フェバル 星を渡る者
フェバル連載開始日直後のまさに初版と言ってもよいプロローグが発掘できたので、記念にそのまま掲載したいと思います。
俺には両親がいない。幼いときに二人とも事故で死んでしまったらしい。親戚が俺を引き取って育ててくれたが、彼らはうっとうしく思っていたようで、辛く当たられた。あまり迷惑はかけたくないからと言って、中学卒業を機に一人暮らしをすることにした。彼らも喜んだようで、こちらとしてもせいせいした。高校はというと、学力はあったので、学費免除の特待生で入れるところがあったのが幸いだった。お金はないので、部屋は学校の近くの安いボロアパートを借りた。年齢のせいで深夜帯は働けないが、時限一杯までバイトをして、帰ってきたら勉強。そんな感じの生活をしていた。
それだけの、至って普通の高校生だった。けれど、そうであった日々は、今は遠いことのように思える。
事の発端から始めよう。
俺は、最近よく変な夢を見ていた。
夢の中で、俺は真っ暗な空間に立っている。目の前には、肩の少し上まで伸びた黒髪を持つ女の子が立っている。俺は彼女と見つめ合っている。
俺は彼女のことなど全く知らない。だが、不思議と赤の他人のような気はしなかった。それよりも、むしろ――
それは、常識的に考えれば、おかしな感覚だった。
俺は、声も高めで、顔つきも割と中性的だが、それでも体つきはそこそこがっしりしているし、背も平均的にはある。間違いなく、れっきとした男だ。
なのに、目の前の少女に対して、あり得ないはずなのに、まるで俺自身のような、まるでもう一人の自分がそこにいるかのような感覚を覚えてしまうのだ。
彼女は、俺と違って柔らかな体つきをしている。背も俺より少し低いし、程よく膨らんだ形の整った胸が、女性であることをはっきりと主張している。
一方で、その綺麗で可愛らしい顔には、確かに俺の面影があった。そして、全身の放つ雰囲気が俺とよく似ていた。どことなく凛々しく挑戦的な目つきが、若干男勝りな印象を作り出しているが、それは全く俺の目つきと同じだった。
夢の中の俺は、彼女に手を伸ばす。彼女も同時に手を伸ばす。それは鏡合わせのように対称的な動きだった。そして、俺の手と彼女の手が触れた瞬間、2人の手は境界を無くし、互いにすり抜けるようにして入り込んでいった。そこを始めとして、少しずつ俺の体が彼女に融け込んでいく。俺は体中に、蕩けるような快楽と、燃えるような熱さを感じて――
いつもそこで目が覚めるのだ。
これと同じような夢を何度も見た。それも、内容が内容だ。これはちょっとおかしいんじゃないかと思ったが、俺はあまり気にはしないようにしていた。所詮夢は夢。現実に影響があるはずなどない。
だけど、違ったんだ。
夢の意味が嫌でもわかったのは、16歳の誕生日を迎えた夜のことだった。
その日、自分の運命はがらりと変わった。いや、それまで自分が抱えていた運命が動き出したというのが正確かもしれない。
その日も、夜遅くまでバイトだった。帰り道の途中で、俺は目の前に異様な人物が電柱にもたれて佇んでいるのを見た。
金髪の女性だった。彼女は、一体何のコスプレだろうかと思ってしまうような、現代日本にあるまじき変わった服を纏っている。そして、右手には何やら装飾された黒い杖のようなものを持っている。
夜のこの辺りは人通りが全くない。何やら怪しい雰囲気の彼女は、誰かを待っているにしても不気味だった。もしも絡まれたら面倒そうだし、スルーしようとするのは当然の選択だった。出来るだけ何気無い振りをしてさっと彼女の横を通り抜けようとした。そのとき、
「星海 ユウね」
「えっ!?」
彼女は、なんと俺の名前を呼んだのだ。あまりのことに動揺して変な声が出てしまった。どうしてこの人は、俺の名前を知っているんだ!?
