浮気夫に離縁を突きつけられたので承諾しましたが、私の実家からの援助で贅沢していたことを忘れたのですか? 明日からテント生活、頑張ってくださいね
夫が離縁を申し出たのは、私の実家から届いた葡萄酒を飲み、私の実家が所有する屋敷の食堂で、私の実家が給金を払っている料理人の夕食を食べ終えた直後だった。
「アデライド、君とは離縁する。僕はミレーユと生きていくと決めた」
ロベールの隣には淡い桃色のドレスを着たミレーユ嬢が座っている。そこは普段、私が使っていた席だ。彼女の前には私が嫁入りの際に持参した銀器が並び、胸元には見覚えのある真珠が輝いていた。先月、ロベールが懇意の宝石商から買った品で、請求書だけが私のところへ届いた首飾りである。
浮気を隠す気は失せたらしい。隠し事が苦手な方だったので、ご本人にとっても喜ばしい変化なのだろう。妻としては一切喜べないが。
「いつからのお話でしょう」
「半年前からだ。ミレーユは君と違って、僕を男爵家の当主として敬ってくれる。金のことばかり口にして僕を縛ることもない」
半年前と聞いて、胸の奥が鈍く痛んだ。私が領内の橋を直すため、父へ追加の援助を頼んでいた時期である。その頃ロベールは王都へ出る回数を増やし、領主同士の付き合いだと説明していた。私は夫の言葉を信じ、帰りを待ちながら工事の見積書を読み続けた。
どうやら夫は橋より先に新しい恋への道を渡っていたらしい。
「離縁後はミレーユ様と再婚なさるのですか?」
「そのつもりだ。君には明日の朝までに私物をまとめて出ていってもらう。持参金については後日、互いの家で話し合えばいい」
ロベールは背も高く、亜麻色の髪と青い目を持つ華やかな男性だ。一年前、夜会の庭で熱心に求婚された時には、その真っ直ぐな眼差しを誠実さだと思った。ノルデン男爵家が困窮していることも、三年前の火災で領地の館を失っていることも承知の上で嫁いだ。
私の父は一人娘の選択を尊重し、王都の屋敷を夫婦の住まいとして貸し、男爵領の復興費と生活費を援助してくれた。ロベールも婚姻前に契約書を読み、署名している。
読んだはずだ。少なくとも、紙を裏返して署名欄を探す程度のことはしていた。内容まで覚えているかは、今の発言で大いに怪しくなった。
「承知いたしました。離縁をお受けいたします」
ミレーユ嬢が安堵したように息を吐き、ロベールは勝ち誇った笑みを浮かべた。私が泣いて縋ると思っていたのだろう。以前の私なら、理由を聞き、直せるところを探し、もう一度考えてほしいと頼んだかもしれない。
半年間も別の女性を抱きながら、妻の実家が用意した寝台で眠れる男性にこれ以上尋ねたいことはなかった。
「ところで旦那様、こちらの屋敷も馬車も使用人の給金も、私の実家からの援助で賄われていたことをお忘れですか?」
「何を言っている。これは結婚祝いとして僕たちに与えられた屋敷だ」
「婚姻中の居住を認められた貸与財産です。援助契約は離縁と同時に終了いたします。ノルデン領で再建予定だった館への送金も止まります。明日からテント生活、頑張ってくださいね」
静かになった食堂で、暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
ミレーユ嬢の指が胸元の真珠を確かめるように動く。その首飾りも代金が支払われていないので、明日の朝には宝石商が回収に来る予定である。教えて差し上げてもよかったが、夫から贈られた品を眺める最後の夜を邪魔するのも申し訳ない。
「そんな話が通るものか。この屋敷には一年も住んでいる。使用人だって僕を旦那様と呼んでいるんだぞ」
「皆が礼儀正しいという証明にはなりますね」
「君の父上が娘の元夫を荒れ地へ放り出すはずがない。伯爵家の評判にも関わる」
