誰もいない
『イシスはかなり育ってきた。
肉眼では見えないサイズから、こぶし大にまで大きくなったのだ。
ここまでの苦労を思うと、感慨深いものがある。』
……読み進めていた日記から目を離し、一旦休憩しようかと、ゆっくり深呼吸する。
この研究所内に残されている記録という記録を読みあさってさすがに疲れた。
ページをめくる自分の指もなんだかいつもより弱々しく見えて、こんなところにも疲れが出るのだろうか、なんて可笑しくなった。
今は一人の研究者の日記を読みはじめたところだ。科学的な検証が書かれたレポートを読むよりは楽な作業だが。
……ここの研究員達は、問題の生物をイシスと名付けそう呼んでいた。
『イシスの目が少し開いた。光を感じることができるようだ。
今まで散々失敗を重ねてやっとここまでたどり着いたんだ。このまま育ってくれれば良いのだが。』
研究所には十数人の研究員がおり、ここで寝泊まりしていた。
森の中の建物は一見ホテルのようにも見えるが、かなり高度なセキュリティを備えた施設である。
それもそのはず。国家機密の研究が行われているのだから。広さだけでいうと大した規模ではないのに、注ぎ込まれている研究費は巨額なものだと聞いたことがある。
『今日はイシスを初めて培養液から出す日だ。
人間の子供のサイズにまで育ったイシス。精密な検査を行った上でのことだが、空気に触れた状態でも生き続けることはできるだろうか?』
毎日本部に届いていた経過報告が突然こなくなった。何かトラブルがあったのかと本部からも連絡を試みたようだが、応答がない。
何日かは通信機器の故障かもしれないと様子を見ていたようだが、まさにぽつり、という感じで研究所からSOSの信号が届いた。そして、この人里離れた研究所に派遣されたのが、俺達というわけだ。
『イシスの成長は目覚ましいものがある。
数日前に、培養液から出すのをあんなに心配していたのが馬鹿々々しいくらいだ。
今では研究所内の決められた範囲を自由に歩き回っているし、言葉も話せるようになってきた。
かすかだが人間と同じように表情だってある。
ちなみに、手の指がひょろっと細めで、力はあるのだが細かい作業が苦手なようだった。
もちろん急変を起こさないとも限らない。油断はできないが、今のところはすべてが順調だ。』
俺達が研究所にたどり着いた時、思ったより簡単に内部に入れた。本来なら何重にもロックされて外部からは簡単に入れないようにしてあるはずなのだが、それが全て解除されていたのだ。
原因を探るべく残されていた記録などを手分けして確認していたのだが、すべての記録がある日を境に途切れているのだ。
『有り得ない事が目の前で起こった。
同僚のマイクとともに研究室に向かって廊下を歩いていると、イシスがぽつんと廊下の奥に立っているのが目に入った。普段は必ず研究員の誰かが付き添っているはずなのに。
イシスはゆっくりとこちらに近づいてきたが、何か違和感がある。
「こんなところで何をしてるんだ?」
私はイシスに問い掛けた。ある程度の会話はできるはずなのだが、イシスは答えない。
そしてイシスは、マイクの方に近づいていった。』
俺達が研究所内を調べた時には、誰ひとり見当たらなかった。
未知の生物を育てている研究所だ。そいつが暴走して大惨事に……なんてことも想定していたのだが、研究所内で争ったりした形跡は一切なかった。
『イシスは、無言のままマイクの肩に手をかける。
見慣れた姿なのになんだか化け物のように見えた。
「おなかすいた」
イシスがそう呟いた気がしたその時、
一瞬のことだった。
マイクがイシスの手の平の中に吸い込まれたのだ。
……そうとしか表現の仕様がない。
マイクはいなくなっていた。いた痕跡すら残っていない。イシスに吸収された……。
食べられた、のだ。
イシスは、こちらを見た。
しんと静まり返った研究所の廊下。この時間に人がいないなんて明らかにおかしい。
皆、マイクと同じように食べられたのだろうか。
私はその場から動けなかった。
イシスは、目の前までやってきた。
そして私にこう言った。
「どうしたんだ? こんなところに突っ立って」と。
声こそイシスのものだがしゃべり方が違う。まるでマイクのような口調だった。
まさかとは思ったが、私は声をかけてみた。
「マイク。私は忘れ物をしたから一旦部屋に戻るよ。先に研究室に行ってくれないか?」
一瞬の間があった。
「わかった」
あっさりと承諾して、イシスは研究室の方へと歩いて行ったのだ。』
そういえば、俺と一緒に研究所に来た奴らはどこに行ったんだろう?
