後編
私の肉体は、既に見慣れた男のそれではなかった。
長く伸びた髪。
膨らんだ胸元。
身体中の柔らかな感触。
あそこにあるはずのものがなくなっている感覚。
なんて、ことだ。
私の身体は、すっかり女のものになってしまっていた。
それだけではない。
脳にまで変化が及んでしまったのだろうか。どこかで、このすっかり変貌した肉体を当たり前のものとして受け入れてしまっている自分がいた。
恐ろしいことに私は、私が女だと自覚してしまっている!
アスファルトに身を横たえたまま、己の変化に半ば茫然としてしまう。
そんな私に、誰かが近寄ってくる足音がした。たぶんウィルの奴だろうと思った。
私の横に屈み顔を覗き込んできたのは、やはり予想通りの人物、黒髪の少年だった。その顔は楽しそうに下卑た笑みを浮かべてはいるが、その目はまるで死人のように冷め切っており、私の全身に残る熱と快楽の余韻を、瞬時に凍てつかせるほど鋭い闇を放っていた。
一体どうして、何があれば、人はこのような眼が出来るというのか。
「はじめまして。もう名は聞こえたと思うが、僕がウィルだ。さて、能力に目覚めた気分はどうだ。ユウ」
「……散々私を弄んでくれたな。最悪だ。この野郎」
私から発せられたその声は、まるで声変わりする前のときのように高い女のソプラノだった。
「まあそう怒るなよ。中々見ものだったぜ。おめでとう。これでお前もフェバル、星を渡る者だ」
「フェバル……星を、渡る者……」
「そうだ。お前は、これから星々を彷徨って生きるんだよ。ずーっとな」
その言葉に込められた吐き捨てるような嘲笑が、嫌に突き刺さった。
先ほどから続く非日常の連続が、エーナとウィル、この二人の言葉に真実味を与えてしまっていた。そして、私が今この身体の私であるということが、さらに輪をかけて彼らの言葉に説得力を持たせている。
二人が言う、私が持つ能力。『神の器』なんて名前は気に入らないが、確かに今、私は性を超越していた。男と女を自在に行き来し、それに合わせて性の自己認識さえも変えてしまう。そんなふざけた存在に、私はなってしまったらしい。
意識は連続している。私は、男の自分のことを別人のようにまでは思っていない。どうやら多重人格ではなく、あくまでこれまで通りの一個の人格で、性に関する部分だけモードが変わっていると考えて良さそうだった。
彼らが言った通り、能力には目覚めてしまった。ならば、私が星を渡る者になるという言葉だけが嘘のようには、もうとても思えなかった。
だとしたら。
私はもう、この町で暮らすことは出来ないのだろうか。この日本を、それどころか地球をも離れて、全く知らない場所に一人で飛ばされてしまうのだろうか。
そう考えると、無性に不安になった。無性に悲しくなってきた。
どうして。
どうして、私がそんなことにならなければならないんだ。家族と呼べる人はいない。親戚には会いたくもない。生活はいつもぎりぎりで、部活も出来ないし、友達ともあまり遊べない。
それでも、それでも。
私はそれなりに楽しかったんだ。いつかは普通に働いて、普通に恋をして、結婚して、普通に子供作って――
家族がいないから、私は憧れていたんだ。普通の家庭に。普通の人生に。そういう普通の幸せを望んでいたんだ。
なのに。
「なんだお前。悲しいのか?」
「当たり前だろう! どうして、こんなことに……」
「そうかそうか。お前の都合なんて、どうでもいいね。それよりもだ」
ウィルが、今度は嫌らしい笑みを浮かべた。
「そんな男の恰好じゃせっかくの胸が窮屈だろう?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。その意味を理解する前に、ウィルが、私の服を強く掴んだのだ。
「なっ!」
私は、それまで沈んでいた気持ちを頭の奥へ押しやってしまうほどに驚いた。
彼は私が抵抗する間もなく、私の上着を紙切れのようにいとも容易く引き裂いてしまった。
露わになるのは、くびれた腰と白い肌。そして胸につんと張った2つの膨らみ。
それらのものが、私が本当に女になってしまったことを高らかに誇っているかのようだった。
男なら決して何とも思わない場所なのに、そこを晒したことに今の私はひどく羞恥を覚えてしまった。そのことに驚きつつも、とんでもないことをしでかした彼を殺さんばかりの視線で睨みつけた。
「なにを、なにをするんだよっ!」
「いいねえ。その反抗的な目、気に入ったよ――うん、そうだな。決めたぞ。ユウ、お前は今から僕のおもちゃだ」
彼が私に手をかざすと、また身体から力が抜けていく。動こうとしても全く動けない。
「どうだ? 身体に力が入らないだろう? 僕の『干渉』でお前の『神の器』をコントロール出来るんだ。僕がお前の変身能力に干渉している間、お前の身体は自由が利かない。男にするも、女にするも、あえて中途半端にしてさっきのように喘がせるのも自由自在だ。お前は泣こうが喚こうが、決してこの僕に逆らうことは出来ない。ほら、こうやっていいように身体を弄られてもな」
彼が手を伸ばすと、胸を痛いほど強く掴まれた。そして、そのまま乱暴に揉みしだかれる。
揉まれるたびに、ぞくぞくと生理的嫌悪感が込み上げた。なのにその手を退けようとすることも、喋ることも、彼から顔を背けることすらも出来ない。
悔しかった。
吐き気がするほど嫌な気分だった。
女になって最初にされることが、こんなレイプまがいのことだなんて。
屈辱だった。同時に、死ぬほど怖かった。
そんな私の様子を見て、彼は愉しんでいるようだった。
