2「もう一人の「私」」
「俺がお願いしたから、君は出て来たの?」
「そうだよ。あなたは、いつもおじさんたちに苛められて嫌になっちゃったんだよね」
「うん……」
「酷い目に遭うのがもう耐えられなくなった。こんなことされているのは自分じゃないと、そう思わないとおかしくなりそうだった」
「私」は、俺のことを全部当ててきた。やっぱり自分のことはよくわかるのかな。
「誰かに甘えたかった。慰めて欲しかった。特に、お母さんとかにね」
「でも、お母さんは……」
俺がお母さんのことを考えてしょんぼりすると、「私」も同じように下を向いて悲しそうな顔をした。
「もう、いないね」
それから「私」は顔を上げて俺をまっすぐ見てくると、だから、と続けた。
「誰にも頼れないあなたは、そういう役割を自分の中に作ったの。自分の心を守るためにね。あなたの逃げたい気持ちと甘えたい気持ちが、星海 ユウの一部である私を呼び覚ましたんだよ」
「よくわかんないけど、とにかくさ、君は俺ってことでいいの?」
そしたら、「私」はちょっと困ったように笑った。
「まあ、そういうこと」
「そっかー。女なのに、俺なのか」
だったら、気になることがある。
「あのさ、俺はちゃんと男だよね?」
「もちろん。私は、あくまで心の一部みたいなものだからね」
それを聞いてほっとした。
「よかった~。女みたいだってよくからかわれてさ。いっつも嫌なんだよね。でもほんとに男じゃなかったらもう言い返せないとこだったよ」
「私としてはあまり悪い気分ではないけどね。言わせておけばいいんじゃないのっていつも思うんだけど」
「だって悔しいじゃん! バカにされてるみたいで。君も俺なら、この気持ちわかるでしょ?」
「それはよくわかるよ。でも、こういうのは気にしたら負けじゃない? 男なんだから、堂々と胸を張ってたらいいって。って、いつもそういう方向に思考を誘導してるのに、あなたは全然聞かないよね。自分のことながら呆れるよ」
「しこうをゆうどう」という言葉の意味はわからなかったけど、「私」が呆れると言ってやれやれって感じで溜息を吐いたから、たぶんバカにされてるんだろうって思った。
「なんで君にまでバカにされないといけないんだよ。もう」
いじけていると、「私」は俺にゆっくり近づいてきて、柔らかい手つきで頭を撫でてきた。まるでお母さんが俺によくやってくれたみたいに、不思議と温かい手だった。
だけど、「私」の姿が本当に俺にそっくりだから、自分に慰められているような気がしてなんか変な感じもした。
「あんまりいじけないでよ。もうちょっと大人になったらその辺は直ると思うよ。私がしっかりサポートしてるから大丈夫」
「ふーん」
そのまま、しばらく俺は「私」によしよしされ続けた。
ところで、当時の俺は言われたことはそのまま信じてしまうような素直な心の持ち主だった。彼女が自分と瓜二つであったことも、当時の俺に疑いを持たせない要素であったには違いない。とにかく、当時の俺はこの話をそのまま受け入れたし、この不思議な空間と「私」についてもあまり思うところはなく自然に受け止めていたのだった。
ふと、「私」が自分の胸に手を当てながら言った。
「それにしても、さすがに私のために身体まで作ってしまったのには驚いたよ。この身体、ぴったりだったからありがたく使わせてもらってるけど」
「俺が君の身体を作ったの?」
「そうだよ。私も詳しいことはわからないけど、どうやら私たちには生まれつき不思議な力が宿ってるみたいなんだ。その力を無意識に使ったんじゃないかな」
「力?」
「うん。私は、あなたの内側からその力をずっと見て来た。この心の世界が、その力のある場所なの。というか、もしかしたらこの場所が力そのものかもしれない」
「私」は手を広げて周りを指した。俺はきょろきょろして色んなところを見たけど、どこまでも真っ暗なところで、力どころかなんにもないように見える。