しばらく前から姿が見えない気がする。単独行動は禁止されてるはずなのに。
『私は、必死で研究所内を駆けずり回った。
ひとまずここから出る術を探した。しかしどの出入口も完全にロックされている。本来なら所定のピンナンバーで中から開けることは可能なのだがそれもできない。
他の研究員に会うこともできなかった。
皆、イシスに食べられたのか身を隠しているだけなのかはわからないが。
いずれにしても、研究所は完全に機能を停止してしまった。
私の推測だが、イシスは食べた人間の能力を取り込むことができるのだろう。セキュリティを担当していたアイラスのスキルを使って外部への連絡もすべて断ってしまったのだと思う。私もある程度の知識はあるつもりだが、システムを復旧させることはできそうになかった。』
俺は日記を読みながら背筋が寒くなった。
ここに書かれていることが本当ならば、この日記を書いた本人ももう「食べられて」しまったのだろうか?
俺達は研究所の隅々まで探したはずだ。
イシスが、もしここを出て町へ向かったりしたら大変なことになる。
『やはり、ここにはイシスと私しかいないようだ。
イシスはマイクとして生活し、私と話したりもする。そんな異常な状態がいつまでも続くわけがない。
イシスは、取り込んだマイクの記憶や人格をそのまま残している。
マイクは、まわりに他の研究員やイシスが見当たらないことに違和感を感じながらもそれを深く考えることができないようだった。
自分が食べられたことに気付いていない。
人差し指を怪我した時は、「これ、アイラスにもらったんだ」なんて言いながら、キャラクターの絵のついたかわいいバンソウコウを貼っていた。
以前、誰かが切り傷を作ってしまった時にもアイラスは彼の子どもにもらったというそのバンソウコウを、少し照れながら渡していたのを見かけたことがある。
マイクはマイクとしていつも通りのことをしているだけのようだった。
それならばと、なんとかうまく話をつけて研究所から脱出しようと試みているのだが、イシスには隙がない』
ページをめくる手に力が入ってきて、俺は無意識にめくるのを別の手に変えた。
その時、俺の人差し指にカラフルなバンソウコウが貼ってあるのが目に入った。
あれ?
俺はいつこんなとこ怪我したんだった?
……まぁいい。今はそれどころじゃないからな。
『イシスは、本部にSOS信号を出したと私に告げた。建物から出れないし、食料もなくなってきたから、とマイクの言葉で言った。
しかし私は知っている。食料庫にはまだ十分な食べ物があることを。マイクを取り込んだ時以来何も口にしていないことを。食料とはつまり私のことだということを。
SOSを受けて本部からは当然人が派遣されてくるだろう。
外部と連絡をすることがあれば、マイクとして対応した方がスムーズに話が進む。
きっと、今後新たに食べた人間の方が有益だと思えば、その人間の記憶の方を残すんじゃないだろうか。
なんとか次の被害を食い止められればいいが、私にはもう打つ手がないようだ。』
日記はここで終わっていた。
本人がいないということはここに書かれている通りに食べられてしまったのだろうか。
……ところで、お腹がすいてきたな。
現状を知らせるためにも本部に増援を頼むべきだろう。
今回来た俺達よりも大人数が来るに違いない。
そうなれば、当分は食料に困らないだろうな……。