39「敵中ただ一人」
本性を現したトール・ギエフは、もはやあの穏やかな人当たりの良い講師ではなかった。今や奴は残忍さと狡猾さを湛えた凶悪そのものな顔つきに変わり、先程まで柔らかだった眼つきも獲物を狙う鷹のように鋭く、おぞましいほどの威圧感を放っていた。
奴は懐から「マスター・メギル」の仮面を取り出し、私に見せ付けながら言った。
「誰でも人は仮面の下に本当の素顔を隠す。目に見えるか否か。違いはそれだけに過ぎない」
仮面をしまうと、奴は再びこちらを嘲るように口角を上げた。
「我が城へようこそ――ユウ君」
私は戦慄した。全身が凍るような思いだった。
ここは敵の本拠地。周り全てが黒一色。
対する私は一人だけ。
――絶対絶命の窮地。まさにその言葉通りの状況だった。
私は呪った。
何も知らずにこんなところに一人足を踏み入れた自分の迂闊さを。
何より、これまで奴に気を許してきた自分の間抜けさを!
胃が裏返りそうになるほどの悔しさと怒りに身を震わせていると、奴はいたく満足気に嗤った。趣味が悪いことに、こんな私を見て愉しんでいるのだ!
奴はさらに追い討ちをかけてきた。
「そうだ。君に改めて紹介しよう。我が優秀な部下、カルラ君だ」
なんだって!?
驚いてまた振り返ると、彼女が仮面を外した。
その下から現れたのは――
死んでしまったはずのカルラ先輩の顔だった――
目を疑った。信じられなかった。
なぜ、あの先輩が――
酷く狼狽してしまい、どこに抱えた怒りをぶつければ良いのか一瞬わからなくなる。
なにしろ、事件の被害者と思われていた人物と加害者が全くの同一人物だったというのだから。
何も言えないでいると、彼女がとぼけたように言った。
「演習は楽しかったかしら?」
その言葉を聞いて、さすがに頭ではわかってしまった。
彼女は紛れもなく、あの仮面の女なのだと。マスター・メギルたるトール・ギエフの一の部下なのだと。
考えてみれば、奴がマスターである時点で当然のことだった。
あれだけ執拗に私たちをギエフ研に勧誘していたことも、今になってみれば白々しい。あわよくば仲間に引き込むか、無理なら始末してしまおうとでも考えていたに違いない。
ふと、ミリアが彼女を見ていたときの表情が、なぜ時々曇っていたのかがわかったような気がした。
ミリアは人を見る目に関してはかなり鋭いところがある。逸早く私の正体を見抜いたように、きっと彼女の正体を薄々見抜いていたんだ。だけど、おそらくこんな残酷な事実を信じたくなかったから何も言わなかった。
私だってそうだ。こんなこと事実であってほしくなんてなかった!
なぜミリアが危険にも関わらず、彼女の元に一人で向かったのかも今ならわかる。きっと説得しに行ったんだ。カルラ先輩なら話せばきっとわかってくれると思ったんだ。彼女を反省させる辛い役目を私とアリスに背負わせたくなくて、ミリアはあえて一人で向かった。ミリアは、カルラ先輩の良心を信じていた。だから一人で向かえた。
なのに、最後まで信じてくれたミリアをこいつは裏切った。石にするという最悪の形で!
そのことを心で理解したとき、私の中で彼女はもう暴走しがちだけど面倒見の良い愛すべき先輩ではなかった。この上なく憎むべき敵だった。気付けば身体は動き、叫びながら彼女の胸倉に掴み掛かっていた。
「おまえーーーー! よくもミリアをーーー! ミリアはお前のことを信じてたんだ! なのに! なのにどうしてお前はっ! ミリアを元に戻せ! 戻せよっ!」
彼女は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐにキレたように声を荒げて私を突き飛ばしてきた。
「邪魔よ! 騙される方が悪いのよ!」
弾かれるように尻餅をついた。
「うっ!」
トールはそんな私たちのやり取りを見て、殺したくなるほど憎たらしい嗤い声を上げた。
「ククク。愉快だ。実に愉快だ。笑いが堪え切れんよ――君が咄嗟に思い付いた作戦は実に素晴らしかった。大森林での失敗は不問にするとしよう」
「ありがとうございます」
なんだよ!? 作戦って!?
ほとんど疑問に思う間もなく、カルラが得意そうに説明してきた。
「ミリアを石にしたとき、気付いたのよ。このまま砕いてしまうより、餌にしてあなたたちを誘き寄せた方がいいとね。使われたのがロスト・マジックだと知ったなら、誰かが必ずここに来るはずと踏んだわ。それもわざわざ聞くだけに全員では来ないでしょう。特に急ぎならね。見事予想は的中した」
「君が一人でのこのこ来るとはな。君を捕らえれば、最も厄介な相手であるイネアも釣ることが出来る」
「くっ! くそっ!」
私は激しい焦りを感じながら急いで立ち上がった。
奴の言う通り、もし私が捕まって帰って来なければ、イネア先生はここを怪しむだろう。そしてみんなで助けに来てしまうだろう。そこに奴らは罠を仕掛ける気なんだ!
一網打尽。最悪の光景が過ぎる。
色々と言ってやりたい気持ちと思い切り懲らしめてやりたい気持ちで一杯だったが、理性はこの状況に対し逃げろと必死で告げていた。この場に二人だけなわけがない。きっと他にもたくさんの敵が待ち構えている。
一人ではどうにもならない。とにかく逃げなければ! みんなが危ない!