そんな俺の混乱をよそに、彼女は落ち着いた調子で言った。
「その反応。当たりね。やっと見つけた」
『バルシエル』
見つけたってどういうことだ。その言葉の意味を考える暇もなく、彼女が勢い良く杖を振るった。俺は思わず身じろいだが、しかし何も起こらなかったようだ。
「……この星の自然現象である風に関わる魔法ならギリギリ使えるかと思ったけど、どうやらここは異常に許容性が低いらしいわね……仕方ないわ。時間もないし」
小声で何かぶつぶつ言っているようだが、俺にはさっぱり意味がわからない。一連の意味不明な流れにすっかり混乱してしまっていて、どうすべきなのかわからない。逃げるべきか。話を聞いてみるべきか。
結論が固まらないうちに、彼女は次の行動に出た。彼女が杖を少しいじると、その先が刃物のように尖った。そして、あろうことかそれを俺の胸元に向けて突き刺してきた!
俺はとっさに身を捻った。奇跡的に体が素晴らしく動いてくれた。当たれば間違いなく致命傷となる彼女の一撃は、脇のすぐ横を通って行った。
彼女は、前傾姿勢となった体勢を戻すと、凶器と化した杖を持ち直して言った。
「おかしい。あなたに私の攻撃をかわせるはずは……まさか、身体能力も落ちるというの? この星は」
俺は、相変わらず言っていることの意味がわからなかったが、向けられた殺意にだけは理解が追いついた。そして、初めての危機に戦慄した。足が震える。彼女から背を向けられない。彼女を視界から見失うのが怖い。辛うじて振り絞った声は、とても弱々しかった。
「なんで、俺を……?」
その問いを向けられた彼女は、なぜか悲しげな顔をした。
「何も知らないまま楽にしてあげたかったけど……もう無理みたいね。話を聞いて。ほら、武器はしまうから」
そう言うと、彼女は杖の先を元に戻した。
「ユウ、あなた、最近自分のことでおかしなこと、あるいは不思議なことはなかった?」
「それは……」
あると言えばあるが、あの夢はそれに当たるのだろうか。彼女は、沈黙を肯定とみなしたようだった。
「どうやら心当たりがあるようね。それはあなたの能力が現れる兆候よ」
「どういうことだ?」
「話せば少し長くなるわ。あなたには突拍子もない話だと思うけど、聞いて。
この宇宙の星々には、実はこの星で言うネットワークのようなものが張り巡らされているの。それも高次元のね。星々がこのネットワークを通じて繋がることで、宇宙は安定を保っている。通常、このネットワークは知覚されることさえないし、ましてそれを通過することなんてあり得ない。けれど、極々稀にネットワークを通過する性質を持ってしまうものが現れることがあるの。さらに珍しいことだけど、それが生き物、さらに知的生命体であることもある。
なら、もしそれが人間だとしたら? 私がそうであるように、ユウ、あなたもネットワーク、私たちが星脈と呼んでいるものを通過する性質を持つ者なのよ」
確かに突拍子もない話だった。普通なら妄想もいいところだが、話をしている彼女は真剣そのもので、とても嘘を吐いているようには見えない。それでもあまりに馬鹿げたことだとは思うが、命も握られている現状、笑い飛ばすことなど出来なかった。話しながら、彼女は俺の反応を窺っているようだった。彼女は続ける。
「今言ったように、私たちは、星脈を通過する特殊な性質を持っている。だからなのか、何らかの普通では持てないような特異な能力を持っているの。その能力は、最初は眠っているけれど、私たちと星脈が時間をかけて調和していくことで、やがて発現するわ。そして、能力が目覚めたとき、星脈はその者を組み込んで宇宙を安定させるシステムの一部としてしまう。そして、その気まぐれな流れに従って、その者は循環し始める」
そこまで言うと、彼女は俺にずいと詰め寄って、顔を引き寄せた。俺の顔をじっと見つめる緑色の瞳が、哀しげな光を湛えている。
「ねえ、それって、どういうことだと思う?」
彼女は、まるで全てに絶望して、ただ笑うしかない者が浮かべるような、そんな酷く暗い笑みを浮かべた。それから、顔を俺の耳元に寄せて囁く。
