える黒龍の右翼から斬りにかかることにした。
再び飛び上がられてしまっては厄介だという考えが彼女の念頭にあった。いくら炎龍が付いているとは言え、自分自身が空を飛べるわけではない以上動きが遥かに制限されてしまう。そうなれば勝ち目は薄くなってしまう。
彼女が気を高めると、右手の刀身は青白く輝いた。
『センクレイズ』
実在するどんな名剣よりも研ぎ澄まされた彼女の気剣が、黒龍の右翼、その上部に根元から食い込む。
ここで、もし仮に相手が生きている黒龍ならばこの刃を易々と通しはしなかっただろう。だが、今の黒龍はただ操られているだけの人形のようなものでしかなかった。死体であるがゆえに気によるガードも使えない。ゆえにいかに龍の肉体が硬く強靭であろうともイネアの剣が打ち勝った。刃を振り下ろすに従って翼は綺麗に斬り裂かれていく。
「たあああああーーー!」
イネアの気合の入った掛け声とともに、剣は翼を上下に貫いた。そのまま彼女は黒龍の足を蹴り、地面に向けて加速。一足早く着地して即座に飛び退くと、その直後彼女がいた場所に黒龍の恐ろしく巨大な翼がズズンと大きな音を立てて落下した。
己の意志を持たない黒龍は、苦悶の唸り声さえ上げることはない。ただ片翼をもがれたその姿は一見しただけで痛々しいものであることは間違いなく、決して小さくはない痛手を一振りで負わせたのは明らかだった。この偉業を成し遂げたイネアの姿を目の当たりにした戦士たちは、絶望を跳ね除けて大きく奮い立った。
既に炎龍の背に乗り直していた彼女は、油断なく気剣を構えたまま黒龍に言った。
「翼をもがれた気分はどうだ」
黒龍は顔色一つ変えぬまま立ち尽くす。そこには怒りも、生前に持っていたであろう誇りさえも一切感じられない。ただただ虚ろな目をしていた。
「――まあ言ってもわからないだろうがな」
やはり生きている「本物」に比べれば格が落ちる。そのことをはっきりと確かめてしまった彼女は、もはや伝説の龍に挑むという気分ではなくなっていた。
時間停止という反則技で満足に戦うことすら出来ずに殺され、死後もなお下らない野望に利用され、そして今目の前で無様な姿を晒している。そんな絶対王者に対し憐れみさえ覚えていた。
他の者にとってならば十分脅威となる存在だろう。だが、ただ高性能なブレスを吐けるだけの龍型の何かに成り下がってしまったこの相手は、既に空も飛べなくなった以上彼女にとっては真の脅威足り得なかった。
――死線を幾度も潜り抜け、黒龍に次ぐ大きさである雷龍とも戦った経験のある彼女にとっては。
「もう奴を休ませてやろう。炎龍」
『そうだな』
同様に憐れみの気持ちを抱いていた炎龍が、大きく息を吸い込んだ。黒龍が黒炎を吐くことが出来るように、炎龍は全力を出すことで強力無比な白炎を吐くことが出来る。これも精神を集中する必要があるので、魔法で操られていたときには出来ないものだった。
炎龍の動きに呼応するかのように、黒龍も大きく息を吸い込む。さしもの黒龍も炎に対する耐性は炎龍ほどは高くない。白炎を当てられてはダメージは避けられないとの判断から機械的にそうしたのであった。
両者が同時にブレスをぶつけ合う。黒龍から吐き出される黒の、炎龍から吐き出される白の対照的な猛炎が中央で激突し、想像を絶する熱と光を散らす。
体格差からやや白炎の方が小さいが、それでも押し負けてはいなかった。炎こそはその名を冠する炎龍の土俵であり、最大種である黒龍にも負けないという自負が炎龍にはあったのだ。その意地に賭けても炎龍は負けるわけにはいかなかった。
両者の炎は互角だった。どちらかが一瞬でも気を抜けば自分の炎まで牙を向き、倍の炎に飲み込まれてしまう。炎龍は苦しさに顔を歪めながらも懸命に炎を吐き続ける。感情こそないが、黒龍も同じように苦しい状況だった。だからこそ気付く余裕がない。
――上空からその首を目掛けて迫る彼女の存在に。
重力加速度を乗せて、イネアは煌々と輝く気剣を両手で掲げ、全力で振り下ろす。
せめて最期は華々しく散れと想いを込めて。
『センクレイズ』
決める一撃も同じだった。彼女にとっては師の愛用する思い出の技であり、必殺技はこれ一つで十分だった。彼女はただひたすらにそれを磨き、これまでどんな強敵とも渡り合ってきたのだ。
彼女の剣が龍の首筋に当たる。そこに力を込めて一気に斬り抜く。
「はああああああああーーー!」
人々は見た。
黒龍の吐き出す炎が突如勢いを失くしたのを。
そして、その首が胴体からゆっくりと離れて落ちていくその様を。
黒龍の首が斬り落とされた瞬間だった。
地面に降り立った彼女は、黒龍の首が地に落ちるのを見届けると、炎龍の背に跳び乗って高らかに剣を掲げる。
人々はその堂々たる姿に心震えた。
まるでクラムに代わる新たな英雄の誕生のように思われたのだ。
英雄はいない。彼女本人にそう言われていても、人は希望に縋りたいものだ。
彼女こそが今や希望だった。それが与える活力は計り知れない。
戦況は再び覆った。さらに多くの死者を出しながらも、魔導兵及びライノス、リケルガー、そして新たにやってきた竜騎兵を加えても戦士たちは見事に奮戦し、ついに約半数の犠牲の上にほぼ勝利を収めたのである。
だが、目下最大の脅威であった黒龍を討ち取り、それら雑兵を倒してもなおエデルの力は圧倒的だった。
むしろ中途半端な抵抗がさらなる絶望を招き寄せることとなる。
ここに至り、ついにトールは兵器の温存を止めることに踏み切った。
――束の間の勝利に喜び沸き立つラシール大平原に突如現れたのは、黒龍よりは若干小さいが優に四十メートルはある人型の巨大兵器。
その身体は一切の魔法を弾く魔法金属製。その口に備え付けられた魔導砲が地を焼き、その巨体でなぎ払えば地面が吹き飛ぶ。
それでも単体ならば黒龍ほどの強さはないだろう。問題はその数だった。
八十体。
平原の前方見渡す限りが、今や死を告げる行進に覆い尽くされていた。
エデルが誇る最強の量産兵器の一つ。
魔導巨人兵が彼らに迫っていた。