59「炎龍と黒龍、地に降り立つ イネアの過去」
ユウたちが空中都市エデルに辿り着いた頃、地上では激戦が繰り広げられていた。敵は魔導機械兵二千七百とライノス、リケルガー各五百頭。迎え撃つサークリス防衛班の数は約千二百人。実におよそ三倍もの兵力を相手に、サークリス防衛班は善戦していた。この時点で既に約六分の一に当たる二百人もの犠牲が出ていたが、対する敵戦力の損害は約三割である。
ここまで戦えていた理由は、全員の士気の高さと乱戦にあっても統率の取れた個々人の連携、そしてイネア率いる数十人のディリート門下生の活躍にあった。イネアが時折指南していたのは彼らであり、彼らは程々ながらも気剣術を扱うことが出来た。魔法耐性が高く、金属製であったり大型であったりと頑丈な敵に対しても気剣は有効だったのである。
特にイネア個人の活躍は凄まじく、八面六臂の働きで次々とライノスやリケルガーを仕留めていった。彼女は己の力の使いどころを弁えていて、この場にいる誰でも満足に戦える魔導機械兵よりは脅威となる大型獣の討伐に集中して力を注いでいた。
もし彼女がいなければ大型獣は味方兵を蹂躙し、現在の状況はより悲惨なものに変わっていたことだろう。トール・ギエフの目論見通り、圧倒的な殺戮劇が展開されたはずである。しかし事実そうはならなかった。
トールの懸念は当たっていた。最も厄介なのは彼女であり、彼にとってはいかにしても殺しておくべき存在だったのだ。だが、彼自身とクラム・セレンバーグは余裕と慢心から研究所爆破という絶望のショーを楽しむことを優先し、彼女に直接止めを刺さなかった。確かに計算通りであれば間違いなく彼女は死んでいただろう。ところが、ユウというイレギュラーがわずかに歯車を狂わせた。結果として、あの場にいた始末するべき者たち全員は無事に脱出してしまった。
そして、彼が所詮学生と軽視していた者たちこそが、今やエデルに入り込み彼を追い詰めようとしている。そんななんとも皮肉な状況に繋がってしまったのだった。
それだけではない。知識はあっても生の戦場を知らない彼は甘く見ていた。人の士気と結束というものがいかに戦場の流れを左右するかを。イネアを中心に一丸となって戦う防衛班を打ち崩すのは容易ではない。単に圧倒的な戦力を揃えれば容易く殲滅出来ると踏んでいたことが、ここに来てかなりの誤算を生んでいたのである。
しかし、それだけの計算違いがあってもなお情勢を覆すのは困難なほどにエデルの力は圧倒的だった。
「悪く思うな。私には洗脳を解除する術はないからな」
そうして数十体目となるリケルガーの脳天を貫いたイネアは、さすがに切れ始めた息を整えながら空を見上げた。ユウたちは無事に入り込むことが出来たのだろうかと考えながら。
するとそこに映ったのは、炎龍に散らされた多くの竜騎兵が標的をこちらに変えて上空から迫り来る様だった。その数は二、三百は下らない。イネアは舌打ちする。激闘の最中、さしもの彼女も必死で接近を察知出来なかったのだ。
さらに、黒龍と炎龍が空を急降下しながら戦っている様子も目に入る。やや炎龍の方が苦戦しているように見えた。
黒龍からは気は感じられない。大方魔法で操っているのだろう。とすると、それに敵対する炎龍は味方か。おそらくユウが言っていたオーリル大森林で戦った相手だな。イネアは自ら得た情報と状況から瞬時に正しい答えを導く。
やがて、傷付いた炎龍はイネアの近くに降り立ち、ほぼ傷一つない黒龍がその向こう側に降り立つ。
味方の戦士たちは上空より飛来した脅威にざわめいた。このままでは士気に関わる。そう判断したイネアは、黒龍に立ち向かうことを決断する。炎龍の側まで俊足で駆け寄ると、森の知識として体が知っていた龍の言葉で話しかけた。
