44「気剣術のイネア VS 英雄クラム・セレンバーグ 1(イネア視点)」
目の前の男。クラム・セレンバーグ。話には聞いたことがある。かつてサークリス付近に襲来した黒龍を瞬殺した英雄であると。黒龍と言えば、数いる龍の中でも最大最強の種だ。私でも相手をするのは骨が折れる。殺すのは不可能に近いだろう。およそ人間が単独で倒せるような相手とは思えないのだが。
ましてやこの男。気力や構えを見ても良くて上の下だ。全体として達人の域に達しているには違いないが、それならば普通は身に付けているはずの相手の気というものへの意識がまるでない。どうもちぐはぐな印象を受けるのだ。ともかく、現状見る限りではディリートや私の方がまだ出来るというもの。果たしてどんな実力を隠しているのか。
ユウやアーガスの話によれば、一瞬で動く厄介な技を使うという。距離を取って戦った方が良いだろう。接近しなければ気剣を叩き込めないのが心苦しいが、まずは情報を集めることが先決だ。
隙を見せないように構えていると、彼が口を開いた。
「戦う前に一つだけ言っておこう。貴女たちはここから逃げることは出来ない」
「確かに閉じ込められたな。逃げ場はないというわけだ」
「いや。そのことではない。貴女の転移魔法は封じさせてもらった」
「なに?」
あれを封じただと!? そんな真似が出来るというのか?
努めて平静を装っていたが、ほんの少し心が揺らいでしまったのを奴は見逃さなかったようだ。
「僅かに動揺したな。どうせユウを助けたらそれで逃げる腹積もりだったのだろう? 残念だったな」
「ちっ。お見通しというわけか。どうしてそんな真似が出来たのだ?」
「なに。うちのマスターが転移魔法には詳しいものでね。この地下では使えないようになっているのだよ」
まずいぞ。転移で出られないとなれば本当に逃げ道は存在しない。万事休すか。
いや――
そうとは限らないな。見たところ、周りの壁は至って普通のものだ。これによって転移魔法が妨害されているとは考えにくい。ならば、その使用を不可能にする何らかの装置がこの地下にあると考えられる。それを探し出し破壊すれば、あるいは何とかなるかもしれん。
ただ――
私は苦い顔をした。
この男がそれを許してくれそうにないがな。
私は着ているジャケットの内側からスローイングナイフを一本取り出した。ユウにあげたものと同じものだ。激戦を想定し、持てる限度の二十本を持ってきた。その一本に気を込め、奴の胸の中央目掛けて投げつける。
私の気は相当に強力だ。ナイフは速いぞ。気力強化もしていない貴様には到底避けられまい。さあどうで――
!?
――なるほど。これは厄介だ。奴は一切動いていないにも関わらず、いつの間にかナイフが奴の後ろを通過したらしいな。奴の後方約二十メートルの壁にしっかり突き刺さっているのが気でわかる。
「今度は私から行くぞ」
そう言いながらも、奴は剣を構えたままじっと動かなかった。奴と私は十メートルは離れている。大抵どんな攻撃を仕掛けて来られようとも私ならまず対処出来る間合いだ。黙っていても隙など出来はしないぞ。なぜすぐに仕掛けて来ない。一体何を考えている。
まさか。
私の直感が警鐘を鳴らした。この距離は奴の「射程内」か!
咄嗟に身体が動いた。慌てて飛び退いたとき――
!?
気付けば、奴は一瞬で私の目の前にいた。奴の剣が私の心臓を狙い真っ直ぐに突いてきていた。直感を信じなければ死んでいたな。
――飛び退いたままの体勢から攻撃に移るのは無理だな。せいぜい身を翻して攻撃をかわすのが精一杯か。
私は突きをかわし、体勢を直しつつ奴の横をすり抜けるように交差すると、全速力で距離を取る。今度は十五メートルばかり離れたところで止まった。やれやれ。気剣を叩き込むにはさらに遠くなった。
振り返った奴が感心したように言った。
「ほう。今のをかわすか」
「伊達に場数だけは踏んではいないさ」
「ふっふっふ。これだから強者との戦いは面白い。いつもあっさり終わってつまらないからな」
「生憎私には戦いを楽しむ感性はないのでな。一人で勝手に楽しんでいろ」
「そうさせてもらうとしよう」
奴がこちらへ駆け出してくる。おそらく意識してのものではないが、剣士としての長年の戦いで自然と身に付いたのか、動くときには勝手に中程度の気力強化がかかっている。かなりの速さだが、スピードだけならば私の方が二歩は速い。だが、それがそのまま勝敗を決めないことはもう良くわかった。一気に近づいて斬りに行くのは危険過ぎる。奴の技の正体がまだ見えていないからだ。
牽制にさらに一本ナイフを取り出して投げつつ、奴から遠ざかる。少なくとも十二メートル以上は距離を取らねば即死の危険がある。
またあの技でかわすのかと思いきや、今度は普通に避けた。なるほど。どうやら連続での使用は出来ないようだ。先程仕掛けると言いながら少しの間動かなかったのは、技が再び使用可能になるのを待っていたと考えることは出来ないか。早計は危険だが。
――命賭けにはなるが、少し釣ってみるか。
私は奴から背を向けると懐からあるものを取り出し、見えにくいように胸の間に挟んだ。それから敢えて自然らしく壁際に追い詰められるような動きをし、「射程内」ギリギリの十一メートル位置につけた。
餌はやった。果たしてどうなる――
!?
――賭けには勝った。この距離ならば、奴には正面から突くか斬るしかする余裕はない。予想通り用心深い性格の奴は、私の胸にあるものを見て一瞬だけ動きを止めてしまったようだ。
「なんだそれは」
私は胸に挟んであったものを奴の眼前に投げつけた。
「特製の小型爆弾だ。本来私の主義じゃないのだがな」
爆発半径は五メートル。ものの一瞬で起動するが、私の速度なら余裕で避けられる。しかし貴様はどうかな。
「ちいっ!」
私は焦った奴の声を聞きつつ瞬時に横にステップする。直後爆発が起こった。奴もまた飛び退いて事なきを得たようだが、爆風に巻き込まれて何の怪我もなしに済まなかったのは間違いない。
奴は少しなりとも動揺しているはずだ。その隙を逃しはしない。私はスローイングナイフを一気に十五本取り出し、全てに気力を込めた。さらにあまり得意ではないが魔法でそれらを浮かせ、奴の周囲を覆うように配置する。合図をかければ中心の奴に向かって回避不能な速さで飛んでいくようにした。
さらにもう一本。こっちはわざと遅くし、かつ奴とは関係ない方向に飛ぶようにしておく。ある狙いがあってのことだ。
普通に考えれば逃げ場は存在しない。これで奴の技の真価がわかるか。
いけ!
!?
気付けば、奴はナイフの結界の外側にいた。私はすぐに関係ない方向に飛ばしたナイフを確認する。認識が飛んだ瞬間からナイフはほとんど動いていない。
――わかったぞ。
常識を疑うが、これしか考えられない。
なんという厄介な力だ。
全身に嫌な汗が流れる。ここまで危機感を持ったのは、ウィルと戦ったとき以来かもしれん。
私はこれまでの奴の動きから割り出した。
約2.1秒。
この時間は一見すると短いが、このレベルの戦いにおいてそれはあまりにも大きい。絶望的と言っても良いほどだ。
私は奴に答えを突きつけた。
「貴様――時間を操作するな」
奴は少し驚いたように感心し、それから口角を上げた。
「ほう。よくわかったな」