「つまりね、ユウ。あなたが能力に目覚めたなら、あなたはもう、この星には居られないのよ?」
頭をガツンと殴られたような衝撃だった。この星には居られない。もしその言葉が真実だとしたら、とんでもないことだ。
彼女は、改めて俺に向き直ると、話を続ける。
「星脈に比べれば、私たちの存在なんて微々たるもの。行き先なんて選べない。あなたはいつ来るかも知れない脈動に流されるまま、この宇宙を永遠に彷徨うことになるの。そう、永遠にね……」
そう言う彼女は、自分の言葉を噛み締めるように嫌な顔をしていた。
「もう時間がないわ。今のあなたには、まだわからないでしょう。けれど、今ここで死ななければ、あなたは、きっと生きてしまったことを後悔する。それだけは確かよ。
今ならまだ間に合うわ。だから、お願い。手遅れになる前に、私にあなたの命を終わらせて」
俺は、何も答えられなかった。
もし彼女の話が真実だとするなら、全く想像を絶することだった。彼女の言う通り、本当のところなんて経験してみなければわからないほど壮絶なことなのだろう。けれど、一方でやはりどこかで話を信じ切れていない自分がいた。いくらなんでも滅茶苦茶な話だと、理性ははっきりと告げている。
どうしてこんな、普段なら下らないと切り捨てるようなことを真剣に考えてしまっているのだろう。場の雰囲気に呑まれているからだろうか。目の前の不思議な彼女のことも、こんな話も、たちの悪いいたずらに決まっている。変な夢だって偶然なんだ。だけど……
嫌な汗をかく。動悸がする。
そこで、身体がおかしいことに気付いた。
胸がどんどん苦しくなる。急激に体中が熱くなっていく。
俺は立っていられなくなり、倒れ込んで喘ぎ声を上げた。
「あっ、ううっ!」
「どうしたの? まさか!? いや、そんなはずはっ! 覚醒はまだあと少し先のはずなのに!」
体中が融けるような感覚は、まるであの夢のようだった。どうして。どうして今、現実にこれが起こっている!?
肉体が急激に変化していくのを感じた。あり得ないことが我が身に起こっていた。自分でも自分がどうなっていくのかわからない。全身を包む熱気と、そして、脳内物質が異常分泌されているのか、蕩けるような気持ちよさが同時に俺を襲ってくる。
とても動けない状況で、会話だけが耳に入ってきた。金髪の彼女と、もう1人、どこから現れたのか、少年のような声だった。
「ごきげんよう。エーナ」
「はっ!? ウィル!? あなた、どうしてここに!? 一体ユウに何をしたのっ!?」
「能力の覚醒を少しだけ早めてやっただけだ。それより、お前こそ何をしていた。フェバルを眺めるのが僕の趣味なんだ。せっかくの暇つぶしを失くすような下らないことはやめろよな」
「あなた……なんてことを! せっかく忌まわしい運命から救えるはずだった人を!」
「もう遅い。そんなことよりだ。調べたら、こいつの能力、面白いぜ。通常、フェバルの能力は、エーナ、お前の『星占い』や僕の『干渉』のように、この世の条理を覆してしまうような力ばかりだよな。まあ、仮にも全宇宙規模のシステムの一員だからな。
だが、こいつは……ははははは! 確かに条理は覆るさ。何せこいつは、性別の垣根を越えられるんだからな! 男女がスイッチのように瞬時に切り替わる、ただそれだけの能力さ」
男女が、スイッチのように切り替わる!? なら、この身体の蠢きは、まさか!?
「くっくっく。聞けば、この星の神とやらは雌雄同体で、自らの写し身として人の男女を作り出したという話があるそうじゃないか。だとすれば、男女を兼ね備えたこいつはある意味で神の器と言っても良いかもなあ?
そうだな、ならこいつの能力は『神の器』とでも呼ぼうか! ははは、こりゃあいい! 随分と大層な名前じゃないか!
僕は見たいね。この新入りが、そのふざけた能力でどうやって生きていくのかを! 見ろよ! 胸が張ってきてるぜ!」
嫌な視線を感じる。俺はひどく恥ずかしかった。やめろ! 見るな!俺は、見世物じゃない!