「大丈夫か」
『ほう。お主も龍の言葉がわかるか』
炎龍は息を切らしながらも言葉を返した。
「ネスラだからな」
『ネスラか――うむ。その面影と気、見覚えがあるぞ。もしやお主は、あのときジルフ・アーライズの横にいた者ではあるまいか』
その言葉に、イネアははっとする。
「あのときの炎龍か!」
――それは三百年以上前のこと。
イネアは、本来森の外には出られないはずのネスラの母親と人の父親との間に出来た忌み子であった。ゆえに森からは嫌われ、同族からも冷たい目で見られた。
ネスラは戒律に非常に厳しく、外れた者を決して許さない。父親は処刑され、母親は一生軟禁されることとなった。イネアは直接処刑こそされなかったが、母に会うことも許されず森を出ることを命じられた。まだ彼女が六歳のときのことである。
里を追放されたイネアは、ふらふらと当てもなく歩き始めた。やがて、偶然龍の巣に迷い込んでしまう。そこには若き炎龍が身体を丸めて眠っていた。侵入者に気付いた炎龍は目を覚まし、立ち上がって威嚇をする。
だが、幼いながらも物怖じしない性格だったイネアには通用しなかったようで、彼女は「りゅうさんだ」と言ってぺたぺたと歩いて近寄っていく。
本来なら侵入者は全て焼き殺すのが当然なのだが、まだあどけない彼女の顔を見て、さらに同じ森の一員としての力を感じ取った炎龍は、彼女を問題とせず再び座り込んだ。
イネアは炎龍の側まで行き、背中を預けるとぺたんと座り込んだ。随分と長いこと歩いてきたのだろう。彼女にはあちこちに擦り傷があり、酷い疲れが見えていた。
しばし静寂がその場を支配する。やがて、イネアがぽつりと口を開いた。
「……わたしね、もりにいちゃいけないんだって。おかあさんにももうあえないんだって」
炎龍は自分に話しかける彼女の泣きそうな声に静かに耳を傾けつつ、黙って見守っていた。
ネスラでは稀にあることだ、と炎龍は思う。この幼さで森を追放されれば、おそらく生き延びられまい。事実上の死刑。だが、同情などする気はなかった。弱き者は死ぬ。それが自然の定めなのだから。
ところが、そんな彼女の死の運命は一変することとなる。その場所にある男がやって来たことで。
黒髪短髪で筋骨隆々のこの大男は、見た目からだけでも十分に力強さが伝わってくる強者だった。彼の名はジルフ・アーライズ。特殊能力『気の奥義』を持つフェバルであった。彼は、幼い人間の気がこんな辺鄙なところにあるのを不思議に思い、様子を見に来たのである。
炎龍は恐ろしく強い気を放つ侵入者に対し、全身の気を張り詰めて警戒した。やはり本来ならば侵入者は即座に焼き殺すのが当然なのだが、今度は動くことが出来なかった。下手に攻撃を仕掛けられる相手ではない。炎龍は目の前の自分より遥かに小さなこの男に、自分と同格以上のものを感じ取っていたのだった。
「待て。お前には何もするつもりはない」
彼が警戒を解くように促す。張り詰めた空気がわずかに解消された。
『お主。話せるのか』
「ある事情でな」
彼はそっけなく言うと、炎龍の横で目を丸くしている金髪の幼女に目を向ける。
「隣にいる嬢ちゃんは無事のようだな」
そして彼女に近寄り、連れ出そうとしたところで、
『待て』
静止がかかる。当時若気の至りにあった炎龍は、ただならぬ気を放つ強者に対し決闘を申し出たのだった。戦士を自負するジルフは、売られた勝負は受けて立つのが性分だった。
イネアを脇に置いて、両者二十メートルほど離れた状態で戦いは始まる。
