あの桜の木
しんしんと、桜の花びらが舞い落ちてくる。
それは儚い夢のようで、手にした途端その美しさが消えてしまうように思えた。
俺と女は縁側から庭を眺めていた。
女は俺を訪ねてきたと言った。俺は君のことは知らない、と答えた。
浮かんだ疑問をいくつか聞いてみたが、女はもうすぐ分かりますとだけ言い、ちっとも要領を得なかった。
ただ、庭の桜を見せてくれとあまりに熱心に頼むので、庭に面する部屋に通して縁側で桜を眺めているのだった。
「私が埋められたのはあの辺りですわ」
唐突に、女は言った。
何のことかさっぱりわからない。俺は女をこの庭に案内してしまったことを少し後悔した。
「ほら。あの辺り。覚えておられるかしら?」
女は、この広大な庭に何千本も咲いている桜の木を見ながら、一点を指差してそう言った。
俺には正直、女がどこを指しているのかもわからなかったしが適当に相槌を打っておいた。
女は、ふふと笑った。
「本当は覚えておられないんでしょう?」
何もかもお見通しとばかりに女はそう言った。
俺は面白くなかった。俺はこの女のことを知らない。
「埋められたなんて言いながら、君はここにいるじゃないか。くだらない冗談はやめてくれ」
つい、そんな言い方をしてしまった。
「あら。あなた達が私をお埋めになったんですのよ」
また、女は穏やかに笑った。
俺はやはりおもしろくなかった。
そもそも、この女は誰だ? 記憶をたどっても何も引っかからなかった。
……それどころか、俺はほんの何年か前までしか記憶を遡れない事に気付いた。それ以前のことが思い出せないのだ。
なぜだ?
記憶をなくした覚えすらない。俺は今まで自分の記憶が途中で切れていることを知らなかったのだ。
……自分自身のことなのに?
そういえば俺はこの屋敷を出たことがない。正確には、思い出せる範囲では屋敷を出た記憶はない。
もしかしたら、この女にはずっと前に会っていたのかもしれない。
「君は俺のことを知っているようだが、いつ俺に会ったんだ?」
女は少しの間、首を傾げて考えているようだったが、やがて口を開いた。
「十年くらい前かしら?」
それを聞いても何も思い出せない。
そんな俺達の遣り取りなどはもちろん関係ないとばかりに、庭の桜は風が吹くたびに自分の美しさを見せ付けるかのように花びらを散らす。身を削ってまで一時の美しさを競うその姿をぼんやりと眺めながら、そういえば以前もこんな風に桜を見ていたことがあったかもしれない、という気持ちになる。
しばらく、俺も女も口を開かなかった。会話がなければ、他には桜が風に揺れる音だけだ。
なんて心地いい静寂なんだろう。
俺は、ひどく浮遊感を覚えた。
そんな俺の方を見て、女は訳知り顔でゆっくりと頷く。
不愉快だったが、心地好かった。
その時ふと、蘇った記憶がある。思い出す時期が来たのだろう。
俺はもう七年も前に死んだのだ。病気で。前々から治らないと診断されていた。
未練が一切ないと言うと嘘になるが、覚悟は出来ていたはずだ。
なら、俺がここにいる理由はなんだ?
考えはじめるとすんなりと記憶が押し寄せてきた。そうか。今までは俺が思い出そうとしなかったから思い出せなかったのか。
俺には妻がいた。俺の病が治らないことを彼女は知っていた。
俺はいつも「俺は明日にでも死んでしまうかもしれない。その時は君は一刻もはやく俺のことなどは忘れてくれ」と冗談混じりに言った。しかし、本心からそう思っていた。俺は妻を愛していたのだ。
段々と衰弱して布団で過ごすことが多くなり、近くの土手に出向くことすら難しくなっていた。毎年恒例にしていた花見も諦めるしかないようだった。
そんなある時、彼女は俺の体調が良い時を見計らって、俺を庭に引っ張り出した。
『庭に桜が咲いていれば、また二人で毎年桜が見れるわ』
いきなりだったので俺は驚いたが、妻は意気揚々と桜の種を庭に蒔いた。なんだか俺も楽しくなって一緒に手伝った。
『この桜が咲いたら、お花見をしましょうね』
……お互いに分かっていた。きっとこの桜が育って花を咲かせるのは十年近く先の事になるだろう。
それまで俺はもたない。
『ああ。そうだな』
それでも俺は、妻と一緒に蒔いたこの桜の花を見たいと思った。
ようやく、俺の中で記憶が繋がった。
「思い出されましたか?」
「確か、種を埋めた翌年には、芽が出たと妻が嬉しそうに報告してくれたんだったな」
「ええ。今年、初めて花が咲きました」
女は言った。よくよく見ると、女は俺の妻に面影が似ている気がした。しかし妻ではない。
先ほどこの女が指を差した辺りにもう一度目を遣ると、大きな木々に囲まれて気付かなかったが、確かに小さな小さな桜の木が花を咲かせていた。
それを報せに来てくれたのか。
「そうか」
俺がそう呟いたのを聞くと、女は満足そうに笑顔になった。そして、ひときわ強い風が吹いて桜の花びらが舞った時、女はその風に身を任せるように消えてしまった。
そして、俺の意識も空中に霧散するごとく薄れていく。
一緒に見ることは叶わなかったが、妻もこの小さな桜を見ているだろう。
俺は幸せだった。彼女にもそれが伝わることを願う。