「んあ、あああっ!」
出したくないのに嬌声が漏れる。その声が、おかしい。いつもよりずっと高い。
「……おかしい。あなた、さっき男女は瞬時に切り替わるって言ったじゃない! 『干渉』でわざと変化を遅らせているわね!」
「なあに。反応が面白いんで、ちょっと遊んでいるだけさ」
な、んだって!? ウィルとか、いうやつ、め!
「う、ううんっ……!」
「やめなさい! 苦しんでいるじゃないの!」
「そうか? 僕にはむしろよがっているように見えるがな。くっくっく、まだ喘いでやがる。そうだな。ぼちぼち変化も終わらせて、少しばかり挨拶してやるか」
「ユウに何をする気!? これ以上勝手なことは――」
「お前、うるさいな。ちょっと黙れよ」
「なっ、きゃあああああ!?」
エーナと呼ばれていた女性の悲鳴が聞こえた。
俺は、少しだけ落ち着いてきたが、まだ身体中が熱かった。
自分が、こんなことになるなんて思いもしなかった。色んなことが起こり過ぎて、わけがわからない。一体、俺は……あれ?
自分のことを俺と呼ぶのに違和感があった。違う。俺、じゃない。私だ。自分を私と呼ぶ方がしっくりくると思った。
なぜそう思ったのか。それを教えてくれたのは、他でもない、変化を終えつつある私の肉体だった。
それは既に、見慣れた男のそれではなかった。
長く伸びた髪。膨らんだ胸元。身体中の柔らかな感触。あそこにあるはずのものがなくなっている感覚。
なんて、ことだ。私の身体は、すっかり女のものになってしまっていた。
それだけではない。
脳にまで変化が及んでしまったのだろうか。どこかで、このすっかり変貌した肉体を当たり前のものとして受け入れてしまっている自分がいた。なんということだろう。私は、私が女だと自覚してしまっている!
アスファルトに身を横たえたまま、己の変化に半ば茫然としていた私に、誰かが近寄ってくる足音がした。多分、ウィルの奴だろうと思った。私の横に屈み、顔を覗き込んできたのは、やはり予想通りの人物、黒髪の少年だった。その顔は楽しそうに下卑た笑みを浮かべてはいるが、その目はまるで死人のように冷め切っており、私の全身に残る熱と快楽の余韻を、瞬時に凍てつかせるほど、鋭い闇を放っていた。一体どうして、何があれば、人はこのような眼ができるというのか。
「はじめまして。もう名は聞こえたと思うが、僕がウィルだ。さて、能力に目覚めた気分はどうだ。ユウ」
「……散々私を弄んでくれたな。最悪だ。この野郎」
私から発せられたその声は、まるで声変わりする前のときのように高い、女のソプラノだった。
「まあそう怒るなよ。中々見ものだったぜ。おめでとう。これでお前もフェバル、星を渡る者だ」
「フェバル……星を、渡る者……」
「そうだ。お前は、これから星々を彷徨って生きるんだよ。ずーっとな」
その言葉に込められた吐き捨てるような嘲笑が、嫌に突き刺さった。私が、もう二度と平常な毎日に戻れないと、こいつはそう言っているのか。
先ほどから続く非日常の連続が、エーナとウィル、この2人の言葉に真実味を与えてしまっていた。そして、私が今、この身体の私であるということが、さらに輪をかけて彼らの言葉に説得力を持たせている。
2人が言う、私が持つ能力。『神の器』なんて名前は気に入らないが、確かに今、私は性を超越していた。男と女を自在に行き来し、それに合わせて性の自己認識さえも変えてしまう。そんなふざけた存在に、私はなってしまったというのか。
意識は連続している。私は、俺のことを別人のようにまでは思っていない。どうやら多重人格ではなく、あくまでこれまで通りの一個の人格で、性に関する部分だけモードが変わっていると考えて良さそうだった。
彼らが言った通り、能力には目覚めてしまった。ならば、私が星を渡る者になるという言葉だけが嘘のようには、もはやとても思えなかった。
