1「ユウ、異世界に降り立つ」
黒い空間にほわほわと淡く白いものがたくさん光る、星の海のような場所をひたすら流されていた。
私は向かう先に対する不安に押しつぶされそうになりながらも、その光景に心を奪われていた。
とても綺麗だった。今まで見てきたどんなものよりも壮大だった。
いつか宇宙図鑑で見た天の河の写真。あれが本当にあんな河だとして、その中を流されているならこれに近いものだろうか。
流されながら、自分に何かが、莫大な質と量の何かが流れ込んで来るような不思議な感覚があった。
やがて目的地に近付いたのか、元の宇宙空間に出てきた。
目前には、一つの星の姿が見えている。大きさのほどはよくわからないが、地球とそんなに変わっているようには思えなかった。海も陸地もあり、さらに雲が見えていることから大気もあるようだ。
ただ、大きく違う点もあった。それは、星の色が淡いエメラルドグリーンであるということだった。
気が付けば、私は再び肉体を伴って大地に降り立っていた。どうやら着いたらしい。
辺りを見回すと、そこは一面に広がるのどかな平原だった。息を吸い込むと感じる草の匂いが妙に心地良かった。
おかしなことになっていないかとすぐに身の回りを探ってみたが、身体も服も全てそのままだった。
ウィルに破かれたままの胸元もそのままだった。桜色の乳首が風に触れてぴくりと震えたとき、奴の嫌な手の感触がフラッシュバックして、私は身ぶるいした。
自分でも驚いた。情けないことに、身体が覚えてしまうほど心に傷を付けられてしまったらしい。
まだ、心臓がばくばくしている。
やっぱり私は、あいつが怖くて仕方がないみたいだ。
もし今度あいつと出会ったら、一体何をされてしまうのか。
考えるだけで身が竦む。
――今はあいつのことは、なるべく考えたくない。
何とか気持ちを切り替えようと思った。
別に誰も見てはいないが、このまま胸を晒しているのは精神衛生上良くない気がした。破れた服と胸のセットが、どうしても見るたびにあいつを思い出させてしまう。それにやっぱり恥ずかしい。
そう言えば。ウィルがいたときは身体の自由が効かなかったが、別に今なら好きに変身出来るんじゃないか。だったらこれ以上女でいることなんてない。
確か変身はスイッチを切り替えるようにして瞬時に出来るってあいつは言っていたな。
結局思考がウィルから逃れられていないことに苦笑いしつつ、私は目を閉じた。
変身、変身と意識すると、不思議と自分の精神世界のようなものがはっきりと認識できた。
なるほど。
これは最近よく見ていた夢にちょっと似ていた。
女の身体と、男の身体が、真黒な空間の中に存在している。念じれば、ゲームで操作するキャラクターを選ぶような感覚で動かす身体を選択できるというわけだ。
もちろん男になることにする。
身体に電流が走ったような衝撃が突き抜けると、次の瞬間には、俺の体は16年間使い慣れたものに戻っていた。
ムキムキではないが、ほどほどに筋肉質の体。
膨らんでいた胸が引っ込んでいるし、あれも確かにある。
「あーあー」
声もちゃんと元に戻っている。
確かに一瞬だった。ウィルの『干渉』とかいう能力。あれさえなければ変身は面倒なものではないようだ。
ああ。本当に良かった。毎回あんなに悶えなければならないのかと思った。あの、まるで全身を犯されているかのような感覚は――
うう。思い出したら余計に恥ずかしくなってきた。
気持ちを切り替えよう。それよりだ。
俺、本当に来ちゃったんだな。違う星に。
見上げれば、空の色は星の色と同じ淡いエメラルドグリーンだった。太陽によく似た恒星が空を明るく照らしている。
――これから、何をしたらいいんだろうな。どうやって生きればいいんだろう。
それは、本当なら地球にいるときにも考えるべき命題だったのかもしれない。ただ、日本の社会にはある程度レールというものがあった。それに乗っかっていれば、何も考えることなく普通の人生を歩めた。だから俺はあまり深く考えてこなかった。考える必要がなかった。俺にはその普通の人生で十分だったからだ。
でも、この上なく特異な運命に突然放り出されてしまったらしい俺には、もはや普通なんてものは望めないのは火を見るより明らかだった。
はっきり言うと、そのことにはかなり絶望している。俺は今だって、出来ることなら普通に生きたいと強く願っている。けれど、俺はいつまでもないものねだりをしたり現実逃避をするつもりはなかった。