勝負は瞬きをするまでの間、まさに一瞬で付いた。男は炎龍自慢の猛火のブレスを迸る気だけで弾き、猛然と迫ると魔法も使わずに宙を飛んだ。そして、ガードが全く追いつかないうちに首筋にピタリと気剣を当てたのである。
炎龍が唯一人間に対し実力で負けを認めた瞬間であった。
『我の負けだ。まさかこのような人間がいるとは。良ければ、名を答えてはくれぬか?』
「ジルフ・アーライズだ」
気剣をしまい地に降り立った彼は、汗一つかいていない顔でそう名乗った。
『そうか。ジルフよ。お主の名は未来永劫記憶に留めておこう』
「そうかい。光栄なことだな」
孤高の二者による決闘は、力のないイネアにとっては眩し過ぎる世界だった。彼らには世界を自由に生きるだけの力がある。対して自分は、この世界に見捨てられてただ死ぬのを待つばかり。
幼いながらにそのことを心で感じ取った彼女には、ある想いが芽生えていた。
強くなりたい。まだ死にたくない。
「嬢ちゃん。こんなところで一人は危ないぞ。うちへ帰りな」
「おうちがないの。もりには、もういられないから」
ジルフは、その一言で全ての事情を察した。
森を追放された幼いネスラ。放っておけば間違いなく死んでしまうだろう。
彼は彼女の目を見た。彼女には生きる意志があった。このまま死なせてしまうのは忍びない。
懐から世界計を取り出して、この世界における残り時間を確認する。約三十年。これだけ時間があれば十分だと彼は思った。
彼にはどうせやることがなかった。彼女が一人でも生きられるようにすることをこの世界における目的にするのも良いかもしれない、と彼は頷く。
「嬢ちゃん。名前は」
「イネア」
「イネア。俺と一緒に来るか」
男は手を差し出した。それはイネアにとって何より大きくて温かい、救いの手のように思われた。
彼女は小さな両手を目一杯に差し出して、彼の手を取った。
それがジルフとイネアの最初の出会いであった。
『あのときの小娘が、随分と立派になったものだ』
「これだけ時が経てば人も変わるさ」
変わらないものもあるがな。イネアは、師に育てられた厳しくも温かい日々を思い返し懐かしさに浸った。憧れ、尊敬、そして。彼女が師に対して抱く想いは今も変わらない。
「それより、森では私の弟子と一戦やらかしてくれたそうじゃないか。中々骨がある奴だっただろう?」
『うむ。自慢の尻尾を切られてしまったわ。まあじきにまた生えてくるがな――それにしても、あの人の子の師がお主とは。運命とは面白いものだ』
彼女と炎龍には、もはや協力するに際して余計な言葉は不要だった。
「手を貸すぞ」
『助かる』
イネアは炎龍の背に飛び乗り、右手から気剣を開放した。
相手はあの黒龍だが、死んでいて気力がない分だけ格は落ちる。あのとき師がやって見せたように、今の自分に龍を斬るだけの力があるか――
これは彼女にとっての挑戦だった。あのとき黙って見ているしかなかったあの境地に少しでも迫ることが出来たのか。全員の命がかかる中での、決して失敗が許されぬ挑戦だった。
だが、彼女に余計な気負いはなかった。一流の戦士としての自信と、必ず成し遂げるという決意を持って力強く言った。
「行くぞ。炎龍」
炎龍が唸り声を上げて黒龍へ向けて走り出す。同時に黒龍も動き出した。
黒龍から炎龍の背に向けて黒炎の火球が放たれる。
しかしイネアは動じない。鍛え抜かれた気剣を振り抜くと、黒炎は真っ二つに切り裂かれて彼女の身体の左右を通過していった。
間もなく、二体の龍が身体をぶつけ合う。その衝撃が大気を揺るがした。いくら巨体とはいえ黒龍に比べれば小さい炎龍ではあるが、それでも腹に噛み付きながら意地で張り合う。炎龍が黒龍の動きを止めているうちに、イネアは黒龍の背に向けて跳び出した。