第2章 風、旗を揺らす
第一節 夜明けの支度
空が白み始めた。
霧の向こうで、鈴音の声が響く。
「真白殿、そろそろお支度を」
藁の寝床から起き上がると、冷えた空気が肌を刺した。
昨日までの世界とは違う――そう痛感させる、鋭い朝の気配だった。
焚き火の跡からはまだ白い煙が立ちのぼり、
兵たちの鎧が擦れる金属音が、霧の中で低く響いていた。
鈴音は甲冑を締め、腰の刀を確かめていた。
その手の甲には小さな火傷の跡。
彼女がどれだけ戦を生きてきたかを、沈黙が語っていた。
「戦……があるの?」
鈴音が頷く。「久武殿がお呼びです。――殿にご挨拶を」
“殿”という言葉に、真白の胸がわずかにざわつく。
けれど、逃げるように息を吸って、前を向いた。
第二節 久武の眼
中庭にはすでに兵が集まっていた。
馬の嘶き、槍の先が太陽の光を弾く。
湿った土の匂い。
そのすべてが、戦の朝を告げていた。
「殿、よくぞご無事で」
久武重治が歩み寄る。
鍛え抜かれた体。眉間の皺。
その視線が、真白を試すように射抜いた。
「北より敵勢、二百ばかり。川を背に布陣との報せにございます」
真白は地図を見つめる。線で描かれた地形が、血の匂いを孕んで見えた。
「……二百」
その数字の意味を、まだ掴みきれない。
けれど、胸の奥で風が鳴った。
「私も、行く」
久武が目を見開いた。
「御身を危険に晒すおつもりか」
「風を感じなきゃ、何もわからない。……逃げない」
鈴音が微笑み、静かに頷く。
「では、共に」
第三節 初陣
山間を抜ける道はぬかるんでいた。
馬の足音、鎧の軋む音、木々を抜ける風。
それらが混じり合い、真白の鼓動を急かす。
丘の上に、敵の旗が見えた。
白地に黒の紋が翻る。
風が、緊張と恐怖の匂いを運ぶ。
「敵は川を背に構えております」と久武。
「退路を断てば勝てまする」
真白は唇を噛んだ。
「退路を……断つ?」
「逃げ道を無くせば、敵は死力を尽くす。それが勝ち筋」
真白は首を横に振った。
「逃げ道を残そう。人が逃げられれば、きっと戦は短く済む」
ざわめきが走る。
だが鈴音だけが、真白を真っ直ぐ見つめた。
「風は敵にも吹きます。……殿の仰せの通りに」
第四節 風の陣
太陽が昇り始める。
戦鼓が鳴った。
真白の体がびくりと震えた。
兵たちが一斉に動き出す。
「行けぇぇぇ!!」
久武の声が空を裂く。
地鳴り。足音。
金属がぶつかり合い、火花が飛ぶ。
真白の目の前で、若い兵が倒れた。
血が土を濡らし、槍が手から滑り落ちる。
――怖い。
だけど、目を逸らせない。
真白は手を伸ばした。
重い槍の柄を掴み、倒れた兵を庇うように立ち上がる。
「もう誰も、傷つけたくない!」
その声に、鈴音が振り向いた。
次の瞬間、矢が飛んだ。
「真白殿っ!」
鈴音の影が滑り込む。
金属音。
鈴音の肩から血が滲んだ。
「鈴音さん!」
「風が……殿を守りました」
鈴音は痛みを押し隠し、微笑んだ。
久武が叫ぶ。「敵、退く! 川向こうへ撤退!」
土煙が上がり、敵の旗が遠ざかる。
戦は、終わった。
第五節 焚き火の夜
夜、焚き火の明かりが赤く揺れていた。
真白は鈴音の肩に包帯を巻きながら、言葉を探していた。
「ごめん……私のせいで」
「違います」鈴音は微笑んだ。
「風が、殿に生きよと告げたのです。ならば、これで良いのです」
真白の指先が震える。
戦の音、血の匂い、鈴音の体温――
そのすべてが胸の奥に焼きついていた。
「……鈴音さん、怖くなかった?」
「怖うございました。
でも、風が吹いておりました。だから、前を見られた」
鈴音の言葉が、火の粉のように真白の心に落ちた。
真白は鞄から風鈴を取り出し、焚き火の傍の枝に掛けた。
「ここでも、鳴ってくれるかな」
風が吹いた。
ちりん――
透明な音が、夜に溶けていく。
「この風の音を、忘れないようにしよう」
真白が呟くと、鈴音が微笑んだ。
「ええ。風は記憶を運びます」
焚き火の灯が、二人の影を重ねた。
その夜、真白ははじめてこの時代の夢を見た。
風が旗を揺らし、人々の声を運び、そして彼女の名を呼んでいた。




