5「レンクスと「私」」
レンクスは、何も言わずに私を受け入れた。慰めていたはずの私が、逆に彼に愛おしむように包み込まれる。そのまま、しばらく二人で静かに身を寄せ合った。
彼から感じる体温とともに、心も温かいもので満たされていくようだった。彼に触れるうち、私の中で彼に対する警戒心は再びなくなっていた。
やがて彼の腕が緩んだ。そっと顔を離したとき、彼の顔はもう素に戻っていた。
「みっともないところを見せちまったな」
照れ臭そうにぽつりと呟いた彼に、私は気にしないよと伝えるつもりで言った。
「いいよ。理由は知らないけど、泣きたいときは泣くのが一番だよ」
泣いたらすっきりすることは、あっちのユウを見てて良くわかっていた。
「大人は、泣きたくても泣けないときも結構あるんだぜ」
「そんなものかな」
「そういうもんだ――でも、ありがとな」
「うん。どういたしまして」
どうやらそこそこ気を取り直したらしい彼は、まだ悲しさは見えるけど幾分すっきりした顔をしていた。
「しかし、子供に慰められるとはな」
その何気ない言葉に、私は少しむっとした。
「あんまり子供扱いしないでよ。身体は小さいけど、ちゃんと色んなこと知ってるんだから」
対する彼の反論は冷静だった。
「いくら知識だけあっても、経験が追いついてないうちはまだ子供だ」
痛いところを突かれた。確かに、経験という意味では年齢相応のものしかない。
「むー。やっぱりそうかな?」
首を傾げた私に対して、レンクスは面白がるように笑った。
「はは。お前、結構おませちゃんなんだな」
おませちゃん。
私の性格を一言で言い当てられたような気がして、心にグサッときた。
「おませちゃんってなにさ」
もう、と頬を膨らませた私を見て、彼はますます面白がってにやにやしていた。そのことがまた腹が立つっていうか。とにかく、私は機嫌を損ねた。
「あれ、いじけちゃったか。可愛いな」
「可愛いなんて言ったって知らないもん。レンクスなんかきらい」
そっけなく放ったこの言葉は、案外彼の心を深く抉ったようだった。
「ガーン! そりゃないぜ!」
「ふーんだ」
「まいったな。機嫌直してくれよ~」
「しーらない」
「悪かったって。ほら、この通り!」
そう言って頭を下げた彼は、しかし顔が楽しそうににやけていた。謝っているというよりはコケにされているような印象を受けた。
私を舐めてるの?
「ちゃんと謝ってない。しかもなんでにやけてるの。きもい」
「いや、これはお前があんまり可愛いからついな! 頼むから嫌いにならないでくれ~!」
「だからもう知らないってば」
しばらくこのやり取りが続き、あまりしつこく食い下がる彼に私は段々どうでも良くなって結局許してしまった。
それから、レンクスがかなり元の調子に戻ったと判断した私は、棚上げにしていたことを尋ねることにした。
「聞いてもいい?」
「いいぞ」
「私が気を失ってる間に、一体何があったの? 私の奥に人がいるって言ってたけど、それは誰なの?」
この質問が来ることはわかっていたのだろう。彼は、眉一つ動かさずに答えた。その答えは、私にとっては予想外のものだった。
「お前のお母さんに会ってた」
私は、ひっくり返るほどの衝撃を受けた。
「お母さん!?」
信じられなかった。だって、お母さんはもういないはずじゃないの?
