第1章 風鈴の祈り 第2節 夏の嵐
家に帰るころには、空が鉛色に沈んでいた。
風は湿っていて、遠くの海から何かが押し寄せてくるような匂いがした。
真白は傘を持たずに歩いていた。
鞄の中の風鈴が、小さく鳴っている。
その音が不思議と心を落ち着かせてくれた。
「今日は、嵐になるね」
誰に言うでもなく、呟いた声が風に溶けた。
学校から神社までは歩いて十五分ほど。
小高い丘の上にあるその神社は、町の人もあまり訪れない。
だが真白にとっては、“帰る場所”のような場所だった。
鳥居をくぐると、風が急に冷たくなった。
空気が張り詰め、境内の木々がざわざわと身を震わせる。
石段の上には小さな祠があり、その中に古びた鈴と紙垂が垂れ下がっている。
真白は鞄から風鈴を取り出した。
夕闇の中、淡く光を反射して揺れるその姿は、まるで生きているようだった。
「おばあちゃん……」
声を出した瞬間、雷が遠くで鳴った。
一瞬だけ光が空を裂き、雨の匂いが風に混じった。
真白はそっと風鈴を祠の横に掛けた。
その音が鳴るたび、胸の奥の何かがほどけていく気がした。
孤独も、寂しさも、何もかも――この風が連れて行ってくれるように。
「……もし、もう一度、誰かとちゃんと話せるなら――」
その言葉は途中で風にかき消された。
雷が近づいてきて、木々の影が踊る。
真白は両手を合わせて祈った。
風鈴が強く鳴り、風が頬を叩いた。
その瞬間――世界が静止した。
音がすべて消えた。
雨の匂いも、風の冷たさも、光も闇も、一瞬で凍りつく。
真白の視界に、風鈴だけが残った。
青く光りながら、ゆっくりと宙に浮かび上がる。
「……え?」
声を出そうとしたが、息が詰まった。
胸の奥が強く締めつけられる。
心臓の鼓動が、耳の奥で鈍く響く。
風鈴の光が広がり、真白の足元から空気が波打つように歪んでいった。
空間が軋む音。
光がねじれ、夜の闇が反転していく。
――“風は、想いを運ぶ”。
祖母の声が、どこかで聞こえた気がした。
次の瞬間、真白の体は風の中に溶けた。
浮かぶ感覚も、落ちる感覚もない。
ただ、風そのものになって流されていくような――そんな奇妙な心地よさがあった。
目の前に広がるのは、青白い光の帯。
その奥で、誰かの声が聞こえる。
男の声。必死に何かを叫んでいる。
風の唸りに混じって、その声がだんだん近づいてくる。
「――殿! お逃げくだされ!」
真白の目が見開かれた瞬間、光が弾けた。
そして、視界が暗転した。
風の音だけが、ずっと鳴り続けていた。