もう地球に別れは告げてきた。強く生きるんだ。遠く離れたこの地で、また新しい人生を始めるつもりで。
そうと決まれば、こんな何もない場所で立ち止まっているわけにはいかない。生活の術を探らないと。そのためにもまずは、人がいる場所を探したいところだ。といっても、今のところ人なんて影も見当たらないが。
――いや、待てよ。
俺は、暗黙の内に期待した仮定が正しいとは限らないと思った。
ここは違う星なんだから、人間がいるとは限らないんじゃないか。そもそも考えてみれば、知的生命体自体存在しているかも怪しいし、もしいたとしても、人間とは似ても似つかぬものである可能性の方が高いんじゃないのか。エーナやウィルが普通に人間っぽかったから勝手に人がいると期待してしまっていただけで、実のところ彼らが例外であるというだけなのかもしれないし。
そう言えば。意識してなかったけど、俺が今普通に息も出来てこうして生きているということも、当たり前のことではない。もしかして、大気組成まで地球と似ているのだろうか。
だとしたら気になるのはこの空の色だ。大気の色というのは、太陽の光が大気中の粒子によって散乱することで生じている。もし恒星の光も大気組成もほとんど同じなら、空の色もまたほぼ同じでなくてはならない気がする。
だが、現実に空の色は違っている。素人だから予想が間違っているかもしれないが、おそらく恒星の発する光の波長か大気組成、そのどちらかあるいは両方が違うと考えるのが妥当だろうか。
とにかくわからないことだらけだ。
情報だ。あらゆることに対する情報が必要だ。知らなかったばかりに、一つの何気ない行動によってとんでもないことになってしまうかもしれない。右も左もわからない今、その可能性は十分にある。
けど誰もいない今、情報は動かなければ手に入らないわけで。結局頭を捻ったところで、とりあえず何かを見つけるまで歩くほかはないか。
そうして歩いてどれくらい経っただろう。
平原は果てることなく続いている。照りつける直射日光、もといあの太陽そっくりの恒星の光のせいで汗はびっしょりだ。
ここには、何もないのか。喉が渇いた。水が飲みたい。お腹もすいてきた。
だが、いくら求めても、食べ物もなければ人一人どころか生き物の影すら見当たらなかった。
やがて日が落ちてきたので、歩き疲れた俺は寝てしまった。
次の日からも、俺はひたすら歩き続けた。
でも、結論から言うと何もなかった。
日が昇って、落ちて。呑まず食わずでそれを四回も繰り返した頃、俺はついに体力の限界を迎えていた。
一度空腹に耐えきれず生えている草を食べてはみたが、まずかった上に腹を下して水分を失ってしまうだけの結果になったため、それ以降は口にしていない。
俺はもうとっくの前に倒れていた。身体に力が入らない。
こんなところで、俺は死ぬのだろうか。
わけがわからないまま、こんなところで。
ここに至って俺は、まず何よりも純粋に生き抜く力が必要だと痛感したのだった。今回のように人里の前に降りなかった場合、俺はサバイバルを余儀なくされる。
今回降りた場所は草原だったが、それでもまだ運が良い方かもしれない。
もし降り立った場所が砂漠や、樹海の奥だとしたなら。それどころか、陸地ですらない海の上なら。なすすべもなく俺は死ぬしかないだろう。
そうだ。ここは平和な日本じゃないんだ。異世界では何があるかわからない。弱いままでは、生きていけない。
俺は決意した。もし生き延びられたのなら、強くなってやろうと。こんな苦境にも対処できるくらいに、強くなってやると。
でも、もうダメみたいだ。
目を閉じると、今まで生きてきた光景が蘇る。走馬灯というやつだろうか。
最後に、なぜかエーナとウィルのことが浮かんだ。
あの二人は、既に長い旅をしてきている様子だった。なら、きっとそうした状況でも対処できる力が存在するんだろう。
フェバルには、この世の条理を覆す力が宿る。ウィルはそう言っていた。条理を覆せるなら、俺はこの状況をなんとかしたかった。
けど俺にそんな力なんてないことは、自分が一番よくわかっている。
そうだったな。
あいつは、俺の力がふざけた能力だとも言っていたな。まるで役立たずみたいに。
ああ。確かにそうだ。ふざけた能力だよっ!