ロベールは私が席を立っても、まだ余裕を崩さなかった。父が娘の不名誉を恐れ、離縁後も援助を続けると考えているらしい。妻を追い出す側が、妻の父親の情に頼っている。ずいぶん独創的な将来設計だ。
私は食堂の扉を開け、廊下で待っていた家令へ声をかけた。
「サイラス、離縁のお申し出を正式にいただきました。父へ知らせてください」
「かしこまりました。貸与契約に従い、明日の正午をもってロベール・ノルデン男爵の当屋敷への立ち入りを終了いたします」
白髪の家令は一礼すると、抱えていた革張りの書類箱を食卓へ置いた。私が夫の浮気を知ったのは一月前である。香水の匂いや不自然な外出だけなら、疲れているのだと言い聞かせていたかもしれない。決め手になったのは、宝石商から届いた真珠の請求書と、宿屋の支配人が確認を求めてきた二人分の滞在記録だった。
私は泣いた後、婚姻契約と財産目録を調べた。一年前の自分が信じた男性を、今の自分まで信じ続ける義務はない。
「こちらは旦那様が婚姻時に署名なさった契約書の写しです。離縁成立時には、理由を問わず居住権と信用保証が終了します。浮気を原因として旦那様から離縁を申し出た場合、未使用の復興援助金も伯爵家へ返還されます」
「僕はそんな条項を認めていない!」
「最終頁の署名と、その下にある親指の染みをご確認ください。署名の際、インク壺を倒されましたので」
サイラスが開いた羊皮紙には、若々しいロベールの署名と、青黒い染みが残っていた。私も覚えている。あの日の彼は緊張し、インクで汚れた指を見て笑っていた。幸せになろうと言って私の手を握った指が、一年後のロベールを追い詰めている。
「アデライド、少し待ってくれ。離縁の話は二人きりで改めて話そう」
「ミレーユ様を私の席へ座らせた後で、二人きりも何もございませんわ」
「僕は君の金に口を挟まれる生活に耐えられなかった。だからミレーユを愛したんだ。それと屋敷を取り上げる話は別だろう」
「私との婚姻を終えれば、婚姻を理由に受けていた援助も終わります。同じお話です」
ミレーユ嬢が椅子を引く音がした。
「ロベール様、領地にはお屋敷があるとおっしゃいましたよね?」
「再建中だ。あと少しで完成する」
正確には、焼け跡を片づけたところで工事が止まっている。春から石材を運び入れる予定だったが、その費用は父が用意した復興援助金から出るはずだった。現地にある建物は資材を守る小屋と、測量に来た職人が使った天幕だけである。
あと少しという言葉は便利だ。石壁も屋根も寝室も、まとめて数えなければ確かに少しで済む。
「ご心配なく。天幕は丈夫なものを選びました。二人でお休みになるには少々狭いでしょうけれど、雨はしのげると職人が申しておりました」
「私は天幕で暮らすためにあなたと一緒になるわけではありません!」
ミレーユ嬢は立ち上がり、真珠の首飾りを押さえながら食堂を出ていった。ロベールが追いかけようとしたが、サイラスが書類箱を抱えたまま扉の前へ立つ。
「先に、男爵家所有物と伯爵家貸与物の確認をお願いいたします。お時間が惜しいでしょうから、今夜のうちに始めましょう」
父に仕えて三十年になる家令は、滅多なことでは声を荒らさない。淡々と仕事を始めた時のほうが怖いことを、ロベールは一年経っても学ばなかったようだ。
翌朝、私は夜明け前に屋敷を出た。
持ち出したのは嫁入り前から使っている衣装箱と、母の形見の鏡、数冊の日記、それから結婚指輪だった。指輪はロベールが自分の金で用意した数少ない品なので、食堂の卓上へ置いてきた。取り返したいとは思わない。売れば領地までの馬車代くらいにはなるだろう。
実家の馬車が門を抜ける時、二階の窓にロベールの姿が見えた。彼は何か叫んでいたが、車輪の音に紛れて聞こえない。私は窓掛けを下ろし、膝の上で両手を重ねた。
胸は痛んでいた。一年の結婚生活がすべて嘘だったとは思いたくない。求婚された夜の言葉も、熱を出した私の枕元で朝まで手を握ってくれたことも、初めて二人で選んだ庭の薔薇も、確かにあった。