俺がまた「私」の方を向くと、「私」は続けた。
「私たちの力は、まだ本当は眠っているみたいなんだ。きっと強過ぎる力だから、耐えられるようになるまで身体が成長するのを待っているんだと思う。力が使えないように、あなたは本当はまだここに来られないようになっているはずなんだけど」
「私」の話が難しくてまたよくわかんなくなってきたけど、来ちゃいけない場所に来ちゃったってことだけはわかった。
「でも、来ちゃったよね」
「そうなんだよね。あなたの想いが強くて、一時的に繋がってしまったみたい」
「それっていいの?」
「わからない。けど、起こってしまったことはもうどうしようもない。今はこうして出会えた偶然を喜ぼう。いつまでこうやって話が出来るかはわからないけど、よろしくね」
「私」が左手を出してきた。当たり前だけど、手までほんとに一緒だった。俺も左手を出して握手する。
「うん。よろしく。自分そっくりな人に挨拶するなんて、おかしいね」
「本当にね。こんな体験、世界で私たちだけじゃないかな」
なんだか可笑しくなって、二人で笑った。笑い方と笑い声まで同じだった。
「あのさ」
「なに?」
落ち着いたところで、さっきからずっと不思議に思っていたことを聞いてみた。
「君は俺なのにさ、俺なんかよりずっと大人みたいだよ。どうしてなの? たくさん言葉を知ってるし」
すると、「私」はすぐに得意な顔になった。
「そりゃあね。だって私は、あなたが経験したことの全てを知ってるから」
俺はびっくりした。
「全部!? 一個も忘れてないの?」
「あなたの中の住人だからね。あなたの経験は全て、この心の世界という器に溜まっていくの。周りの世界から入ってくる情報というのは、あなたが考えているよりずっと多いものなんだ。私はその恩恵を受けているから、あなたと比べるとしっかりしてるというわけ」
「おんけい」って恵みくらいの意味だったかな。じゃあ。
「なんだ。自分の力で覚えてるわけじゃないじゃん。びっくりして損した」
そう言ったら、「私」がむすっとして言い返してきた。
「うるさい。勝手に期待したあなたがいけないの」
その様子が、なんかすごく怒ったときのクラスの女子っぽかった。たぶん大人はこんな怒り方しないと思う。もしかしてこいつ、知識があるだけでほんとはそこまで大人じゃないのかもしれない。
まあ、よく考えたらこいつも俺と一緒に育ってきたわけだし、当たり前なのかも。
「ごめんよ」
「ふーん。まあ、ちゃんと謝るなら許してあげてもいいよ」
ちょっと口を尖らせたまま「私」がそう言った。
「うん。悪かった」
素直に頭を下げると、「私」の表情はすぐに元に戻った。
「いいよ。私も、確かに得意気にしてしまったところがあったね。それはごめんね」
「私」も頭を下げた。自分同士で謝るという凄く変なことになってしまった。
バカにされたと思ったら怒るところも、謝ったらすぐ許して自分の悪かったところを反省しちゃうところも、ほんとに俺にそっくりだ。
「私」が頭を上げたところで、ふとまた新しく不思議に思ったことが出て来た。それは、少し俺を不安にさせるようなことだった。
「あのさ」
「今度はなに?」
「私」が首を傾げる。
「俺が見たり聞いたりしたことは、全部この心の世界って器に溜まっていくんだよね?」
「そうだよ。それがどうしたの」
「じゃあさ」
俺は、胸の中にそわそわしたものを感じながら、その不安を口に出した。
「いつか器が一杯になっちゃったらどうなるの?」
それを聞いた「私」は少し眉をしかめて、それから感心したような顔をした。
「へえ。面白いことを聞くね」
「だって、コップに水をいっぱい入れたら、いつかは溢れちゃうでしょ? どうなるのかなって。おかしなことにならないかなって」
