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どうでもいいこと

作者: 橘まき

 ポケットの中で手を遊ばせながら、僕はタイミングを計っていた。あそこの店を通り過ぎたらちゃんと言おう。一度はそう決意しても、カウントダウンが近づくにつれて決意はゆらぎ、あのコンビニに辿り着いたらと逃げ道を作り出す。

 角の店を通り過ぎたらにしよう、いや、商店街を抜けきったら、いやいやこの人込みから離れてあそこの路地に入ったら。

 ぶる、と寒さに身を震わせた。人がこんなにあふれていても吹きゆく風は冷たいし、太陽も眠ってしまった今の時間、手はかじかんで息も白い。

 ちらりと視線を右斜め下へとやれば、小さな鼻が赤くなっていた。早くどこかお店に入った方がいい。思ったけど、この人込みでは恐らくどこの店もいっぱいだろう。

 なんてったって、今日は大晦日だ。

 二年参りに向かう人の波はおさまる様子を見せず、今も最寄の駅では人が溢れ続けているに違いない。

 人込みの先に自販機を見つけて僕は息を吸い込んだ。店には入らなくても、何か暖かいものを買って暖まろう。そう言おうしたまさにその瞬間、彼女が顔を上げて笑っていった。おもしろかったね、今日の映画。飛び出しかけた言葉は行き先を失って、結局「あぁ」とあいまいにこたえることしかできずに終わる。

 また、タイミングを外してしまった。――――白い息がダメージの深さを物語るかのように、長く長く吐き出されていく。今の自販機の話に限ったことではない、もっと話さなければならないことすら、今月に入って、何百回と話し損ねつづけている。

 たったひとこと、彼女に言えばいいだけなのに。

 そのひとことすら言えないままに、「今年」すら終わりを迎えようとしている。

「ねぇ、聞いてる?」

 若干苛立った声に我に返ると、彼女が眉を潜めて見上げていた。なんだっけと返せば眉間の皺が増えて、唇がへの字になる。

 やばい。

 直感で、そう感じる。

「だから、来年は年男だねっていったの!」

 せっかくいい年になるといいわね、って人が話をふってんのに! ふくれる彼女を見下ろしながら、焦る一方でそういわれればそうだったと、改めて思う。

 日常のほんのささいな、それでいて本当は大切なこと。そんな自分が忘れていることを(見逃していること自体にも)彼女はこんな風に気づかせてくれる。出会ってから今日までそれは変わらない関係で、だからこそ、彼女がいないとダメなのだと思ってしまうほどである。

 ごめん。慌てて謝るが、彼女の機嫌はなおらない。知らないと歩いていく彼女の背を引きとめようと手を伸ばすのだが、これもあと一歩のところで届かない。

 人込みに紛れてしまう小さな背中を、逃がすまいと追いかける。


 ――――本当は、どうだっていいくせに。

 心の奥底でそう呟くのは、あきれ果てている『僕』だ。


 僕はどうしたって今の仕事が好きではないと思うけど、どうやったって頭から仕事のことは離れないし、むしろ仕事のことしか頭に入らないから、いつもいろんなことをおざなりにしてしまう。

 それでいいと思ってた。彼女と出会う前も、そして出会って気づかされた今も。大切だとわかってはいるけれど、仕事のほかに残さなくてはならない事柄は僕の中にはなく、いつだって彼女がいるからそれでいいと思っている。

 どうだっていいのだ、本当に。

 彼女が話すくだらないことも僕がすぐ怒らせてしまうことも何もかも、どうしようもないぐらい面倒な仕事をはやく片付けることができるなら、それでもうかまわないのだ。

 でも。

 彼女が、僕の側にいるということ。それは僕も、頭の中の冷静な『僕』も、いつの間にかできてしまった「当たり前」で、これだけは「どうでもいい」なんてすませられない。

 …………すませては、いけないんだ。

 追いついて、手をつかんで、「ごめん」って言って、怒った顔の彼女を引き寄せて抱き締める。

「ちゃんと聞く。ぼーっとしない。仕事のことも忘れる。だから」

 だから結婚してくれる?

