隣の人は…
一人暮らし用の1Kのアパート。
「木下さん! 中にいるんですか!? 警察の者です! ドアを開けてください!」
玄関からは、鍵のかかっているドアをガンガンと叩く音が聞こえてくる。
おそらく、ガラスが割れる音を聞いて近所の人が通報したのだろう。
俺の横には人が倒れている。
いや。死体がそこに転がっていると言った方が正確だろうか。
その胸には包丁が刺さっており、それには俺の指紋がついていることだろう。
そして、この部屋の持ち主の「木下」は俺のことじゃない。
事の始まりは、俺の部屋に響くインターホンの音だった。
ピンポーン
人が訪ねてくる予定なんてなかったので、ちょっと面倒に思いつつも腰をあげた。
「どなたですか?」とドア越しに声を掛け、ドアスコープから来訪者を覗き見る。
そこに立っていたのは、まったく見覚えのない女性だった。
「すみません。隣の者ですが。ちょっとお願いしたいことがありまして」
隣……?
そういえば、隣に住んでいる人なんて見たことがなかったな。
引っ越してきた時にも隣近所への挨拶なんてものはしていないし。
「どうかしたんですか?」
相手は気弱そうな女性とは言え、やっかいごとを頼まれたらちょっと嫌だななんて思って、ドアを開けるのをためらった。内容によっては理由をつけて断ればいいだろうが。
「ビンのふたが固くて開けられなくて……。ちょっと手伝ってもらえないでしょうか?」
ビンのふた? 俺は思わず気が抜けた。ドアを細く開く。
女性はぺこりと頭を下げた。俺と同じくらい、二十代前半だろうか。
休日だし、どうせ家でゴロゴロしてただけなので、そのくらいなら俺だって手伝ってあげられるが。
どんな人が住んでいるかもわからない隣の部屋にそんな理由で助けを求めに行くなんて、ちょっと警戒感がなさすぎなんじゃないのか、なんて俺は思った。でも、世の中にはいろんな価値観の人がいるしな。
「……いいですよ。ふた開けるくらいなら」
俺はドアを大きく開けて外に出る。
「わぁ。ありがとうございます。じゃあ部屋にビンが置いてあるので、ついて来てください」
ほっとしたように彼女は言って、先にたって歩いて行く。
ん?
てっきりここに持ってきているもんだと思ったんだが……。
しかし、引き受けてしまったんだからしょうがない、と俺は後から着いていった。
隣なんて数歩で着く距離。
彼女はなぜか俺に鍵を渡し、
「開けてください。ビンは家の中なので」
なんて言う。
いぶかしく思ったが、反射的に受け取ってしまった鍵で彼女の家の鍵を開け、ドアを開いて彼女を中に入れた。
「どうぞ、あがってくださいね」
そう言う彼女に素直に従う。
入る前に「木下」という表札が目に入った。
ふ〜ん。木下さんっていうんだな。そういえばまだお互いに自己紹介もしていないもんな。
思いながら俺は木下さんについて部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。
彼女は、履いている少し厚底の靴を脱がずにそのまま家の中に入って行く。
土足?
靴を脱がずに生活するようなオシャレな造りのアパートではないんだけど……。
思いながらも彼女に倣って俺も靴のまま上がることにする。
そして、なんて言うか……殺風景な部屋である。
俺の部屋と同じ造りだが、生活に必要なもの……例えばベッドやタンス、冷蔵庫などが仕方なく置かれているという感じで、余分な装飾品は一切ない。女性の部屋にしては不自然なくらい物が少ないな。
俺はそんな事を思いながら、ぼやっと突っ立っていた。
「鍵! ちゃんと閉めてくださいね!」
急にきつめの口調で言われ、俺はハッと我に帰る。
「ああ。はい……」
ドアを振り返って、鍵を閉めた。
「で、ふたを開けてほしいって言うビンはどれですか?」
「あ。今出そうかと思ったんですけど、ちょっと、取れなくて……。すいませんけど、手伝ってもらえません?」
言われて、木下さんの方を見ると、どうやら高い位置にある棚からビンをとろうとして、手が届かないみたいだ。
なんでそんな場所に片付けちゃったんだろう?
「俺が取りますよ」
彼女の横から手を伸ばして、棚の上の結構大きいビンを手に取る。片手でなんとか掴める大きさだが意外に軽い。
透明なガラスビン。その形からしても、中身は……ジャムだろうか? イチゴジャム? ……にしては色が赤すぎるような。ラベルなども貼っていないし。
あれ?