でももし、それが本当だとしたら。私はもう、この町で暮らすことは出来ないのだろうか。この日本を、それどころか、地球をも離れて、全く知らない場所に1人飛ばされてしまうのだろうか。そして、星脈とかいうわけのわからないものに流されて、あてもなく彷徨うしかないのか。
そう考えると、無性に不安になった。無性に悲しくなってきた。
どうして。どうして、私がそんなことにならなければならない。家族と呼べる人はいない。親戚には会いたくもない。今だって苦労してバイトして、どうにか生活している。部活も出来ないし、友達ともあまり遊べない。それでも、それでも。私はそれなりに楽しかったんだ。いつかは普通に働いて、普通に素敵な女性と恋をして、結婚して、普通に子供作って……家族がいないから、私は憧れていたんだ。普通の家庭に。普通の人生に。そういう普通の幸せを望んでいたんだ。なのに。
そんなことになったら、もう普通の暮らしなんてきっと望めない。それに、もし向こうでの生活がうまくいったとしても。こんな、こんな男だか女だかわからないふざけた身体で、私は……私は、誰をどう愛したらいい? 何より、いつ星脈のせいでいなくなってしまうかもわからないのに、家庭なんか作ったって、残された人が悲しむだけじゃないか。それがわかっているのに、私にはそんなこと出来ない。出来るわけない。
「なんだお前。悲しいのか?」
「当たり前だろう! どうして、私はこんなことに……」
「そうかそうか。お前の都合なんて、どうでもいいね。それよりもだ」
ウィルが、今度は嫌らしい笑みを浮かべた。
「そんな男の恰好じゃせっかくの胸が窮屈だろう?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。その意味を理解する前に、ウィルが、私の服を強く掴んだのだ。
「なっ!」
私は、それまで沈んでいた気持ちを頭の奥へ押しやってしまうほどに驚いた。彼は、私が抵抗する間もなく、私の上着を紙きれのようにいとも容易く引き裂いてしまった。露わになるのは、くびれた腰と白い肌、そして胸につんと張った2つの膨らみ。それらが、私が本当に女になってしまったことを高らかに誇っているかのようだった。
男なら決して何とも思わない場所なのに、そこを晒したことに、今の私はひどく羞恥を覚えてしまった。そのことに驚きつつも、とんでもないことをしでかした彼を、殺さんばかりの視線で睨みつけた。
「なにを、なにをするんだよっ!」
「いいねえ。その反抗的な目、気に入ったよ。――うん、そうだな。決めたぞ。ユウ、お前は今から僕のおもちゃだ」
彼が私に手をかざすと、また身体から力が抜けていく。動こうとしても、全く動けない。
「どうだ? 身体に力が入らないだろう? 僕の『干渉』で、お前の『神の器』をコントロール出来るんだ。僕がお前の変身能力に干渉している間、お前の身体は自由が利かない。男にするも、女にするも、あえて中途半端にしてさっきのように喘がせるのも、自由自在だ。お前は、泣こうが、喚こうが、決してこの僕に逆らうことは出来ない。ほら、こうやって、いいように身体を弄られてもな」
彼が手を伸ばすと、胸を痛いほど強く掴まれた。そして、そのまま乱暴に揉みしだかれる。揉まれるたびに、ぞくぞくと生理的嫌悪感が込み上げた。なのに、その手を退けようとすることも、喋ることも、彼から顔を背けることすらも出来ない。
悔しかった。吐き気がするほど嫌な気分だった。女になって最初にされることが、こんなレイプまがいのことだなんて。屈辱だった。同時に、死ぬほど怖かった。
そんな私の様子を見て、彼は愉しんでいるようだった。
「くっくっく、人が恐怖に顔を歪める様は、いつ見ても良いものだ。やはり、人間の感情は素晴らしい。だがなあ、覚えておけよ。それは僕の最も嫌いなものでもあるのさ!」
彼は、突然激昂すると、私の胸から手を放し、代わりに両肩を掴んで、唇が触れてしまいそうな距離まで顔を近づけてきた。そして、身も凍えるような甘い声で囁きかけてくる。