 耳元でささやくと、びくりと彼女のからだが震えた。

「なに、いってるの……」

 突発的なことに彼女が弱いと知っている。

 かわいい顔に似合わずミリタリー系の服を着たがっていることも知っている。

 料理がさほどうまくないことも、英語が苦手なことも、食べることが好きなことも、パズルが好きなことも、映画が好きなこともみんな―――――ちゃんと、覚えているのだから。

 彼女をこのまま、手放すなんてことができるわけがない。

 想像通りの反応を返す彼女に思わず吹き出してしまったら、ぎん、と彼女の眼が厳しく光った。

「冗談なの!?」

「っていったら?」

「怒るに決まってるでしょう!」

「じゃぁ冗談じゃない」

「どっちなのよ! ~~っだいたい! これはずかしいし!」

「はは、みせつけてたらいいんじゃないかな」

 おかまいなしに抱き締める腕に力を込めると、彼女はもう知らないと顔を俯かせる。やがて現れたのは、少し照れくさそうなまっかな微笑み。来年も、いいやこれからもずっと、この微笑みと一緒にありたいと強く思う。

 ポケットの中の小さな箱を、君は受け取ってくれるだろうか。

 可愛らしくラッピングされたその箱を、一瞬手のひらにおさめてその存在を確かめて、それから僕は、彼女に笑う。

 今度こそ、タイミングを外さぬように。

 そうそう、と。何気ないフリをして。

「さっきの話だけどさ」

 本当に結婚、してくれないかな。





 ホテルに備え付けられたテレビが、話題のドラマを流していた。でている役者の名前と顔は一致しないが、彼女曰く「今が旬」の役者らしい。

 繰り広げられる痴話喧嘩を前にして、ひとりにまにま笑う彼女の頭に冷えた缶ビールを押し当てる。

「くりすの前でもそういう変な顔しているの?」

 びくりと震える小さな背中に、呆れながらそう告げる。

「…………変な顔とは何よ、失礼ね」

 顔を赤くし不満げに唇を尖らして、彼女は缶ビールを受け取った。ちょっと心の潤いを補給しているだけじゃない、そう言って缶の中身を一気飲みする。相変わらず外見に反してこういうところは男らしい。感心しながら、隣のベッドに腰掛けた。

 彼女のザル体質を受け継いだのは優一と――――あとは誰かな。家で留守番をしている子どもたちの顔を思い浮かべて思わず笑った。長男の強さはもちろん彼女、次男の酒の弱さは確実に僕譲りだが、あとのふたりはどうだろうか。

「二十年、経っちゃったのねぇ」

「正確には二十五年、だね」

「そういえば去年あなた年男だったものね」

 言った後で、彼女の顔がまた緩む。彼女が考えていることなど聞くまでもなくわかってしまい、頬が赤くなるのを自覚する。今度は僕が唇を尖らして彼女を見た。

「いい加減飽きてこないか?」

「ぜーんぜん」笑い飛ばしたあとで照れくさそうに彼女は言った。

「……ねぇ、あと一週間ね」

 何を、とは言わない。

 あと一週間で、今年が終わる。

 そう考えると落ち着かないのは僕も彼女も同じなようで、だからこうしてふたりきりの旅行を企画した。だから、とさらに言い訳を重ねるつもりはないけれど、こういう行動にでてしまうのもそのためだ、たぶん。

「一週間後にしようかと思っていたんだけどさ」

 側に置いてあったかばんの中から箱を取り出して、僕は彼女の前に掲げてみせる。銀婚式ってことで、銀製のネックレスなんてしてみたんだけど。

「今渡すのと、どっちがいいかな」

 僕としてはよりよいタイミングを本人に選んでもらうのもありかな、と思うんだよね。

「そう、ね」照れた様子のまま少し考え込んで、ちょっとだけ呆れたように彼女は言った。

「クリスマスプレゼントって選択肢は、ないわけね?」

「――――あぁ、そういえば」

 そんなイベントもあったんだっけね。

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