しかも、それが透明なフィルムでラッピングされたままだということに気付いた。
普通、ビンのふたが開かないっていう時は、こういう包装を外してから言うもんだろう?
俺は木下さんの方を見た。不思議そうに見つめ返してくる木下さん。
「これ、まず外装を取らないと……」
「やだ。忘れてました」
にっこりと言われた。
天然なのか……?
それ以前の問題のような気もするが。
とにかく、ふたを開ければいいんだよな?
まずはフィルムを取ろうとしたが、なかなかうまく破ることができない。木下さんに断って、台所にあった包丁でフィルムに切れ目をいれてそれを取り去った。
木下さんはそれを食い入るように見ている。
そんなに見られてもなぁ。
思いながらも、ようやくビンのふたに手を掛けて……
その時だった。
ガラスの割れる物凄い音が響いた。
なんだっ!?
反射的にベランダの方を見る。
そこには、黒い服を着た男が立っていた。
彼はすばやく割れたところから手を入れてガラス戸の鍵を開けると、部屋に侵入してきたのだ。
あまりの素早さに、俺も木下さんも、ただ、ぽかんとその男が入ってくるのを眺めるだけだった。
何が起こってるんだ?
強盗にしたって、こんな昼間から、明らかに人がいる室内に堂々と入ってくるなんておかしいだろう。
まぁ、俺だって男だ。木下さんをかばうように前に出る。
「なんなんだ、お前は!?」
他に気の利いたセリフなんて思いつきやしない。
男は俺のほうを見た。というよりは俺の手の中にあるビンを見ているようだ。
「君! そのビンを開けてないだろうな!? 無事か!?」
は? ビン? 無事か、と言われても……。
「まだ開けてないですけど」
危害を加えられるのを避けるためにも俺は素直に返事をした。
男は安堵のため息をつく。
このビンがどうしたというんだろう?
「貴様、ウイルスの入ったビンをこの男に開けさせるつもりだったんだな。この部屋の鍵をどうやって開けた?」
今度は、男は俺の後ろにいる木下さんの方に向かってそんな質問を投げかけた。俺は彼女を背にしているから表情はわからないが……って、ウイルス!? 一気に話が見えなくなった。
でも振り向いて木下さんの表情を確認するのも怖くて、俺はそのまま男に対峙していた。依然、男の目線は俺を通り越して木下さんを見据えている。
「こんな簡単な構造の鍵、同じ物なんてすぐにつくれるわ。あとはこの男にビンを開けさせれば目的を達成できたのに」
俺の背後からは、さっきまでののほほんとした雰囲気とは一変して、苦々しげな木下さんの声が聞こえてきた。
こうなると、「木下さん」なのかどうかもあやしいものだが……。
頼みの綱が切れたような気分で、俺はゆっくりと振り向く。
彼女も俺を見ていない。男の方を凝視している。
たまらず、口をはさんだ。
「ちょっと! どういうことだか説明してください!」
ようやく、俺がここにいることを思い出したかのように二人が俺の方を見た。それはそれで、急に居心地の悪さと、なんだかよくわからない恐怖感がわき上がって変な汗がでてくる。
そして、口を開いたのは男のほうだった。
「ああ。巻き込んですまない。そのビンには、ある研究所で作られたウイルスが入っている。ふたを開ければたちまち拡がって、死に到る人が続出するだろう」
……男は至極まじめに言っている。
そんな馬鹿な、と笑ってビンを開けるなんてことはできなかった。
「なんで、そんな……。もしそれが本当ならその研究所で、もっと厳重に保管されてるはずでしょう?」
俺はからかわれているんだろうか?
「その男が研究所から盗んだのよ。私はビンを取り返しにきたの。もしくはそのウイルスをばら撒くことができればそれでよかったんだけど」
今度は木下さんが話し始めた。
……やっぱり、きっと、これはなにかの、ドッキリ企画とか、そういうものに俺は巻き込まれてるだけ、だよな?
「そんな危ないウイルスをばら撒いたら、あなただって無事じゃすまないでしょう?」
手に持ったビンを握りなおす。
「そのウイルスは地球人だけに作用するのよ。私には効かないわ」
「そいつらの目的は、混乱に乗じて地球を征圧することだ。それを防ぐために、私はウイルスを盗み出しこの場所に隠したというわけだ」
木下さんと男の言うことを信じるとしたら…………宇宙人ですか!?