「んー。それは、私にもわからないな」
「そうかあ……」
期待していた答えがもらえなくて肩を落とす俺に、「私」は微笑んだ。
「ただね、あまり心配は要らないと思う。私たちの器は、不思議なことに果てしなく大きいの。まるで宇宙みたいにね。この心の世界一杯に思い出が詰まることは、きっとそうそうないよ。それこそ、一生かけたってね」
そう言われて、俺の心は晴れた。
「そっか。じゃあ安心だね」
「たぶんの話だけどね」
そんな感じで、しばらく二人で話していた。ほんとに二人と言ってもいいかは怪しいけど。でも、形は関係なかった。辛かったこともしばらく忘れられるくらい楽しい時間だった。久しぶりに、心の全部を言える相手と話せたんだ。
でも、この時間はいつまでも続かなかった。そのうち「私」が言った。
「そろそろ朝が来るみたい」
俺は、はっとした。
「え……じゃあこれって、夢なの?」
夢だと思ったら、とても悲しくなってきた。せっかく出来た話し相手なのに。
がっくりする俺を慰めるように「私」が言った。
「心配しなくていいよ。夢を利用してあなたはここに入ってきたけど、ここは本当にある場所だから」
「ほんと?」
それに頷いた「私」は、でも、と難しい顔をして続けた。
「起きたら、あなたはきっとここでの出来事は忘れていると思う。無理矢理繋がってる状態だからね。ここを離れて現実に戻ったときに悪い影響がないように、記憶は切り離されてここに残ることになるはず」
「それって……君のことも、忘れちゃうの?」
「私」は、残念そうに首を縦に振った。
「いやだよ! そんなの! また、あんなところに一人で戻らなくちゃいけないの? 君は、そばにいてくれないの!?」
さみしくて、辛くて泣きそうになる俺に、「私」は何も言わないで、優しい目を向けたまま近づいてきた。
お互いに息がかかりそうなところまできた「私」は、俺のことをぎゅっと抱きしめてくれた。
そこから、不思議なことが起こった。
俺と「私」の身体が触れ合ったとき、そこから融けるように、「私」の身体が俺の身体の中に入り込んできたんだ。
そしたら、身体の色んなところが熱くなって。何かが満たされていくみたいな感じと、何て言ったら良いかわかんない気持ち良さでいっぱいになった。
最後には完全に一つになって、俺の身体だけが残った。
身体の中から「私」の心の声が直接俺に伝わってきた。
『確かに一人だけど、一人じゃない。たとえ覚えていなくたって、私はこうやってちゃんとあなたの中にいるから。あなたを支えているから。だから、負けないで』
ぽかぽかするような温かさと、身体の中から抱きしめられているような心地良さを身体中に感じた。それが、俺の悲しい気持ちを和らげてくれた。
言葉じゃなくて、心で伝わってきたんだ。「私」は、いつもずっと一緒にいてくれてたんだって。
『……うん』
『それに、大丈夫。まだこの場所とあなたは繋がってる。繋がっている限りは、またすぐに夢で会えるから。こっちに来たら、あなたはまたここでの出来事を思い出すはずだから』
『ねえ。また会える?』
『うん。きっと。だから、またおいでよ』
真っ黒な心の世界から、真っ白なところへ投げ出されて――
俺は、狭い物置部屋の中で目を覚ました。
顔には、泣いた跡がはり付いていた。
――そっか。昨日、泣き疲れて寝ちゃったんだ。
おじさんとおばさんにされたことを思い出して、嫌な気分になる。
だけど、思ったよりもずっと気分は軽かった。寝たら、すっきりしたのかな。
そのとき、部屋のドアの鍵が開く音がして、外からおじさんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい! 学校の時間だ! お前みたいなのでも、通わせないと周りがうるせえからな! さっさと出て来い!」
「はい! 今出ます!」
俺の新しい一日が始まった。