俺は、半ばやけくそになったように能力を発動させた。髪がふわりと伸びて、胸が地面に押しつぶされる感触がした。
こんな風に女に変身出来たところで、一体何になるというんだ。
男であろうと女であろうと、所詮はただの人の身であることに変わりはない。どっちつかずの、面白人間になっただけじゃないか。
所詮異世界で生きていくには、私は、弱すぎたんだ……
だが絶望したそのとき、不思議なことに、身体にほんのわずかに力が戻っていることに気付いた。
なぜだろうと考えて、思い当たる。
そうか。極限の状況下では、女性の方が体力が保つとテレビかなんかで聞いたことがある。もしかしたらそれかもしれない。
能力を発動させたのは、考えあってのことではない。紛れもなくやけになってやっただけの偶然だった。
ただ私は、この素敵な偶然に感謝した。初めてこの能力に感謝した。
私は、まだ生きられるみたいだ。
そのことが、生を諦めていた私に再び僅かな希望を取り戻させた。
こうなったら最後まであがいてやる。まだくたばってたまるもんか。
私はさらに生き伸びた。もう一度日が沈み昇ってくるまで、私はよく生き抜いた。
そうして女になることで稼いだ時間が、私の生死を分けることになるのだった。
あたしは、愛鳥のアルーンに乗ってサークリスへ向かっている途中だった。
サークリス魔法学校。そこでの新生活が今から楽しみで仕方がなかったあたしは、ラシール大平原の上空を目的地に向けてひたすら飛ばしていた。
それにしてもここって、ほんと何もないよね。さすが死の平原というだけのことあるわ。
普通の生き物が暮らせない、もちろん人間にも使えない、魔力汚染まみれの土地。何でも遥か昔、ここには魔法大国があって、超大規模の魔法実験に失敗してこうなってしまったんだとか。キッサという、薬にもならない雑草だけがなぜかこの環境に適応し、一面に生えている妙な場所。それがラシール大平原だった。
そうして何気なしに下を見ていたとき、信じられないものを見つけた。あたしは目を疑った。
うそでしょ!? こんな場所の真ん中で人が倒れているなんて!
「アルーン、あの人の近くへ降りて! 急いで!」
降りて近寄ってみると、仰向けで倒れていたのは、あたしと同じくらいの年に見える少女だった。
珍しい黒髪、それに見たことない服だわ。まるで男物みたい。それに、胸元が破り取られた跡がある。一体、何があったというのかしら。
あたしは頬を軽く叩きながら、彼女に声をかけた。
「大丈夫!? しっかりして!」
すると、かすかに反応があった。よかった。生きてる。でも、すごく弱ってるみたい。
「み……みず……を……」
「水ね! わかったわ!」
あたしはたまたま持っていた予備の水筒を急いで取り出すと、ふたを開けて彼女に差し出した。まさか使うことになるとは思わなかったけど、持ってきていてよかったと思った。
「身体が弱ってるから、急いで飲んじゃだめ! ゆっくり飲んで!」
彼女はあたしの忠告をちゃんと聞いて、震える手でゆっくりと水を飲んだ。そして、予備の水筒を空にするまでよく飲んだ彼女は、安心したのか気を失ってしまったようだ。
「放ってはおけないわ。連れていこう。アルーン、ちょっと重くなるけど大丈夫?」
アルーンは任せておけ、と言わんばかりに鳴いてくれた。
こうしてあたしは、謎の少女を共に乗せて、全速力でサークリスへと向かったのだった。