その思い出と一緒に暮らし続けるため、自分を粗末に扱う男性まで抱えておく必要はない。馬車が実家の門へ着くまで、私は一度だけ泣いた。
正午になると、サイラスは契約どおりロベールへ退去を求めた。
屋敷の使用人は伯爵家との雇用を継続し、料理人も厩番も残った。馬車と馬は伯爵家の所有で、ロベールの衣装箱は荷運び用の小さな車へ積まれた。ミレーユ嬢は真珠を宝石商へ返した後、自分の実家が迎えに寄越した馬車へ乗り、ロベールとは領地で落ち合うと言い残したそうだ。
彼女が落ち合ったという知らせは、その後も届かなかった。
王都の宿はロベールから部屋代の保証人を求めた。紳士倶楽部も、滞納していた会費が支払われるまで客室を貸さなかった。友人たちは領地へ戻るための荷車を紹介してくれたが、自宅へ招くほど親しくはなかったらしい。
翌日の夕方、ロベールは荷車に揺られてノルデン領へ着き、焼け跡に残された天幕で最初の夜を過ごした。
季節は秋である。雨の多い時期だ。天幕を選んだ職人の目が確かだったことを祈ろう。
私は実家で一月ほど過ごした後、王都の西にある祖母の別邸へ移った。
白い壁と青い屋根を持つ小さな家で、葡萄畑と林に囲まれている。子どもの頃は夏になるたび訪れていたが、結婚後は一度も足を運んでいなかった。父は望むなら王都の屋敷に残ってよいと言った。母は外国へ旅行してもよいと言った。私は少し考え、自分が朝寝をしても誰にも困った顔をされない家を選んだ。
初めの一週間は昼近くまで眠り、起きる時刻を誰にも急かされない生活を味わった。次の一週間は、昼まで本を読み、午後から馬で林を回った。三週目には祖母が残した古いピアノの調律を頼み、料理人と相談して林檎を煮た。
何か立派なことを始める気にはなれなかった。一年間、妻として屋敷を整え、夫の領地を支え、足りない金額を数え続けてきた。しばらくは自分のためだけに時間を使いたい。
離縁の届けが教会に受理された頃、ジュリアン・ヴァリエが別邸を訪ねてきた。
ヴァリエ侯爵家の嫡男で、私より二つ年上の幼馴染である。母方の祖母が暮らす南の国へ四年ほど滞在し、先月王都へ戻ったと聞いていた。金褐色の髪は少年の頃より短く整えられ、緑の目には穏やかな光がある。長旅で日に焼けた肌と、仕立てのよい濃紺の上着がよく似合っていた。
王都へ帰った日の夜会では、彼の周りに令嬢たちが三重の輪を作ったらしい。本人は祖母から預かった土産を配ることに忙しく、一曲も踊らず帰ったという。社交界の噂なので多少は盛られているだろう。二重の輪くらいかもしれない。
私は居間で待っていたが、ジュリアンは玄関から入ってこなかった。侍女が不思議そうな顔で戻ってくる。
「ジュリアン様が、こちらへ入ってよいか奥様に確認してほしいと仰せです」
「先触れを受け取って、私が招いたのですよ」
「一度結婚なさった後ですので、昔と同じつもりで入るのは失礼だろうと」
子どもの頃のジュリアンは勝手口から入り、台所で焼き菓子を一つ盗んでから私を呼びに来ていた。人は成長するものである。夫が愛人を連れて我が物顔で食堂へ入った後では、玄関で待つ男性がひどく新鮮に思えた。
「どうぞとお伝えして。居間に入る許可と、お茶を飲む許可もまとめて差し上げます」
やがてジュリアンは細長い菓子箱を抱えて入ってきた。私の顔を見ると、同情を浮かべる代わりに、少年の頃と同じ少し意地の悪い笑みを見せる。
「南の港町で砂糖漬けの檸檬を見つけた。昔、君が酸っぱい菓子を平気な顔で食べていたことを思い出したんだ」
「あれはあなたが泣いたので、私まで泣くわけにはいかなかったのです」
「泣いていない。目に檸檬の汁が入っただけだ」
「口に入れた檸檬が、どうして目まで来るのですか?」
「四年ぶりに会って最初に追及するところがそこか。君は元気そうだな」