驚く私をよそに、レンクスは頷いて続けた。
「ああ。正確に言えば、お前が持つお母さんに関する記憶が集まって形を成したものだ。女のお前という存在の重大な一部分を成しているのがお母さんなんだ。それを俺が『反逆』で呼び出した」
言われて、はっとする。
「気付かなかった。考えてみたら、お母さんの記憶だってあるはずだよね」
――そっか。お母さんが、私の中にいるんだ。
胸に手を当てて目を瞑ると、かすかにお母さんを感じたような気がした。
「俺はお前のお母さんと親友でな。少し話がしたかった。その間悪いけど、お前には奥で眠ってもらってたというわけだ」
「そういうことだったんだ」
記憶であっても、お母さんがいる。そのことがわかったら、とっくの前に諦めていた叶わないはずの望みが心の内に蘇ってきた。もう一度お母さんに会いたいと思った。
「ねえ。私とあっちのユウも、お母さんに会えないかな?」
だけど、それはやっぱり叶わない願いだった。レンクスが、申し訳なさそうに言った。
「すまないけどな。お母さんを呼び出せるのは一度切りだ。それにお前の中にいるわけだから、お前たちが会うのは原理的に無理だな」
「そっか。残念」
「そう言う割にはあまり悲しそうじゃないな」
彼が意外そうな顔をした。きっと私がもっと落ち込むと思ってたに違いない。
確かに会えないことへの落胆はあるけど、私は悲しくはなかった。
「もういないって思ってたから。お母さんが一緒にいるってわかっただけでも嬉しいよ」
「そうか。強いんだな」
別に強くはないと思う。二年も時間があったからちょっと気持ちの整理がついてるだけで。まだ寂しくてどうしようもないときもある。
そこで、彼にとってはまだお母さんの死は知ったばかりであることに思い至った。彼が泣いていた理由がわかった。
「レンクスは、お母さんにもう会えないから泣いてたんだね」
「そうだ。でも、最後にきちんと別れを言えて良かった」
彼の顔は満足気だった。
「お母さん、なんて言ってたの?」
お母さんのことだから、きっといつもの得意な調子でべらべらと話したんだろうな。時々ついていけないところがあったけど(例えば、五歳だった私にオートマチック銃について小一時間語るのはどうなの、お母さん)、私はいつも明るくて優しくてカッコイイお母さんが大好きだった。少しでもあんな風になれたらいいなって思う。
すると、なぜか彼は少しばつの悪そうな顔をした。
「まあ、色々とな」
「色々? 例えば?」
「それは秘密だ」
「えー。気になるよー」
何か私には言いにくいようなことでも話したのだろうか。後ろめたそうに誤魔化す彼に、女としての勘が怪しいと告げていた。
「何か言えないことでも言ったの? 本当にお母さんとはただの親友?」
当てずっぽうで放った一言が、彼をほんの少しだけぎくりとさせた。その反応を見逃さなかった。なるほどね。その線か。
追いこもうとしたら、彼が先に観念した。
「あー。わかった。まいったよ。さすがユナの娘だ。鋭いところもあるんだな」
「まあね」
彼は、一息つくと言った。
「俺な、お母さんのこと好きだったんだ。けど、そのことがずっと言えなくてさ。今日やっと言えた。もちろんダメだってわかってる上でだけどな。気持ちの整理を付けたかった」
レンクスってお母さんのこと好きだったんだ。確かにこれは言いにくいだろうね。私はいわば恋のライバルの子供ってことになるわけだから。まあ、お母さん魅力的だもんね。好きになるのも仕方ないよ。
――もしかして、お母さんが言ってたのはこの人のことだったのか。
「そう言えばお母さん話してた。私のこと好きなくせにちっとも告白して来ないヘタレの男がいたって。あれ、レンクスだったんだ」
「うっせえな。人のことヘタレヘタレって。いつも肝心なところで別れちまうから言えなかったんだよちくしょう!」
「ふふ。カッコ悪いね。お父さんの方が百倍はカッコイイよ」
「そうだな。俺はカッコ悪いよ。色々と言い訳して、最後の最後になるまで何も言えなかった情けない奴さ」
軽く凹んだ彼を見て、ちょっとかわいそうかなと思った。フォローしてあげようかという気分になる。
「でも、お母さん言ってたよ。もっと早く勇気を出してくれたら考えてやったのにって」
すると、彼は面食らったような顔をした。
「マジかよ。あいつ、タイプじゃないから振るって言ってたくせに」
「お母さんもレンクスのことは悪く思ってなかったんじゃないかな。あなたのこと話してるとき、凄く楽しそうだったもん」
「ったく、素直じゃないな。あいつも」
やれやれと溜息を吐いた彼は、嬉しそうだった。
「けど、私はお母さんとお父さんがくっついてくれて良かったな。お母さんもお父さんも世界で一番幸せそうだったし。それに、じゃないと私が生まれないからね」
「だな。俺もこれで良かったと思うぜ。お前のこと話してるときのすっげー幸せそうなあいつの顔見たら、こっちまで嬉しくなってきてな。別に俺じゃなくてもあいつが幸せならそれでいいかって思えた」
そう言った彼は、すっきりとした顔をしていた。普通、恋に負けたらもっと悔しがったり相手を妬んだりするものだと思う。心の底から好きな人の幸せを願えるのは、素敵だなと思った。
「私にも何か言ってた?」
「ああ。お前のこと愛してるってよ。ずっと見守ってるって」
お母さんが私のこと愛してくれてるのはよくわかってたけど、改めて聞くとやっぱり嬉しい気持ちになる。
「えへへ。嬉しいな」
私は、この気持ちをあっちのユウにも分けてあげたいと思った。
「ねえ。レンクス」
「なんだ」
「このこと、あっちのユウにも伝えてあげてね。絶対喜ぶから」
「記憶は共有してないのか?」
「今はね」
「そうか。よし、いいぜ。全部話すと混乱するだろうから、それとなく伝えておいてやるよ」
確かに、変なことを知って不都合が生じないようにあっちのユウの記憶を封印しているのだから、全て話してしまうのはまずいよね。
「うん。それでお願い」
「任せろ」
少し間を置いて、彼は話題を変えてきた。
「ところで、お前にも用がある」
「なに?」
「仲間として一応把握しておきたいんでね。お前自身の能力について何か知ってることはあるか? どうせあの様子じゃ男の子のユウは何も知らないんだろう?」
何が仲間なのかは判然としないけど、能力については心当たりがあった。それに、あっちのユウが何も知らないと見抜いて私に聞く判断をする辺り、手際が良いと感じた。
「確かにあっちのユウは何も知らないね。私の中には何か大きな力が眠っているみたいなんだけど、能力ってそれのこと?」
「おそらくそれだな」
訳知り顔で頷くレンクス。私なんてほとんど何も知らないし、むしろこっちが彼に色々と聞きたい気分だった。
「あれって何なの? 私って一体何者なの?」
「その言い方からすると、やっぱりお前はまだよくわかってないみたいだな。簡単に言えば、俺もお前も特別な力を持った人間だ。フェバルと呼ばれている」
「フェバル……」
そういう意味の言葉だったんだ。じゃあ、私は特殊な人間ってことなの?