「いいか。僕は、いつも退屈なんだ。まともな感情を入れる器なんて、とっくの昔に擦り切れて、壊れてしまってるのさ。僕は、人間の形をした化け物だ。そして、お前もいずれはそうなる。ユウ、僕は、お前が壊れていく様が見たい。擦り切れていく様が見たい。さあ、お前は何を見せてくれるんだ?」
あまりの恐怖で、気がおかしくなりそうだった。こんなに震え上がったのは、生まれて初めてのことだった。彼の、全てを犯しつくすかのような凍てつく眼が、私を捕らえて放さない。放してくれない。私は、これから先、この男の掌の上で弄ばれてしまうのか。私が壊れてしまうまで、彼は許してくれないのか。それは、何よりも恐ろしいことだと思った。
私は、気がつけば涙を流していた。まるで、彼に許しを乞うように。それが情けないことだと思う余裕すらなかった。だが、目の前のこの男は、私に対してそれ以上何をしようともせず、ただ、私をじっと見つめていた。その光なき漆黒の瞳で、ただ、私のことをじっと見ているのだ。それが、不気味で仕方がなかった。感情が読めない。彼は、一体私に何をしたいのか。私には、彼の考えがわからなかった。
いや――
極限の恐怖の中で、私は気付いてしまった。彼は、この私のことなど、どうでもいいのだと思っているのではないか。
彼は、いつも退屈だと言っていた。そんな彼にとっての世界は、全てがすっかり色褪せたものなのかもしれない。だからこんなにまで、彼の眼は冷たくなってしまえるのかもしれない。
底知れない彼の闇の本質の一端に触れた気がしたとき、あれだけあった恐怖は少しだけ和らいだ。私の涙も、既に止まっていた。
私は、悟ってしまったのだ。無駄なのだと。
この人には、私のちっぽけな存在なんて本当にただのおもちゃに過ぎない。何をしようと、決して彼の心の底には届かないのだと。
私は、全ての抵抗を諦めた。無駄なことはやめようという開き直りに過ぎないことではあったが。ついでに、せめてこれまで晒した醜態を少しでも取り戻そうと、逆に強がって見つめ返してやった。
彼は、そんな私の心境の変化を察したのか、そこで初めて再び口を開いた。
「へえ、そんな顔も出来るのか。……なるほど、少し見つめすぎたらしいな。だが、勘違いするなよ。僕が見たいのは、お前が擦り切れる様だ。それは時間をかけて、ゆっくりと仕上がっていくものさ」
その彼の言葉にやはり恐ろしいものを感じた、そのときだった。彼の身体の色が徐々に薄くなり、透け始めたのだ。
「……ちっ、星脈が動き出したか。運が良かったな。今回は終わりだ」
見ると、私の手も透け始めていた。予想はしていたが、まだ覚悟が出来ていなかっただけに、ショックは大きかった。それでも、今までウィルから受けてきた扱いを思えば、このタイムリミットによって私は助かったのではないか、とまで思えてしまう。
星脈のことを意識したとき、私は、ふと最初に出会った金髪の彼女のことを思い出した。
「エーナ……そういえば、エーナは?」
「ああ。あいつか。うるさいから消したよ」
思い出されるのは、彼女の大きな悲鳴だった。最悪の想像が、口をついて出た。
「殺した、のか?」
しかし、それを聞いたウィルは、意外そうな顔をした。
「うん? なんだ、エーナにその辺聞いてなかったのか?」
「どういうこと!?」
「教えてやるのもつまらないな。ヒントだけやるよ。あいつは、確かにお前を助けようとしていた。お前を、殺すことでな。後は、自分で気付くといいさ。なに。どうせ、いずれわかることだ。じゃあな、ユウ。少しだけ楽しかったぜ。これからたくさん遊んでやるから、覚悟しておけよ?」
そのとき、ウィルは初めて、ほんの少しだけ本当の感情を見せてくれたような気がした。彼とは、また会うことになるだろうと思った。私は、彼の存在を強く心に刻みつけたのだった。天敵として。恐怖の対象として。そして、深い闇を抱えた1人の人間として。
彼が消える。そして、私もまた消える。
こうして私は、全く心の整理がつかないまま地球を去ることになった。