だが、どうやって!?
「さて、この長話で石化魔法の準備は済んだな。カルラよ。ユウも石にしてしまえ」
「はっ」
考えている暇はなかった。私は男に変身すると、すぐに気力強化をかけた。
「ほう。目の前で変化するのは初めて見たな。中々興味深い」
「ほんと何者なのかしらねえ。調べるのが楽しみね」
まるで実験動物を見るような目でこちらを見てくる二人に、俺は心底ぞっとした。
「なに。怖がらなくてもいいわ。一瞬のことよ――石になるのは」
飛び出すように駆け出し、部屋の入口に立ち塞がるカルラを押し切るつもりで突っ込む。
そのとき、彼女の瞳が怪しく光った。
――――なぜかはわからないが、とにかくなんともなかった。
驚く彼女を尻目に、俺は彼女を突き飛ばし返して部屋の入口を出る。そのまま廊下を駆け出した。後ろから声が聞こえた。
「まさか! 『ケルデスター』が効かないなんて!」
「ふむ。まさか、彼には一切魔力がないとでも言うのかね!?」
どうやら魔力がなければ効かないらしい。男になっていてラッキーだった。
窓を破って飛び出そうとしたが、この窓はかなり強力な魔法がかかっているらしく破ることが出来なかった。
トールから研究所内に音声が入る。
『ユウ・ホシミが逃走を図った。決して逃がすな!』
くっ。敵はどうあがいても俺のことを逃がしてくれる気はないらしい。
辺りの部屋からわらわらと人が飛び出してきた。
出てくる出てくる。彼らは、全て仮面を被った下っ端たちだった。
俺は左手から気剣を出した。
状況が状況だ。悪いけど、今日は手加減出来そうにない。
「死にたくない奴は道を開けろ!」
走りながら大声で言うと、下っ端の一人が立ち塞がり、中位光魔法『アールリット』を打ち込んできた。かつてアーガスが使った光弾の上位光魔法『アールリオン』の一つ下位に相当するロスト・マジックだ。
奴らは、ロスト・マジックの二大系統である時空魔法と光魔法(光魔法亜種の闇魔法も)を得意とする。
彼のそれよりは小さな光弾がこちらへ飛んでくる。魔法抵抗力のないこの身体でまともに受ければ、中位とは言えども少々危ない。
俺は気剣を一瞬盾状にしてそれを防ぐと、立ち塞がるその敵を容赦なく斬った。
別にあのときヴェスターが言ったように、命を絶つことにこだわりはない。そんな考えなんて糞喰らえだって思ってる。ただ、斬らねばならない状況で躊躇わないことを俺はこの半年で身につけた。ここで躊躇えば、仲間の命が危なくなるかもしれない。敵でも手心を加えて打ち身にする甘い奴だと思われれば、次から次へと敵は襲い掛かってくる。そんな贅沢が許されるのは、それでも何とかしてしまう圧倒的な強者だけだ。俺には残念ながらそこまでの力はまだない。いつかはと思うけど。
血の吹き出し方からして、彼(彼女)はおそらくすぐに死んでしまうだろう。少し胸に暗いものを感じながら俺は進む。
何人かは今ので怯んでくれた。おかげで無駄な戦いを避けることが出来た。
目指すは一階。正面出口から脱出する。研究所内は通路が割りと入り組んでいるが、案内されたときに道を記憶していて良かった。
必死に逃げ進み、ようやく出口の手前まで辿り着いた。中央にメギルの模型があるあのエントランスまで戻ってきたのだ。
このまま逃げ切ってみんなで作戦を練ろう。そしてミリアを助けるんだ。
そんな希望が見えたとき――
目の前には、あのクラム・セレンバーグがいた。
なぜここに!?
いや、なんとなくわかった。俺はあのとき、彼の前でヴェスターが急に狼狽していたのを見ていたからだ。
今この状況でここに立ち塞がっている者が、味方であるはずがない!
俺は油断なく正面を見据えた。敵は腐っても英雄だ。一気に距離を詰める謎の技もある。迂闊に近寄るな。
「大人しく捕まってもらおうか」
「はいと言うとでも?」
ウェストポーチからスローイングナイフを取り出した。炎龍戦で使った一本を除く残り九本のうち五本を、彼が避けなければいけない位置に思い切り投げつける。気で強化しているからかなりの速さだ。これで少しは反応があ――
!?
――――――な!?
気付いたとき――彼は全く動いてはいなかった。
だが、ナイフだけが――
一瞬で彼の後ろ側に周り、投げたままの予測される軌道でまっすぐ飛んで壁に突き刺さった。
なんだ!? どうなってるんだ!? 余計にわからなくなったぞ……!
ただ、これだけはわかった。
とにかくやばい。やばすぎる。
俺は全身にべっとりと嫌な汗が流れるのを感じた。炎龍のときに感じたものとは全く異質の恐ろしさだった。
彼はじっと動かず、そのまま出口の前に立ち塞がっていた。それで十分であるのがわかっているようだった。
実際十分だった。俺はヘビに睨まれたカエルのように動けなかった。あそこに近づいたら絶対にやられてしまう。そのことが肌でわかってしまったからだ。
やがて、後ろからトールとカルラが追いついて来るのが気でわかった。三対一になれば、余計に勝ち目はない。
もう動くしかなかった。残る四本を惜しげもなく投げつける。それと一緒に飛び出して、そのまま出口まで一気に駆け抜けようとした。
!?
一瞬だけ、俺が動けずにいる中、彼が俺の腹を殴るのが見えたような気がした――――