なんだか、自分のことが途端に気になってきた。
「何でも良いから能力について知ってることを話してくれないか」
言われた通り、レンクスに話せば何かわかるかもしれない。私はお母さんの親友だという彼を信頼して話すことにした。良い人だってのはなんとなくわかるから。
「わかった。えーとね、私にはとてつもなく大きな器があるの」
「器?」
「うん。私たちの心の世界のことだよ。普段はそこに私がいるの。真っ暗で、まるで宇宙みたいに果てしなく広くて。ユウが経験したことは全てそこに溜まっていくんだ」
「なんだと!?」
それを聞いた彼は、私から目線を外して難しい顔をし始めた。ぶつぶつとよくわからないことを呟いて、時々まさかな、とか言ってるのが聞こえてくる。私は急に険しい顔になった彼を見て、もしかして何かヤバいことでもあるのかなと不安になってきた。固唾を呑んで彼の様子を見守った。
やがて、彼が口を開いた。
「経験は全て、もれなく溜まるんだな?」
「そうだよ」
「俺の能力である『反逆』を食らった経験もか?」
彼の『反逆』という能力が何なのかいまいち掴めないけど、それを使われたというのなら私の中にちゃんと経験として残っているはずだ。私は頷いた。
「たぶん」
「もしかしたら――少し試してみたいことがある。身体の力を抜いて楽に立っていてくれ」
彼は私に何かするつもりのようだった。先ほど彼のせいで気がふっと遠くなった経験を思い出してちょっと怖い気分になる。
「また気を失うのは嫌だよ」
「それは大丈夫だから心配するな」
「ほんと?」
「ああ」
私は彼の言葉を信じてしぶしぶ協力することにした。
彼がこちらに目を向けると、私の身に信じられないことが起こった。
ほんの少しだけだけど、重力に逆らって一瞬身体がふわりと浮いた。
驚きで声も出せないでいるうちにそれは終わって、私は何事もなかったように着地した。
「マジかよ……」
あまりのことに半ば呆然としてしまった私をおいて、レンクスはこの奇妙な実験で決定的な何かを掴んだようだった。顔が青ざめている。
「フェバルにしたら弱すぎると思ったが、やっぱりな。変身能力なんて生ぬるいものじゃなかった。もし予想が正しいなら、とんでもない能力だぞ」
「私に何をしたの? 結局能力は何だったの?」
とんでもない能力という言葉が聞き捨てならなかった私は強い口調で詰め寄ったが、レンクスは答えてはくれなかった。
「悪いが話せない。いや、話せなくなった。まだこの力については何も知らない方がいい。その方がお前のためだ」
「でも、気になるよ。そうやってまたはぐらかさないでよ!」
せっかく協力したのに、不安を煽るようなことを言って何も教えてくれないなんて。私は憤りを感じていた。
そんな私の気持ちを間違いなく知りながら、彼は私を諭すように、しかし語気を強めて言ってきた。
「約束だ。お前がもっと大きくなったときに必ず話す。だから、今は我慢してくれ」
レンクスから有無を言わせない凄みを感じた私は、ついびくっとしてしまった。燃え始めていた怒りが解けてしまった。
彼はとても真剣な表情だった。どんなに食い下がっても決して口を開いてくれそうにないことが容易に読み取れるくらいに。
彼は私のためと言った。いつか話してくれるというのなら、それで妥協するしかないのかもしれない。全然納得がいかないけど。
「わかったよ。約束だからね」
「ああ」
そのとき、ふっと私の意識が飛びかけた。なんだろうと思っていると、気がついたようにレンクスが言った。
「おっと。こっちもそろそろ時間のようだ。もうすぐ男の子のユウが戻ってくるな」
――そっか。もうすぐおしまいなんだ。
私は、名残惜しむように空を見上げた。そこは、私のいる真っ暗な世界と違ってどこまでも青く済み渡っていた。この身に当たる風の心地良さも、知ってはいたけれど実際に体験したのは初めてのことだった。