元気かと真顔で問われたら、答えに詰まっていたかもしれない。ジュリアンは菓子箱を卓上へ置き、私が勧めるまで椅子へ座らなかった。離縁の事情を聞き出そうとも、元夫を罵ろうともしない。南の海の色や祖母が飼っている太った猫や、王都へ戻る船で毎朝同じ鴎に朝食を奪われた話をした。
私は久しぶりに何かを整えるためでも、誰かの機嫌を守るためでもなく笑った。
冬の初め、両親は私の離縁成立を祝う舞踏会を開いた。
祝うという言葉には少し迷ったが、母は娘が無事に戻った祝いだと言い切った。招待状の客名簿を見せられると、以前ロベールが自分の友人だと思っていた人々の名が並んでいる。父の取引相手、母の従姉妹、私が結婚前から交流していた令嬢とその夫たちである。
私が男爵夫人だったから男爵家の夜会へ来ていた人々を、ロベールは自分の人脈だと思っていたらしい。屋敷や馬車と同じ勘違いである。あの人は借りた物へ自分の名札をつけるのが好きだったのだろう。
当日、私は銀糸で蔓草を刺繍した青いドレスを選んだ。結婚後はロベールの瞳に合わせて淡い色ばかり着ていたので、鏡の中の自分が少し若返って見える。
広間へ入ると、最初にジュリアンが歩み寄ってきた。
黒い礼装に侯爵家の銀章をつけた彼が進むたび、人の輪が静かに開く。周囲の令嬢たちが視線を送り、母親たちは扇の陰で何やら囁いていた。四年の不在を埋める縁談が、今夜だけで十は持ち込まれそうだ。
ジュリアンは私の前で足を止め、右手を差し出した。
「一曲目をお願いしても?」
「三重の輪を作ってお待ちの方々はよろしいのですか?」
「二重だよ。僕は数えた」
どうやら噂はほぼ正しかった。
私は笑って彼の手を取り、広間の中央へ進んだ。ジュリアンは私の歩幅に合わせ、腰へ添える手にも余計な力を入れない。音楽が始まる直前にも、踊りを続けてよいか目で尋ねてきた。
許可を求める姿は相手にも意思があると知っている人の強さに見えた。
一曲目が終わったところで、入口が騒がしくなった。
振り返ると、ロベールが二人の従僕に止められている。肩の合わない茶色の上着を着て、髪には雨粒が残っていた。招待状は送っていない。父の古い知人へ頼み込み、その馬車へ同乗してきたようだ。
「アデライドと話をさせてくれ。僕は彼女の夫だ!」
正確には元夫だ、訂正してやるべきだろうか。従僕は私の判断を待っている。父が近づこうとしたので、私は小さく首を振った。
「こちらで伺います。ご用件は何でしょう」
客たちの視線が集まる中、ロベールは一度ジュリアンを見た。ジュリアンは私の半歩後ろに立ったまま、口を挟まない。私が助けを求めない限り、出てくるつもりはないらしい。
「君から父上へ話して、領地の復興援助を再開してほしい。石材さえ届けば館を建てられる。そうすれば僕も生活を立て直せるんだ」
「離縁は旦那様からのお申し出でした。援助が終了することも、その日のうちにご説明しました」
「あの時は屋敷まで失うと思わなかった。ミレーユも暮らしが落ち着けば戻ってくると言っている」
たぶん戻らない。ミレーユ嬢は先週、別の男性と観劇していたそうだ。母から聞いた話なので、今ここで教える必要もないだろう。
「領地の天幕はお役に立ちませんでしたか?」
「三日目の雨で片側が沈んだ!」
「杭を打ち直しました?」
「僕は男爵だぞ。そんなことができるか!」
広間のどこかで咳払いが聞こえた。笑いを隠したつもりだろうが、あまり成功していない。ロベールは顔を赤くし、私へ一歩近づいた。
「僕たちは一年も夫婦だった。君が少し頭を下げれば済む話だ。援助が再開したら、君にも別邸を一つ用意する。今まで通りとはいかないが、困らないだけの金は渡す」
私の実家から受け取った金で、私へ別邸を用意するつもりらしい。独創性に加えて一貫性まである。感心はするが、協力する気にはなれなかった。