「くっくっく。人が恐怖に顔を歪める様は、いつ見ても良いものだ。やはり、人間の感情は素晴らしい。だがなあ、覚えておけよ。それは僕の最も嫌いなものでもあるのさ!」
彼は突然激昂すると、私の胸から手を放し、代わりに両肩を掴んで、唇が触れてしまいそうな距離まで顔を近づけてきた。
そして、身も凍えるような甘い声で囁きかけてくる。
「いいか。僕はいつも退屈なんだ。まともな感情を入れる器なんてとっくの昔に擦り切れて、壊れてしまってるのさ。僕は人間の形をした化け物だ。そして、お前もいずれはそうなる。ユウ。僕はお前が壊れていく様が見たい。擦り切れていく様が見たい。さあ、お前は何を見せてくれるんだ?」
あまりの恐怖で、気がおかしくなりそうだった。
こんなに震え上がったのは、生まれて初めてのことだった。
彼の全てを犯しつくすかのような凍てつく眼が、私を捕らえて放さない。放してくれない。
私はこれから先、この男の掌の上で弄ばれてしまうのか。私が壊れてしまうまで、彼は許してくれないのか。
それは、何よりも恐ろしいことだと思った。
私は、気がつけば涙を流していた。まるで彼に許しを乞うように。それが情けないことだと思う余裕すらなかった。
だが目の前のこの男は、そんな私に対して何をするわけでもなく、ただ私をじっと見つめていた。
その光なき漆黒の瞳で、ただ私のことをじっと見ているのだ。
不気味で仕方がなかった。感情が読めない。
彼は一体私をどうするつもりなのか。私には彼の考えがわからなかった。
いや――
極限の恐怖の中で、私は気付いてしまった。
彼はこの私のことなど、どうでもいいのだと。
彼は、いつも退屈だと言っていた。そんな彼にとっての世界は、全てがすっかり色褪せたものなのかもしれない。だからこんなにまで、彼の眼は冷たくなってしまえるのかもしれない。
底知れない彼の闇の本質の一端に触れた気がしたとき、恐怖は少しだけ和らいだ。涙も止まった。
悟ってしまったのだ。無駄なのだと。
この人には、私のちっぽけな存在なんて本当にただのおもちゃに過ぎない。何をしようと、決して彼の心の底には届かないのだと。
私は全ての抵抗を諦めた。無駄なことはやめようという開き直りだった。これ以上の醜態を晒すより、完全に彼を受け入れることにしたのだ。
今の私は、きっと彼の望むままに何だって差し出してしまうだろう。
そんな後ろ向きの覚悟から、逆に見つめ返してやる気概も戻った。
彼はそんな私の心境の変化を察したのか、そこで再び口を開いた。
「へえ。そんな顔も出来るのか――なるほど。少し見つめ過ぎたらしいな。だが、勘違いするなよ。僕が見たいのは、お前が擦り切れる様だ。それは時間をかけてゆっくりと仕上がっていくものだからな」
そのとき、彼の身体の色が徐々に薄くなり、透け始めた。
「……ちっ、星脈が動き出したか。運が良かったな。今回は終わりだ」
見ると、私の手も透け始めていた。
予想はしていたがまだ覚悟が出来ていなかっただけに、ショックは大きかった。それでも、今までウィルから受けてきた扱いを思えば、このタイムリミットによって私は助かったのではないかとまで思えてしまう。
ふと最初に出会った金髪の彼女のことが気にかかった。
「エーナ……そういえば、エーナは?」
「ああ。あいつか。うるさいから消したよ」
思い出されるのは彼女の大きな悲鳴だった。最悪の想像が口をついて出た。
「殺した、のか?」
しかし、それを聞いたウィルは意外そうな顔をした。
「うん? なんだ。エーナにその辺聞いてなかったのか?」
「どういうこと!?」
「教えてやるのもつまらないな。ヒントだけやるよ。あいつは確かにお前を助けようとしていた。お前を殺すことでな。後は自分で気付くといいさ。なに。どうせいずれわかることだ」
いずれわかることとは何だろう。なぜ殺されることが救われることになるのか、私にはさっぱり見当が付かなかった。
「じゃあな、ユウ。少しだけ楽しかったぜ。これからたくさん遊んでやるから、覚悟しておけよ?」
ウィルが初めて、ほんの少しだけ本当の感情を見せてくれたような気がした。彼とはまた会うことになるだろうと思った。私は、彼の存在を強く心に刻みつけた。
天敵として。恐怖の対象として。そして、深い闇を抱えた一人の人間として。
彼が消える。そして、私もまた消える。
身体の感覚がなくなって、意識だけが宇宙空間に放り出された。
目の前に映ったものがあった。
それは、紛れもなく私たちが暮らす星。生命溢れる美しいブルー・アースだった。
その悠然たる姿を外部から眺めたとき、私はもうこの星には居られないのだということが、とうとう腑に落ちてしまった。
そうしていざ別れを告げるという土壇場になって、私は初めて気付いてしまった。
私は、心からこの星を愛していたのだと。
今まで当たり前過ぎて気付けなかった。この星で生きて、死んでいけること。それがどんなに幸せなことだったのか。もう叶わない今になって、ようやく気付いた。
気が付けば、私はまた泣いていた。声も涙もなかったけれど、私はきっと泣いていた。
たとえ私がいなくなっても、変わらず世界は廻っていくのだろう。
けれど。私は確かにここにいた。私はこの星で、確かに暮らしていたんだ。そのことを誰が忘れても、世界が忘れても、私だけは忘れないでいようと思った。離れてしまったら、思い出だけが私がここで生きた証なのだから。
それは少しずつ、だが確実に遠ざかっていった。やがて見えなくなってしまうまで、私はそれを目に焼き付けた。決して忘れてしまわないように。
さようなら、地球。
さようなら。私の、生まれ育った星。