――表の世界、新鮮だったな。
別にあっちのユウに身体を返すことを嫌だとは思わない。私には私の役割があるし、裏方で満足していた。ただ、純粋に気になったから聞いてみた。
「私もお母さんみたいに、もう表に出て来ることはないの?」
「いや。お前を呼び出すだけならそこまで大変じゃないから何度でもいけるだろう」
「そうなんだ」
すると、彼は突然にやにやと笑みを浮かべ出した。整った彼の顔から向けられる笑みは、これまでは印象が良かったのだけど、なぜか今回は気持ち悪いと思ってしまった。
その理由は、直後にわかった。
「そうだ。俺、お前のこと愛してるからな」
「は!?」
突然飛び出したあまりの爆弾発言に、私は思わず身をかばいながら後ずさった。
「どうしてそんなに引くんだよ」
不思議そうに首を傾げる彼に対して、私は当然だと思いながら蔑んだ声で言った。
「当たり前でしょ。いきなり八歳の私にそんなこと言うなんて、何考えてるの?」
「別にやましい気持ちはないぞ」
本当にそうなら何とも思わなかった。大きな人が子供に愛してるなんて言うことはよくあることだから。でも、彼の表情にはどう考えてもやましさが含まれていた。単純に子供に向けた純粋な意味での愛でないことは明らかだった。
聞いた話からなんとなく理由はわかる。こいつは、お母さんの代償として私を愛そうとしているんだ。
「私はお母さんの代わりじゃないよ」
「それはわかってるさ。でも、ユナの娘はやっぱり可愛いなって」
私に生温かい目を向けながら頬を緩める彼に、ぞわぞわと生理的嫌悪感が込み上げてきた。
気付けば、私は大声で彼を罵っていた。
「ロリコン! 変態! 超きもい!」
「うぐ。そこまで言うか」
「あり得ない!」
しかし、彼は罵倒は褒め言葉ですとばかりに喜び、一向に怯まなかった。呆れた私は最後の切り札を出した。
「私の本体は男だよ? ロリコンでホモって終わってない?」
普通はここまで言われたら傷つくと思う。だが、この切り札すら彼には全くダメージになっていないようだった。
「なに。それは心配ない。いずれちゃんと女にもなるからな」
「どういうこと?」
気になった私は、一旦彼に対する軽蔑やら何やらの感情はおいて聞き返した。
「そのままの意味だ。その身体はお前たちの心の世界にずっと残って一緒に成長を続けていくはずだ。能力が目覚めたとき、女のお前もまた正式に日の目を見ることになると思うぜ」
「私が?」
「そうだ。もっとも、普段は裏方やってるらしいお前の精神まで表に出てくるかどうかは知らないけどな」
そっか。ユウが、女にもなれるようになるんだ。きっと凄く戸惑うだろうな。そのときは、私がしっかり支えてあげないと。
そんなことを真面目に考えていたのに、空気を読まないレンクスは身も凍えるアプローチをしかけてきた。
「というわけで、何も問題はない。愛してるぜ、ユウ!」
私を抱きしめようとへらへらと笑いながら近寄ってきた彼に最悪の感情を抱いたとき、身体が咄嗟に動いた。
気付けば私の小さな身体は跳ね馬のように飛び上がり、ひねりを込めた蹴りが彼の顔面を思い切り弾き飛ばしていた。
のけぞる彼を見上げて、自然と罵倒の口が動いた。
「しね。この変態野郎」
彼は、顔を押さえながら感心したように言った。
「いつつ。なんつう鋭い蹴りだ。今一瞬ユナ出てたろ。絶対」
私は、彼に対する評価を完全に改めた。確かに良い人だとは思う。素敵なところもあると思う。でも、こいつにだけは絶対に気を許しちゃいけない。
「お母さん。こんなやつと結婚しなくてよかったね」
思い切り息を吸い込んで、私は彼に叩きつけた。
「レンクスなんか大っきらい!」
「おもしれえ。その嫌い、好きに変えてみせるぜ!」
これが、後に幾度となく旅を共にすることになる最高で最低のパートナー、レンクスと私の最初の出会いだった。