「私はすでに自分の家で暮らしております。朝まで雨が降っても屋根は沈みませんし、頭を下げて得たいものもございません」
「あの侯爵令息と再婚するつもりか? 離縁してすぐ別の男を捕まえた君が、僕だけを責められるのか!」
「ジュリアン様が帰国なさったのは、私の離縁後です」
答えたのは母だった。広間の奥から扇を手に歩いてくると、ロベールを冷ややかに見つめる。
「それに娘は今夜一度踊っただけです。あなたは婚姻中に半年も浮気を続け、愛人を娘の席へ座らせました。同じ話に見えるのでしたら、天幕の中でよくお考えなさい」
母の言葉に客たちが一斉に目を伏せた。笑ってはいけない場面だと理解している顔である。理解と実行は別らしく、扇の陰から小さな声が漏れていた。
ロベールが私の腕へ手を伸ばす。私は一歩下がり、従僕へ目を向けた。それだけで二人が間へ入り、ロベールの両脇を固める。
「お帰りを。私はもうあなたの生活を整える妻ではありません」
ロベールはなおも何か叫んでいたが、広間から連れ出された。扉が閉じると、楽団の指揮者が頃合いを見て次の曲を始める。父は私の顔を心配そうに見たが、私は大丈夫だと頷いた。
ジュリアンがもう一度手を差し出す。
「少し休む? それとも次の曲も踊る?」
ロベールを追い払った褒美も私の判断を称える言葉もない。選択肢だけが静かに置かれている。
「踊ります。今度は三重の輪の方々から恨まれそうですけれど」
「四重になった」
「増えておりますわね」
「君が一曲目に笑ったからだと思う」
その言葉に胸が温かくなり、私は彼の手を取った。
ロベールは残っていた林の一部を売り、春までに木造の小さな家を建てることになったらしい。男爵家の収入で暮らすには十分な大きさだと聞いた。天幕生活は二月ほどで終わる予定だが、雨が降るたび自分で杭を打ち直しているという。人間、必要に迫られれば覚えるものである。
当然ではあるが、私は彼のもとへ戻らなかった。
春になる頃、祖母の別邸は正式に私の名義となった。父が離縁後の生活費として譲ると言ったので、私はありがたく受け取った。庭には白い薔薇を植え、居間の壁紙を薄い青へ替えた。私が自分で選んだ好きな色である。
ジュリアンは月に二度、きちんと先触れを寄越して訪ねてきた。毎回玄関で待ち、入ってよいと伝えるまで敷居を越えない。最初は砂糖漬けの檸檬、次は南の海を描いた小さな絵、その次は何も持たず、私と庭を歩くためだけに来た。
ある暖かな午後、彼は薔薇の苗を眺めながら足を止めた。
「夏に南の港で音楽祭がある。君が行きたいなら、僕に案内させてほしい。伯爵夫妻と侍女も一緒で構わない」
「ずいぶん大人数の旅になりますよ」
「君が安心できる人数で行こう。僕は案内役の席を一つもらえれば十分だ」
ジュリアンは私の返事を待った。侯爵家の嫡男として命じることも、幼馴染だからと決めつけることもなく、私が選ぶまで黙っている。
「では、海の見える部屋をお願いします。朝寝をしても景色が見えるところがよいですわ」
「承知した。昼まで起こさないよう、全員に伝えておく」
「そこまで寝ません」
「どうかな。昔の君は昼食まで眠っていた」
「昔の話をいつまで覚えているのですか?」
「君のことだから、たぶん一生」
返す言葉を探しているうちに、ジュリアンの耳が少し赤くなった。整った顔で余裕のある笑みを浮かべていても、こういうところは昔と変わらない。
私は玄関の鍵を取り出し、彼へ見せた。
「今日はお茶を召し上がっていきますか?」
「入ってもいい?」
「ええ。私がお招きします」
私が扉を開くと、ジュリアンは礼を言ってから敷居を越えた。
雨の季節が来ても、この家の屋根が沈むことはない。これから誰を家へ迎え、誰と同じ景色を見るのかも、私が自分で選んでいく。
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