いやいや。話に色々おかしい点がある。
それに、なんでこんなアパートの台所にそんな危ないものを隠したのか、合理性がない。
ビンを開けてしまえば手っ取り早く話が本当かどうかわかるが、軽々しくそんなことできないような緊迫感が漂っているのだ。
「あの〜。なんで俺にこのビンを開けさせようとしたんですか?」
誰とも目を合わせずに、俺は聞いた。
その質問には、ため息とともに木下さんが答えてくれた。
「地球人以外がこのアパート内の物に触れると、消滅してしまう仕掛けがされているの。ドアや壁にも触れられないわ。最善のセキュリティってとこね」
……確かに、彼女は俺が知る限りこのアパートのどこにも触れていない。
「床にも触れられないから、特別な靴を作らせたんだけど、こんな厚底じゃないと影響を防ぎ切れないし」
ああ。だから土足……。
「でも。合鍵を作ったって……」
「それは、衛星からアパートの情報を取り寄せて、研究所で作らせて持ってきたのよ。ここを探し出すだけで何年もかかっているんだから、合鍵を作るくらいあっという間だったわ」
そういうもんですか。
木下さんは俺に気を取られて、男への注意が少し逸れていたのかもしれない
男がいつの間にか懐から出した、光線銃のような機械から光が放たれ、俺の持っていたビンに狙い違わずに当たったのだ。
「うわっ!」
驚いて思わずビンから手を離してしまった。
落ちるっ! と思って慌てて手を出したが、ビンは床にぶつかる前に一段と強まった光の中に消えていった。
「しまった!」
木下さんがそんな風に言うのが聞こえた。
なにがどうなったんだ?
「ビンは別の場所に移した。我々のボスが、地球との共存の道もあるはずだと研究所の所長を説得中だということは知っているだろう?」
男は、木下さんを睨みつける。
「ええ。もし説得されてしまえばウイルスの威力をためすことができなくなるわ。だから急いで探し出したのに!」
悔しそうに言う木下さん。
「お前達のような奴が研究所内にいるから、私は仕方なくウイルスを盗み出したんだ。ビンを開けてしまえば取り返しのつかないことになるところだったんだぞ。今からお前にも一緒に我々の拠点に来てもらうからな」
言って、先ほどの光線銃を木下さんに向けて構えなおす。
恐らく光に当たった物をどこかにワープさせる効力があるのだろう。
「残念だったわね。そうはいかないわ」
木下さんの声が一段と低くなった気がする。
ふと見ると、彼女の横に包丁が浮かんでいた。どうやら木下さんが手にしている小さな機械のようなもので操っているようだ。
「何をする気だ!?」
男の問いには答えずに、木下さんは不気味にたたずむ。
そして、包丁が男に向かって突き進んだ!
男はそれを避けようとしたが、スピードにのった包丁は勢い良く男の胸に突き刺さる。
男は、しばらくは苦しそうなうめき声をあげていたが、そのうち倒れて動かなくなった。それを見て、ようやく事の重大さが俺の頭にも浸透してくる。
「ど……どうするんですか!? この人死んじゃったんじゃないんですか?」
パニックになる俺をよそに、木下さんは落ち着いたものだった。
「アパート内の物に触れられないことに加えて、この部屋の中では私達の惑星の機器類が使えないように細工がしてあったはずだけど、この男が部屋に入ってくるときにそれを解除していたから助かったわ。こんなちっぽけな遠隔操作の機械なんて、最初にインターホンを押す時にしか使わないと思ってたのに」
俺に言ったのか独り言なのか分からないが、木下さんは手の中の機械をいじりながら言う。そして、
「私は他にもやることがあるから」
と、開いていたガラス戸から颯爽と出て行く。
「ちょっと、待ってください! この状況をどうしたらいいんですか!?」
すがるように俺は言ったが、彼女は歩みを止めない。
「悪いけど、後はよろしく。ガラス戸は直していくわ」
そう言うと、俺の目の前でまるで巻き戻し映像のように、割れていたガラスが元に戻っていった。
呆然とする俺と、ベランダから外へひらりと出て行く木下さん。
……かくして、俺は男の死体とこの密室に取り残されたのだった。
ガンガンと、警官がドアを叩く音がずっと続いている。
「木下さん! ドアを開けますよ!」
管理人も駆けつけた様子だ。きっと合鍵をもってきたんだろう。
俺は、地球は宇宙人に狙われているようです、とでも言えばいいだろうか。
……本当のことを言うべきかどうか。
選択肢は多くはない。
玄関で、鍵ががちゃりと開く音が聞こえてきた。